第1014話 ひるのおうじ
体がだるい。頭がおもい。
慢性的な倦怠感。
仕事に追われる日々のなか、ちょっとずつ注ぎこまれた疲労によって、命が薄められていく。
足もむくんでいるし、最悪だ。
それでも明日の仕事に向かって、時間は進み続けてしまう。
本当に厭になる。
睡眠だけが、唯一、わたしを癒してくれる。
――夢のなかで、”ひるのおうじ”が、わたしを待ってくれている。
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おばあちゃんの家の裏庭。
子供の頃の、わたしの遊び場。
もう何年も訪れていないその場所は、過去と変わらぬ緑の光で満ち溢れている。
池の傍。ふかふかとした苔の大地に仰向けに寝そべって、青い空を眺める。
夢だからか、それとも、単に疲れているだけか、姿勢を変えることはできない。
四肢を投げ出し、目は雲へ。
しばらくすると、耳元で彼が囁いた。
「おじょうさん。また会いましたね」
紳士的で、優しげな響き。
わたしの視線は空に吊り上げられてしまって、彼の姿は見えないけれど、きっと素敵な人に違いない。
彼は”ひるのおうじ”。昼の王子様。
はじめて出会ったとき、わたしが尋ねると、彼はそう名乗った。
――やりとりを、まだ覚えてる。
『これって夢のなか?』
わたしが言うと、彼が答える。
『そうです。お久しぶりですね』
『誰だったかしら』
聞き覚えのない声。覚えていないぐらいに昔の知り合いだろうか。中学生とか、小学生とか、幼稚園なんかの。
『ぼくは、ひるのおうじ』
『王子様なの?』
『ええ。一応は』
『夢なのだから、いまは夜でしょ。なのに昼だなんて、変だね』
『面白いことを仰る方だ』
『そうかな』
『そうですとも』
ふたりでくすくす笑っていると、その日の夢から目が覚めた。
めずらしく、すっきりした朝。
足のむくみも、ずいぶんマシだ。
わたしは気分よく出勤して、くたくたになって、夜、ベッドに帰ってきた。
それからは頻繁に、夢で王子様に出会うようになった。
場所は同じ。おばあちゃんの家の庭。池の畔。わたしは仰向け。視界は空。体を包むやらわかな苔。そして、耳元には彼の声――
――ひんやりと冷たい彼の指か、唇が、そっとわたしの首筋に触れた。
夢の思い出から、夢へと引き戻される。
「ぼうっとしてた。なんの話だったかしら」
太陽が高く昇って、雲がゆったりと流れている。
この夢の世界はいつも真昼間。
だから、”ひるのおうじ”なのだろうか。
そんなことを考えていると、不意に彼が、
「あなたを愛しています」
「ありがとう」
もう、何度聞いたかもわからない告白。
夢であっても、好意を示してもらえるのはうれしい。
いや、夢だからこそ、わたしにとって都合よく彼がふるまってくれているのか。
慣れてしまうほどに、彼はわたしに愛を伝えてくれた。
でも、そんな王子様は、夢から覚めるといなくなってしまう。
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「大丈夫?」
同僚が心配げに訊いてきた。
「なにが?」
「あなた、なんだか顔色悪いよ」
こんなことをよく言われるようになった。
王子様の夢を見るようになってから。
蒼白いとか、やつれたとか、元気がない、みたいなこと。
鏡を見れば、たしかに言われている通りの顔。
蒼白いし、やつれているし、元気もなさそうだ。
こういう顔を、映画なんかで見たことがある。
そう。まるで、吸血鬼に噛まれた人みたいな……
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「おじょうさん」
夢で彼が呼んでいる。
突き抜けるようなさわやかな空。吹く風はすがすがしくって、春だか、秋だかの和やかな香りを運んでくれる。
けれど、それに混じって、なんだか妙なにおいがすることに、わたしはずっと前から気がついていた。
たとえば、ごはんを食べていて、ほっぺの内側を噛んでしまったときのような。
前をよく見ずに歩いていて、壁に鼻をぶつけてしまったときのような。
紙で手を切ってしまって、傷口を舐めたときのような。
――血の香りだ。
彼が吸血鬼かもしれないなんて考えていたから、夢でも、そんなにおいを感じるようになってしまったのかもしれない。
わたしは目をつぶって、夢を閉ざした。
彼の気配が近づいてくる。血の香りも。
首筋に、なにかが触れた。
突然、恐怖で胸がしめつけられる。
思わず腕を振り回した瞬間、声にならない悲鳴が聞こえた。
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闇。夜だ。ベッドの上。
どうやら夢のなかだけでなく、現実でもわたしは暴れていたらしい。
くしゃくしゃになっている布団を跳ね除け、ベッドサイドの明かりをつける。
首に違和感。
それから、自分の手を見ると、血の赤と、ぶよぶよしたなにか。
無意識に叩き潰していたそれは、おおきな、おおきな、一匹の蛭。
おばあちゃんの家にいくと、池の近くでよく蛭に噛まれた。
なつかしい。気持ち悪い。
きっと、これが、蛭の王子様。




