第366話 黒パンの味。
「この鍋に秘密がありそうですねェ…、そうでしょう?ゲンタ氏」
ハカセさんが顎をさすりながら言った。
「ええ、そうです。秘密はこの鍋にあり…ですね」
今回スジ肉を煮るのに使ったのは圧力鍋。煮炊きをする際、鍋の内部を高圧に保てるので水の沸点が高くなりより高温で調理出来る。その為具材の中に火が通りやすくなり、スジ肉を柔らかくさせるには長時間煮なければならないところをかなり短縮して成し遂げる事が出来る。
「どなたか山の上の方などで煮炊きをした事がある人はいませんか?」
「あるぞい!そこでしか採れぬ鉱石があっての…。何日か泊まりがけで行ったのじゃが。それがどうかしたか?」
僕の問いかけにガントンさんが応じた。
「その時、水は沸騰しているのになかなか具材に火が通らない…みたいな事はありませんでしたか?」
「なかなか火が通らない…?おお!そうじゃ、そうじゃ!山の夜は冷えるでの、体を温めようと干肉を茹でてスープにしようとしたのじゃが…なかなか火が通らんかったのう!」
「実は山の上みたいに気圧が低い…えーと空気が薄い所では水が沸騰していても実は平地のお湯よりも温度が低くなるんです」
「な、なんだってー!!でやんす!」
ベヤン君、良い合いの手ですねえ。
「そこで空気の濃い所で煮炊きするような高い温度で煮炊き出来るようにしたのがこれです。高い温度で煮込めれば当然の事ながら具材に火が通りやすくなります。すると短い時間でもこうしてしっかり柔らかくなるんです」
「うーむ、やはりそうでしたか。ゲンタ氏、この鍋を拙者に貸してくれませんかネェ…。俄然作ってみたくなりましたヨ…。難しいとは思いますが仕組みを理解してドワーフの鍛治技術にかけてもこの鍋と同じ仕組みのものを作ってみたいですネェ…」
「それに加えて今回煮炊きしたのは火精霊ホムラが生み出した炎です、それがさらにスジ肉を柔らかく煮るのに一役買ったのでしょう」
「なるほどのう…、この鍋とあの炎あっての事じゃの」
感心したようにガントンさんが呟いていた。
□
長老さんの家を後にして僕たちはマオンさんの家に戻る帰り道を歩いていた。ハカセさんは圧力鍋を上から見たり下から見たり、仕組みを解析しようと…あるいは単なる好奇心か…とにかく色々な方向から眺めている。
「あ…。姫様、少々お待ち下さいませ」
そう言って僕は見かけけた辻売(行商人のこと)から一つパンを買い求めた。
……………。
………。
…。
「姫様、まずはこれをお召し上がり下さい」
僕は先程買ったパンを一口大に切り分けモネ様に差し出した。ナイフでスライスした断面は三温糖のような薄茶色をしている。
「はい」
言われた通りモネ様は手を伸ばした。やはりモネ様の表情が曇る。
「いかがでございますか?思ったままにお話し下さい」
僕が感想を求めるとモネ様は遠慮がちに話し始めた。
「固いです…。ボソボソです、味も香りも…ちょっと…」
「これは黒パンと申します、小麦ではなく黒麦という穀物の粉を材料に使っておりまする。黒麦は小麦より寒い地域でも痩せた土でも育ちます。さりながらパンにすると固かったり酸っぱかったり…、それでも町の者たちはこのようなパンを普段口にしております」
「師父様、それはなぜにございますか?」
「安いからにございまする」
僕はまっすぐにモネ様を見た。
「小麦にくらべ黒麦は安く手に入りまする。それゆえ民は小麦のパンではなく黒麦のパンを食べるのでございます。しかし…」
「しかし…?まだ何かあるのでございますか?」
「そんな黒麦でさえ不作の年にはなかなか手に入らず飢える者もございます。また、そうして亡くなる者も…」
僕はナジナさんがいつか話してくれた故郷で亡くしたお姉さんの話を思い出していた。寒い冬、食料が無く体が弱っていったというお姉さんの話を…。
「………」
「どうか姫様、今日食べた黒麦の粉を用いて焼いたパンの味をお忘れなきよう。時として民はこの黒パンさえ手に入れるのが難しい場合がある事を心のどこかにお留め置き下さい。また、先程の犬獣人族の狩猟士たちも美味しい身の肉の部分は売り金銭を得て生活の糧にいたします。自分たちはあの固いスジ肉…あれを食べ美味しい身の肉を売った金銭で黒パンを買うのです。…それが下々(しもじも)の者たちの暮らしでございます」
僕の話をモネ様はしっかりと聞いていた。やがてこの真面目で優しい少女が成人し民を慈しむ心を持ち続けてくれれば辛い思いや悲しい思い、ひもじい思いをする人が減るだろう…そう思いながら僕は話す。ずっと考えていた僕がモネ様に教えられる事とはなんぞや…、それをおぼろげながら見つけたような気がした。