シャツのボタンはしめましょう
サクラは魔法学園生活をするのにいっぱい、いっぱいになっていた。セオドアにはまだ会えていない。校舎が違う一年と三年では接点がなく、廊下ですれ違うことすら叶わない。こっそり彼を見に行きたいとは思ったが、まずは勉強と、サクラは生真面目に取り組んでいた。
その代わり、エリーとはずいぶん仲良くなり、ちゃっかり推しの情報をもらっていた。
リオとは、同じ寮生のよしみで、なし崩しに一緒に勉強をすることになった。
最初は彼がいつ脱ぐのか警戒していたサクラもリオの笑顔に絆され、すっかり彼をくん付けで呼ぶようになった。
リオも愛称を気に入り、サクラを呼び捨てにするようになる。
桜の花が舞い散り、葉桜になった頃。
学食で勉強をするのが、すっかり二人の日常になっていた。
学校の授業は基礎が終わり、魔法の実技に入っている。最初に習うのは、灯火の魔法だ。火・水・風・土。古来からある四大魔法の基礎を習うのが一年生の授業だった。
リオは学食の椅子に座り、文字しかない教科書を難しい顔で見ていた。
サクラは彼の横に座り、ノートを広げて今日の授業の復習をしている。
リオはため息を吐いて、教科書を投げ出した。
「はぁ、さっぱり分からない。つまり、人が魔法が使う方法っていうのは、なんなんだ? 目に力を込めるって、どういうことだ?」
リオの声にサクラは走らせていた羽ペンを止める。
(魔法は頭で考えたイメージを目を映写機にして、現実に再現するのよね。再現するための呪文が必要だけど)
サクラはノートに羽ペンで、人の横顔のイラストを描いてみた。
新入社員だった頃をふと思い出したのだ。
強面の先輩には、会社の資料作りを散々、叩き込まれていた。
文字じゃなくてイラストを使え。資料は一枚。何が言いたいのか、一枚で端的に伝えろと言われ、サクラは死んだ魚の目のようになりながら、資料を作っていた。
教科書は文字しかなく、辞書のようだ。これでは分かりにくい。サクラは挿絵を作るつもりで、ペンを走らせてみたが、できあがったイラストは、棒人間に目をつけたものだった。
(うっ。へたくそな絵だな……)
サクラはおずおずと書いたイラストをさしだす。
「リオくん。魔法の使い方って、こういうことだと思いますよ」
リオがノートを見る。金色の瞳が大きく開いた。
「わっ。すげえ! よく分かる! サクラ、絵が上手だなあ」
「そ、そんなことないです……」
「謙遜するなって! ん? これは火か?」
「今、やっているのは灯火の魔法ですから、火のイメージを強く持って、目で映写するってことですね」
サクラは口の横に呪文を書いた。
「《灯れ!》って、言うと火が出てきますよ」
「ふーん」
リオはノートを手に持ち、イラストをしげしげと見る。彼の金色の瞳が、燃え落ちる太陽のように光った。
「《灯れ!》」
彼が呟くと、ノートの真ん中に煙草を押しつけたような小さな黒い穴が開いた。穴からは、煙が立ち上り、紙は燃えていた。
「あ、できた」
(できちゃっているぅぅぅ!)
サクラは青ざめ、リオから素早くノートを取り上げた。席を立って、食堂の隣にある料理場へと走る。
(か、火事になるわ! 水! 水! みずぅぅぅ!)
大急ぎで料理場に行くと、チェリーがいた。彼女は夕食の支度をしているようだ。
「あら~、サクラさん、どうした――」
「――水をお借りします!」
チェリーが言い終える前に、キッチンの洗い場に駆け寄る。転がるように走りよると、洗い場には、蛇口のついたガラス製の貯水タンクが二つ見えた。
青にも紫にも見える魔石が入ったタンクが水用だ。サクラは蛇口の下にノートを広げて、水を出した。
燻っていた煙は、水をかけるとすぐに消えた。サクラはほっとして、蛇口をひねる。水浸しのノートを摘まんで、ため息を吐いた。
(よかった……火事にならなかった……)
どっと疲れた。
もう一つ、ため息を吐いたとき、リオが調理場にやってきた。
「サクラ、ここにいるのか?」
悪気のない顔を見たら、ふつふつと怒りが込み上げてきた。サクラはリオに向かって、冷淡に言う。
「リオくん。水のない場所で、火魔法を使うのはやめましょう。小さな火でも、紙に燃えたら、あっという間に燃えます」
火の用事。灯火魔法は、火事の元である。
リオはバツが悪そうに首をすくめた。大きな黒淵の眼鏡が、ずるっと鼻先にまで落ちる。
「あら~、水晶玉のないところで、魔法を使ったの~。ダメよ~、危ないからね」
チェリーが声をだす。
「一年生は水晶玉のなかで、魔法を使うのよ。水晶玉の中で魔法を使えば、外には漏れないからね~。わかった~?」
「はい……」
リオが下がった眼鏡の両端を指で摘んで持ちあげる。
「サクラ、ごめんな。ノートをダメにしちまった」
「ノートはもう、いいです。リオくんが火傷しなくてよかったです」
やっと力を抜いて笑うと、リオは頬を赤くした。
「ありがと。ノートは弁償する」
「え? 代えもありますし、いいですよ」
「それじゃ、俺の気がすまない。ノート、買ってくる!」
リオはそう言って、走って行ってしまった。あっという間にいなくなってしまった。サクラはびしょ濡れになったノートを見つめる。
(本当にいいのに……売店に買いに行ったのかしら?)
学用品は、学園の入り口近くのお店で売っていた。寮から走って、帰ってくるには距離があるはずなのだが。
「ただいま!」
(えぇっ?! もう帰ってきた!)
息を切らせて走ってきたリオに仰天する。リオは鼻先までずれた黒淵眼鏡をなおし、サクラに歩み寄る。額には汗がにじんでいて、頬は紅潮していた。リオは笑顔で新品のノートを差し出す。
「はい」
「あ、ありがとう……リオくん、足が速いんですね……」
「ん? 全力で走ってきたからな。……汗かいた。あっちい」
リオはうっとおしそうに着ていたシャツの第一ボタンを外す。次に第二ボタンまで外し、首もとを寛げた。
童顔に似合わず、男性的な首筋があらわになる。
顎を伝った汗が、うっすらと浮かんだ喉仏を通っていく。鎖骨のくぼみからも汗が流れ落ち、意外なほどに厚い胸板が見えた。
あの手この手で脱がされるキャラの本領発揮である。
目の前にある光景の意味を理解して、サクラは火がついたように顔を赤くした。
(お胸をしまってくださぃぃぃ!)
「リ、リリリ、リオくんっ! シャシャシャっ!」
「シャ?」
「シャツを! シャツを!!」
口が回らずもたもたしていると、リオはズボンのポケットから一つの菓子を取り出した。包みをはがして、サクラの口に放り込む。
(むぐっ! ……むぐむぐっ……ん? 甘い。チョコレート?)
ビターな甘さが舌に広がる。むぐむぐ口を動かしていると、リオは屈託のない笑顔になる。
「それ、俺のお気に入りの菓子なんだ。旨いだろ?」
こくんと頷く。
「サクラのおかげで、魔法の使い方がわかった。明日、テストだから助かったよ。ありがとうな」
ノートを胸に押し付けられた。受けとると、リオは笑顔で出ていってしまった。
サクラはお菓子を飲み干して、首を傾けた。
(テスト……? なんかゲームで見たような……なんだっけ?)
答えは見つからず、翌日になった。