第69話 とある商人の目論見(もくろみ)。避けられる戦い、避けられぬ戦い
話は数日前に遡る…。
ガントンたちドワーフの一行がミーンの町にたどり着き、新しい商家の建設にたずさわる為に来た日である。
しかし、依頼主の商家の建設に必要な資材はまだ集まっておらず、これでは工事を開始しても工程が途切れ途切れに、あるいは職人たちのやる事が無い状態である。しかし、人夫を雇っている以上は拘束している日数は給金が発生してしまう。それにガントンはなんと言ってもドワーフの職人たちを束ねる棟梁である。また、日をおいて到着するというこれまた木工職人、大工として名を知られるゴントンもまた棟梁の地位にある。雇い入れた商家は仮に小石一つ、小枝一本も運ばなかったとしても、彼らにその地位に見合った高い額の給金を支払わねばならない。
そこで商家側が思い付いた窮余の一策が、一度依頼を取り消しする事であった。こうする事で少なくとも資材が揃わないで工事が始められないと思しき五日間、ガントンをはじめドワーフの職人たちの給金を支払わずに済む。
さらには、その待っている五日の間にドワーフたちが路銀を使い果たして金に困るようであるならば、ガントンたちをどうか来て下さいと『請い招いた』筈である商家が、逆にドワーフたちがどうか働かせてくれと『頼み込んで』くるのを拾う側に変わる。
拾う…。そう、俺が食い詰めたドワーフどもを拾ってやるのだ…。
商家の当主はそう考えた。
そうなればドワーフどもの給金を叩けるだけ買い叩けば良い。金が無く困っているのだ、並の職人程度の給金でも喜んで働くだろう。もしくは食欲旺盛なドワーフの事だ、その給金では腹を満たす程の食費に事欠くようなら現物支給とでも銘打って、安く大量に手に入る酸っぱい黒パンと野菜クズでも入ったスープでもそこら辺にいる辻売の物を鍋ごと買って量をくれてやれば喜んで働くかも知れない。ならば、余計に給金は抑えられる。
ドワーフ族でも名の知れた棟梁の地位にあるような職人の技巧を凝らした建築を、タダ同然で手に入れられるかも知れない。最早笑いが止まらなかった。
「そう、棟梁だろうがドワーフだろうが、金の前にはクソ野郎同様にひざまずく。いや、このブド・ライアの前にひざまずくんだよ」
男は口元を指でこすりながら誰に聞かせる訳でもない独り言を吐きながら、満足そうな笑みを浮かべていた。
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「それにしても…、見事な猪ですね。狩猟るのは大変だったんじゃないんですか?」
ガントンがミーンの町に到着し、建築の雇用関係を一度解消しゲンタと出会った日の夜の事。猪肉のステーキ、そして、肉をカットする際に出た端切れ肉を漬け込み用の焼肉のタレで揉み込む…いわゆる『揉みダレ』の焼肉で一堂が舌鼓を打ち、焼酎をドワーフが痛飲していた時に漏らしたゲンタの感想だった。
塩胡椒、さらにナツメグの効果で肉の旨味を引き出し、香辛料は臭みを消し甘い香りさえ付けて食べる肉。また揉みダレの焼肉はゴントンが大絶賛、ガントンもその新たなる美味を楽しんだ。
肉に酒、さらにパン。すっかりドワーフたちは胃袋を掴まれていた。そして井戸周りのコンクリート、初めて目にした時にガントンは思わず四つん這いになりその手で表面をなぞった。少なくとも石工の棟梁と言われる自分だが、少なくともこんな技術は持ち合わせていない。
思わず笑みが溢れた。声さえ上げて笑った。
先程のゲンタの問いにご馳走と酒、さらに未知の技術
に感服していたガントンは上機嫌で返答えた。
「猪というのはの…、案外と臆病なのじゃ。いや、獣全般に言えるかも知れんがの…」
「えっ!すぐに突っ込んで来たりするのにですか?」
僕は驚いて聞き返した。
「猪というのはの…、存外に目があまり良くないのじゃ。変わりに鼻が利く。見た事は無いか?猪が地面に鼻を押し当て何か食える物を探しておるところを」
そういえば…、僕の住む山間部ではたまに猪が出る。その猪は畑のサツマイモを嗅ぎ付け器用に掘り起こし嚙っていく。またヨーロッパだったか高級キノコのトリュフを猪の近縁種、豚に探させるという。森の中の地中に育つトリュフを豚の嗅覚を頼りに探させ、見つけたら人が掘り起こし採取する。
「そう言えば聞いた事があります」
「うむ。それでの、猪は追われたり突然何かと遭遇したりすると走り出すのじゃ。周りを見る余裕も無くの…。つまりじゃ…、どんな獣でも鳥でも動き出す時は一瞬グッと身を沈める。猪はその時に首が向いている方向に駆け出すのよ。つまりそれさえ分かれば、次に何処に動くのかはバレバレじゃ。そこを衝けば良いだけの話じゃあ!」
豪快に笑いながらガントンさんが説明する。
「ゲンタ君、あんまり気軽に考えちゃダメでやんすよ。これは親方のような強さがあって初めて出来る話でやんすからね」
ベヤン君の追加説明に僕はだよねーと応じた。仮に僕が同じ場面に出くわしても、何にも出来ないだろう。
しかし猪突猛進なんて言葉があるのに…、その実情はパニックになった猪がその場から走り去りたいだけだったなんて…。人間が猪は獰猛とさえ思っているのに、猪は逃げ去りたいだけという…。フタを開けてみればなんとも拍子抜けな真実であった。
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森の奥から現れた一体の巨大猪…。
巨大猪は勿体ぶるようにのそり、のそり…、ゆったりとした足取りで一行に近づいてくる。そしてある程度の距離まで近づいてくるとその歩を止めた。そこまで来ると、ナジナたちにも猪の詳しい様子が見えた。
その顔には大小幾つもの傷があるが、他の体の部分にそれらしき物はない。縄張りが、食べるものか、あるいは繁殖期に雌を巡っての雄の争いか…、はたまた外敵によるものか…。ただその全ての傷を真っ正面から逃げずに顔面で受けて来たのだろう。そして勝利してきたのだろう。積み上げてきた強さの歴史、そんな物が表れたような雄の顔であった。
巨大い…、なにもかも。普通のサイズの猪の体のパーツ全てを何倍にも拡大したような…。口元にある大きな牙はいかにもといった凶悪さをのぞかせる。猪お得意の猛進を伴って命中すれば、ナジナの着込んだ分厚い鉄の鎧でさえ薄絹のように引き裂いてしまうだろう。
そして、これまた巨大な両の瞳がぎょろりと動く。ゴントン、ナジナ、ウォズマと順に眺める。それはガントンにも、残る二人のドワーフの弟子たちにも…、それぞれを値踏みしているかのように。
「古強者…じゃの」
ガントンがポツリと漏らす。
「ああ…、間違いねぇ…」
余計な動きをせず、唇だけ動かしてナジナが短く返す。
癪に触るくらいの落ち着きを見せる巨大猪、少し動いたくらいで他の猪と同じような衝動的な猛進…、いや盲進をするとは思えないが今は少しでも危険につながりそうな事はしたくなかった。
幸いな事に巨大猪の方には戦う気は今のところ無いようで、そのまま立ち去ってくれれば良いが…誰もがそう思っていた。
ひく…、ひくひく、猪が鼻を動かす。その巨大な目玉は並の猪よりも視力が良いとみえる。その目でナジナたちをそれぞれ見比べていたが、最後はやはり一番頼りになる鼻を使うのだろう。
その鼻の動きが不意に止まった。視線も彼ら六人から外れている。自分たちから興味を失ったのか、誰もがそう思った。
突如、巨大猪の全身が総毛立つ。鼻息も荒くなる。
じり…、じり…。少しずつ猪が距離を詰めて来た。
「何故、急に!?」
ウォズマが姿勢を低くし、いつでも動けるように備えながら声を発する。
「荷車だべ!」
ゴントンもまたいつでも振るえるように大斧を構え直す。
荷車、そこには山と積まれた狩猟したばかりの猪があった。同族たちの死に憤ったのかも知れない。互いの距離が縮まるにつれ高まっていく緊張感は、一息に飛びかかって来れるであろう距離で一旦歩みを止めた時に最高潮に達した。
「来るぞッ!」
ナジナが声を上げた。




