2.3
ハッと目覚める。
(帰ってしまったか……)
真っ暗闇の中、近くに温もりがなかったのでそう思ったのだが。
近くで小さなくしゃみの音がした。
ベッドから少し離れた所に置かれた椅子にユーリが腰掛け、腕を組んで眠っていた。
彼女の姿を認めた途端、心に温かい感情が広がっていく。
(まるで主人を見つけた飼い犬のようだ。彷徨っていた心があるべき居場所を見つけたような……)
エストラーダは彼女をできる限り優しく抱き上げ、ベッドに横たえた。
「今生の貴女は随分お優しいようだ。……代わりに俺は長い時間の中で随分人間に染まってしまったかな……」
彼はユーリに静かに口づけようと顔を近づけた。が、あと3センチというところでそれは魔術結界に阻まれなされなかった。
「これはこれは……。一番厄介な奴が近くにいるようだ」
彼はユーリの髪を一房掬って口づけた。
「仕方ない、今日はあいつの執念に免じて許そう」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
なんだか変な夢を見た。真っ黒い大型犬に懐かれて、大きな体躯でのしかかられながら舐められる夢。くすぐったくて、可愛らしくてふさふさの体毛をよく撫でていた。
「ずいぶんと積極的なことだ」
犬と思っていたふさふさの体毛はエストの頭部で、ユーリは彼の頭を両腕で抱えこんでいた。つまり彼を胸元で抱きしめるような体勢で目覚めた。
「ふぎゃあ!」
思い切り後ずさり、狭いベッドで落っこちそうになる。エストがユーリの腕をゆったり引き、頭が地面すれすれで転落を回避した。
「なんで隣で寝てるの!」
彼はユーリの上体を引き上げ、ベッドの上で抱きしめようとする。彼の肩を掴んでそれを拒否する。
「おはようございます」
拒絶されてもにっこりと美しい微笑みをたたえ、彼は挨拶する。その美しい微笑みを見て、ユーリの頬はピクッと引き攣る。
「何かした……?」
「何か、とはなんでしょう?」
ユーリははぁ、とため息をついた。
「随分元気になったようね。それじゃあ私は帰らせてもらう」
「つれないですね、久しぶりの再会なのに……」
「もうその手には乗らない。私にとっては初対面なの。あなたに付き合っているとこっちの身が持たない」
「一緒に暮らしましょう?」
「……却下」
「では人間で言う結婚をしませんか」
「なに『譲歩した』みたいな顔してんの……。ありえない」
「なぜ?」
本当にわからない、とでも言うような顔だ。
「なぜって……」
(初対面だから? 振り回されているから? ……違う、言い訳に使うみたいで心苦しいけど……)
彼をまっすぐ見つめた。
「私、気になっている人がいるの。この感情がどんなものか自分の中でもまだよくわからないけど、大事に育てたい気持ちがある。だからあなたとは結婚できない」
彼はきょとん、という顔をした後、一瞬瞳に剣呑な光を宿した。それもすぐに消してにっこり微笑んだ。
「その相手とは、思いを通わせていらっしゃる?」
「……いや、まだ全くだけど……」
(なぜそんなことを言わなければならない……)
「そうですか。思いが通じるといいですね」
彼はまるで上手くいくわけがない、とでも言うかのように余裕の微笑みだ。
「とりあえず、もう帰らせてもらうよ。リリスも心配しているだろうし」
「お見送りしましょう」
今度は素直に――彼の素直さが少し怖く感じるが――送り出してくれるようだ。
「いや、ここまででいいから」
「いえ、家までお送りします。もちろん」
森の出口で押し問答していた。
(こいつ……家までついてくる気か! 家知られると絶対駄目なやつだ……)
彼は優秀なストーカーになりそうな気がする。
「総帥閣下はお忙しいでしょうから遠慮します!」
「つれないな、エストと呼んでくださらないのですか?」
ぎゃあぎゃあと(主にユーリが)騒ぎながらの会話もエストはなんだか楽しそうだ。
結局家まではついてこない代わりに『エスト』と呼ぶことを了承させられてしまった。
「それじゃあね……エスト……」
期待されているとなんだか気恥ずかしくなり、最後の方は彼を見ずに呟いた。なので名前を呼ばれた瞬間の彼の嬉しさと切なさが入り混じった表情をユーリが見ることはなかった。
「はい、ユーリ様」
『様』はつけるな、と言い含め、ようやく彼と別れた。