新しい関係
今度の主人はとても優しい人間だった。
初めて部屋の中へ入れて貰った時は、戸惑いもあったけれど嬉しさの方が大きかった。以前の主人は一度たりとも家の中にすら踏み入れる事を許してくれなかったから。
広い部屋には可愛らしいおもちゃとクッションが沢山あって、どれも見たことの無いものばかりで新鮮だった。
「リーファ。そんなにきょろきょろしたら迷惑だよ」
兄が静かな声で僕に注意を促した。そんなに色々と見ていたのかと自分でも気付かなかった事に驚きだ。此処には興味を唆られるものが溢れていて今すぐにでもはしゃぎたい気分だった。
「好きに使って良いですよ。この部屋は貴方達の為に用意したのですから」
主人は優しい笑顔で欲しい言葉をくれた。
「本当に良いんですか?ボクらに与えるには勿体ないくらいですけど……」
「私は、楽しみにしていました。貴方達と一緒に暮らせる事を夢見ていたのです」
「ボクらと?」
「はい。立場上、人と関わる時は仕事位しかないので、遊べる友人が欲しかったんです」
「マ、マスター!ダメです……!ボクらを友人などと大層な事を言っては……」
慌てて否定する兄を他所に、主人はきょとんとした表情を浮かべていた。
「フィーレン、リーファ。この家では、貴方達と私は対等な立場です。好きなように生活して良いのです。主従関係もありません。なので私の事はアスラとお呼び下さい」
「……い、いえ……そんな……呼べません……」
「立場など関係ありません。誰に何を言われようが、私は私のやりたいようにやるだけです。二人も、自由気ままに日々を過ごすと良いですよ」
主人……もとい、アスラは穏やかな声で僕達の気持ちを汲み取ってくれた、ただ一人の人間だった。
今までの暮らしと比べたら、僕らには充分過ぎるくらいの生活が始まった。
僕らの部屋は思い切り走っても広いと感じる程の大きな空間で、網の仕切り板も無いし、床も暖かかった。暇を感じることすら忘れてしまう位、沢山の玩具もあって、何よりふかふかのお布団は気持ちよかった。兄と話していても怒られることは無く、一緒に遊びたいとアスラを呼んでも怒鳴られることも無かった。寧ろ、アスラの方から一緒に遊びましょう!と楽しい時間を広げてくれた。
美味しいご飯も毎日用意してくれるし、芸をしなくてもおやつをくれた。お水だって朝昼晩と変えて貰えて、お腹が痛くなる事も減っていった。
アスラは不思議な人間だ。僕らに優しくしてくれるし、痛いことは絶対にしない。散歩も、行きたい所があると行ったら連れて行ってくれる。初めて知る人間の優しさに、僕は今までの事を思い出してしまい、その夜、泣き出してしまった。
「リーファ?どこか具合悪いのですか?」
兄を起こさないように声を押し殺していると、静かにアスラが隣に座って声を掛けてくれた。
「……い、嫌な、こと……思い、出して……」
「此処に来る前の事ですか?」
「……はい……。急に……込み上げてきて……。ごめんなさい……アスラ……。すぐ……泣き止む、ので……」
「我慢なさらず、思い切り泣いて良いのですよ。泣きたい時はひたすら泣いてスッキリした方が楽になります」
「……いいの……ですか……?」
以前の主人は、すぐに泣き止まないと殴るぞと脅してきた。ほんとに殴られて痛みでまた泣きそうになったのを汚物を見るような蔑むような目で睨まれた。あれは痛い。心も身体も。
「泣きたい時は泣きなさい。言いたい事があれば何なりと言って下さい。我慢は身体にも悪影響ですから」
「……ありがとう……ございます……」
「相当、辛い思いをされてきたのですね。フラッシュバックは防ぎようがありませんから。衝動には従え、です。だから、一人で肩を震わせて泣くのはもうおしまい。今度は、私の胸の中で思う存分泣いてください」
「……アスラ……」
そんな優しい言葉をくれたら、もっと泣いてしまう。
包み込むように差し伸ばされたアスラの手に沿うように、僕は彼の胸の中で号泣した。
今まで溜め込んできたものを一気に消化したせいか、身体が軽くなった感じがした。よく眠れている事も影響しているのだろう。起きたらアスラがご飯を用意してくれて、頭を撫でてくれる。それがとても心地よかった。
「それでは、お留守番、よろしくお願いしますね」
アスラは時間通りに仕事に行く。僕らが聞いてもよく分からない職業だった。陽が沈む頃には帰ってきてご飯を作ってくれる。家の中では僕らと一緒に遊んだり、テレビを見たり本を読んだりと寛いでいる姿しか見たことがない。仕事の電話が来ても僕らを邪険にしたりせず、寧ろ電話相手に時間を考えて下さいと注意していた。アスラは本当に不思議な人間だ。彼と居ると優しくして貰える事が当然のように錯覚してしまう。
そんなこと、ただの我儘だって分かっていたのに。
「リーファ!」
いつものようにアスラが仕事へ行っている間、僕らは外で遊んでいた。陽の光もいっぱい浴びてとても気持ちよかった。だから、はしゃぎすぎて忘れていたんだ。
僕らは人間以下の《モノ》だという存在に。
何がいけなかったのか、いきなり見知らぬ青年が現れて僕を睨みつけながら蹴り飛ばしてきた。
「煩いんだよ、朝っぱらから!灰族の分際で!」
ビリビリと空気が震える位の大声で叫ばれ、蹴られた箇所に響いた。感触では骨まではいってない。痣が出来る位の加減。
「何をするのですか!」
僕を背に庇いながら兄が青年に牙を剥く。
こういう事は初めてじゃない。寧ろ慣れている。
「こっちは仕事してんだ!外で騒ぐな!」
「だからって、蹴る事はないでしょう!」
「……お前、誰に向かって口利いてんの?」
青年は、今度は兄に近付きながら冷たい視線を落としてきた。
「人間様に楯突くとはいい度胸じゃねーか!」
「……ぅあっ……!」
ガシッと兄の髪を掴んでそのまま片手で兄を持ち上げる青年。僕らはまだ子どもで大人に対抗出来る力は実っていない。どんなに兄がバタバタしようが大した抵抗にもならない。
「フィーレン!」
「煩いのはこの口か?」
「やめて……!フィーレンを放して……!」
「やめて?なに命令してんだ!」
ガンッと今度は頭を蹴られ、視界が揺らいだ。痛みより目眩が酷く、暫く立てそうもなかった。
「可哀想な奴らだ。奴隷にもなれず、灰族に堕ちるとは残酷な未来だなぁ?お前ら、羽無しだろ?王族の匂いが嫌でも分かる」
この世界の階級はとても残酷だ。
一番偉いのが国王。王族。王家の人間。
その下が上級国民。いわゆる富裕層。王家とも関係が深い人間。
その次が平民。一般人。ただの国民。仕事して税を納めていれば平和に暮らせる。
そして、親も親族もいない、孤児などが奴隷として辛い仕事をさせられている。奴隷市場で買われて行くのは見た目が綺麗な子か頭がいいか。でも、買われた先で死んでいった子も多いと聞く。
奴隷の方がまだマシだと言われるのが、僕らみたいな灰族。
灰族は、人間様に飼われる為に生かされている存在。要は人間様の暇つぶし玩具。主従関係を結ばされ、飼い主には絶対服従。逆らったら即廃棄。生き方も死に場所も選べずにただ生きているだけの《モノ》でしかない。
羽無しは、王家や王族の人間が何かしらの事情で灰族になったものを指す。僕らみたいなケースはとても稀だ。羽無しなんて周りにはいなかった。
「無様だなぁ。生きる意味なんて無いだろ?俺が安楽死させてやるよ……」
「お前が決めるな」
「…えっ……」
「可哀想とか無様だとか、何も知らないお前が決めるな!」
フィーレンは力を振り絞って青年の腹に蹴りをかました。不意打ちを喰らった青年はフィーレンを放し、咳き込んでいる。
「フィーレン!」
「リーファ……。頭は……」
「少し治った……」
「ガキが……。調子に乗ってんじゃね……」
「──それ以上は、やめて頂けませんか?クルスラベルさん」
青年の背後にはいつからいたのか、アスラが立っていてとても静かな声で殴りかかろうとしていた青年に囁いた。その声色からも分かる。アスラはものすごく怒っているのだと。
「……アストライア……」
「うちの子が迷惑をかけたのなら謝ります。申し訳ありませんでした」
「……あ、あんたに謝罪されても無意味なんだよ!」
「何が気に障ったのでしょうか」
「煩いんだよ!たっかい声でキャンキャン鳴かれて迷惑だ!」
「それは失礼致しました。私の不注意です」
「ちゃんと躾しておけよ!今度騒がしくしたらセンターに連れていくからな!」
「……はい」
まだブツブツといいながら青年は帰っていった。
「怖い思いをさせてしまいましたね」
アスラは振り返りながら僕らに微笑んだ。
「……あ、アスラ……。なんで……」
「早めに終わったので直帰したのです」
「……ごめんなさい……。僕らの所為で……アスラに迷惑……かけて……ごめんなさい……」
僕らは泣きながら謝った。アスラは何も悪くないのに僕らの所為で頭を下げさせてしまった。とんでもない失態だ。主人に対しての冒涜だ。また……返品させられてしまう。
「貴方達が謝る事はありませんよ。そんなに泣かないで、中に入りましょう」
「……えっ…」
「わ、悪いのは僕らなのに……」
「リーファとフィーレンは遊んでいただけなのでしょう?誰かに何かしたんですか?」
「……してない……。遊んでただけだよ……」
「なら、問題はありません。あの方は気が短いのでしょう。気にすることなどありませんよ」
「……ば、罰は……?お仕置は……?」
「はて……?あぁ、そうですね。罰として、一緒にパンケーキを作って下さい」
「……え?」
僕らは拍子抜けしてしまった。以前の主人は、お仕置だなんだと熱湯を浴びせてきたり何日もご飯を与えてくれなかった。
「パンケーキ……?」
「材料を多めに買ってきたので、たくさん作れますよ」
ほらほら入って、と家の中に促され、僕らはアスラに言われるがままに動いた。
「お菓子作りは苦手なんです」
キッチンに行き、アスラから渡されたエプロンを巻いているとアスラが困り顔で呟いた。
「僕らも、初めて作るよ……」
「食べた事もないからよく分からない……」
料理とか一通り習っておけば良かったと後悔した。
僕らの母はとても料理上手でいつも豪勢な食事に幸せを感じていた。それがもう二度と味わえないなんて、そんな日が来ることすら思い描かなかったんだ。
「大丈夫です。説明書通りにやれば何とか……」
とは言うものの、アスラも慣れないことにあたふたしている。普段は落ち着いていてテキパキとやっているから、見慣れない仕草に新鮮さを感じる。
「とりあえず書かれている通りにやりましょう」
半分諦めたのか、どうにかなるという意気込みでアスラは腕まくりをし作業に取り掛かった。
その後は大変な騒ぎになった。
アスラが小麦粉をばら蒔いてみんな真っ白けになって、その姿がおかしくて3人で笑った。
何とか出来た下生地を焼いてひっくり返した時に上手く出来なくてへんてこな形になってまた笑った。
材料は多めにあったから何枚でも挑戦出来た。僕と兄もやり方を覚え、上手く出来るとアスラに褒めて貰えた。
「意外と出来るものですねぇ」
「何枚か失敗しちゃった……」
「大丈夫ですよ。ちゃんと美味しくなるトッピングも用意してありますので」
出来上がったパンケーキに、蜂蜜やらシロップやらをかけて、僕は生クリームもかけた。最後にいちごを乗せて貰って完成した。
「凄い……出来た……」
「やれば出来るという事ですね。二人とも、ありがとうございます」
さぁ、食べましょうと3人席に着き、味を確かめる。ふわふわで甘くて優しい食感にほっこりした。
「自分達で作ったものは格別ですね!やり方は覚えましたし、また作りましょうね」
何より、アスラが喜んでいる事が嬉しかった。『また』という言葉にも温かさを感じ、また泣きそうになってしまった。
「今度は上手に作る」
「僕も」
「楽しみにしていますよ。私も頑張ります!」
その日の夜は温かい気持ちになりながら夢の中へと浸った。