第365話 庶民が口に出来るもの。
「姫様、本日は町に出て行きまする」
「町へ…、視察でございますか?」
昨日と同じように朝の挨拶を交わした後、今日の予定を話した。今日の訪問先は犬獣人族の皆さんが多く住む地域だ。
「いえ、姫様には私の仕事を見ていただきます。今日向かうのは犬獣人族の方が多く住む地区にございます。彼らは冒険者登録をしている者も多く、優れた狩人が多いのが特徴です。本日の主な目的は私の普段の仕事の一端をご覧いただく事、そして町衆の暮らしを肌に感じていただく事にございます」
そんな話をしながら僕と姫様、そしてガントンさんにハカセさんにベヤン君、さらには侍女の方の総勢六人で歩いていた。
「坊やの兄ちゃん!!」
犬獣人族の人が多く住む地域に来ると耳や尻尾を出したままの小さい男の子がやってくる。
「やあ。今は長老さんの家に向かうところなんだ」
「知ってるよ!ラメンマの兄ちゃんたちも夜通しの狩りからさっき戻ってきたところだよ。でもさあ、兄ちゃん。ホントに出来るのかい?」
「ん?」
「アレを美味しく食べるだなんて…。いくら兄ちゃんでもそいつは無理ってモンじゃないの〜?オイラ、そう思うなあ」
僕の横を歩きながら少年は言った。
「まあ、試してみようよ。さあ、長老さんに僕が来たと知らせてきて」
「分かった〜!!」
パタパタと男の子は駆けていった。
「師父様、あの少年と何か約束をされたのですか?」
察しの良いモネ様が尋ねてくる。
「はい、あの子が嘆いておりましたので…」
そんな事を話しながら僕たちは長老さんの家に向かった。
……………。
………。
…。
「おお!よう来た。坊や!!」
なぜか分厚い鎧に身を固めた長老さんが僕を出迎えた。
「こんにちは、長老さん。この度は急なお願いを致しまして…」
「なに、構わん。そちらが領主様の姫君かの?」
「はい、モネ様です」
「ふむ、お初にお目にかかる。ワシは…」
さっそく長老さんが自己紹介を始めた。
「兄ちゃん、これだぞー!」
そんな場面をお構いなしに少年は少し離れた所で狩猟してきた獲物…、今はラメンマさんたちが解体しているそれを指差している。
「よし、やってみよう。君にも手伝ってもらうよ?」
「うん!」
少年は元気良く頷いた。
□
ぐつぐつ…。
ラメンマさんたちが狩猟した猪のスジ肉が大鍋の中で煮られている。水は水精霊セラ、火は火精霊のホムラによるものだ。
「アクが浮いてきたらその都度すくって綺麗なお湯で煮るようにね」
僕は長老さん宅の前に設置している自動販売機に塩の補充をしながら鍋を見守る少年に声をかけた。了解の声が返ってくる。この集落でも塩の売れ行きは好調だ。
「これで塩を売っているのですか?」
「はい。こちらのハカセさんが機巧を考案し、ドワーフの皆さんが製造ってくれました」
話題に上がったドワーフの皆さんは塩の自動販売機の機巧の確認をしている。何か問題があればその場で対処する為だ。幸いどこにも問題は無く在庫の補給だけで済んだ。
「この塩は本当に素晴らしいものでしてな…。この山あいに位置するミーンでは塩というのはとても貴重で高価なものでしたのじゃ。それをこの坊やが売り始めた白い塩…、品質も良く安価でワシらも手に入りやすくなったのですじゃ」
長老さんが町衆にとっての塩の位置づけをモネ様に話している。
「兄ちゃ〜ん、アクもあまり出なくなってきたー!!」
少年が呼んでいる。見てみると確かにアクが出なくなっていた。
「よし、じゃあ鍋を替えてもう一度煮ていくよ」
そう言って僕は下茹でしたスジ肉を一口大に切り、さらには自販機に塩の補充作業している間に犬獣人族の奥様方に切っておいてもらった野菜を加えたものを新たに取り出した鍋で煮始めた。
「これで四半刻も煮て、最後に仕上げしてやれば完成だ」
「ええ〜、ホントかい?それで美味しくなるのかよォ〜?」
僕のやっている事に少年は懐疑的だ、大丈夫だよと応じておく。
「師父様、これは一体何をしようとしているのですか?」
「スジ肉の煮込みを作るのですよ。ですが、その前に…」
僕はタッパーを取り出した。
「姫様、一口で構いませぬ。どうぞ一口お召し上がり下さいませ」
そう言って僕は犬獣人族の人たちが作るやり方で作ったスジ肉煮込みを食べさせた。固さ、歯触りの悪さにモネ様の表情が歪む。
「申し訳ございませぬ。しかし、この味をよく覚えておいて下さいませ。あの少年が辟易する肉の味、それがこの者たちが普段口に出来る肉の味なのでございます。…肉を狩猟ってきた者なのに暮らしの為に上質な身の肉は滅多に口に出来ないのが実情なのでございます」
「なんと…」
「そこで私はこのスジ肉をどうにか美味しく食べられないかと思い、その方法を考えたのでございます。そのきっかけは…」
僕はモネ様に事情を話し始めた。
□
およそ十日程前…。
「うわ〜ん!またスジ肉だよォ〜。身の部分の肉が食いたいよォ!」
犬獣人族の集落で自販機に塩の補充をしていると男の子の声が聞こえてきた。見れば狩猟してきた獲物を解体し皮や肉を商店に売りに行こうとした大人たちに美味しい部分の肉が食べたいと駄々をこねている。
「これは売ってお金にするんだから…。私たちは大した値段の付かないスジ肉とかを食べようじゃないか。お腹は膨れる、それで十分。美味いところを食べようだなんて贅沢だよ!」
「うわ〜ん、やだい!やだい!固いんだよォ、ゴリゴリするんだよォ!不味いんだよォ!」
「そんな事を言っても仕方ないじゃないか!薪ひとつとったってタダじゃないんだよ!嫌なら食べなくていい!!」
「うわ〜ん!!」
スジ肉の調理にはとにかく時間がかかる。フランスの農奴(領主に隷属する農民)が口に出来る肉はほとんどこれしかなかった。固く歯触りも悪いので支配者階級が食べず捨てるくらいなら余った部分を農奴にでもくれてやれというのが始まりらしい。
そんなスジ肉だが長い時間をかけて煮れば確かに柔らかくなる。農奴たちは早朝にスジ肉を入れた鍋を暖炉の火にかけてから畑仕事に向かい夕方に帰ってくると食べ頃になっているという。
確かに長く煮れば柔らかくはなる、しかしここは町だ。薪も買って賄うのだ。あまり金をかけられないし、火力もまたガスのように常に安定したものではない。きっと煮込みが足りなくて不味いままなのだろう、そう思って僕は次回塩の補充に来る時にスジ肉を美味しく食わせるから泣くのはお止しと少年に声をかけたのだ。
……………。
………。
…。
「…という事があったのですよ」
僕はモネ様にこれまでの経緯を話した。そしてスジ肉の仕上がり具合を確かめる。
「うん…、柔らかく煮上がったかな。あとは味付けしていくよ」
「兄ちゃん、本当?本当に柔らかくて美味しいの?」
少年が僕に聞いてくる。
「大丈夫だよ。さあ、みんなで食べてみよう」
□
「や、柔らかい〜!それに美味しいよォ!!こんなの食べた事ないよ!」
犬獣人族の少年が大喜びでスジ肉の煮込みを食べている。
「し、信じられぬ。スジ肉がこんな短時間で柔らかく…」
「それにこの赤い色の煮汁が美味しいわあ!」
「ワシ…、生きてて良かった…」
老若男女、犬獣人族の皆さんにも大好評だ。
「美味しゅうございます、師父様。これはなんというお料理ですか?」
「これはスジ肉のとろとろトマト煮です」
「スジ肉のとゥろとロとメぃトゥにでございますか?」
「ふうむ、ワシも長い事生きておるが初めて聞く料理じゃ」
「名前なぞ二の次じゃ!ガハハ、ワシらドワーフ族の舌にも合うぞ!酒に合いそうじゃあ!」
どうやら地球の独特の言い回しはこちらでは聞きとりにくいらしい。
「いや、それよりもこの短時間でどうしてこんなにも柔らかく…?」
「分かりましたヨ…」
「「「えっ!?」」」
ハカセさんの呟きに皆が反応する。
「謎は…全て…解け…」
「わああああァァ〜!それ以上言うと有名なジッチャンのいる少年に怒られたり訴えられるかも知れないからハカセさんストップ!!」
僕は慌ててハカセさんの口を押さえていた。
今回のスジ肉を朝から暖炉の火にかけて夕方に食べ頃になるエピソードは料理の鉄人で服部幸應先生が披露したエピソードを使わせていただきました。