第362話 母の願い、師父の礼。
「ほんに(本当に)そなたの話は面白いのう。妾の知らぬ事、思いもよらぬ事ばかりじゃ…」
庭園に置かれたテーブルを囲んで紅茶をいただきながらゆったりとした時間が流れていく。ラ・フォンテーヌ様は僕が冒険者ギルドに登録しているものの実質的には商人としての活動をしているのを知っている。
それゆえ話題は僕がこれまでに行ってきた商売の話を語る事になる。その商売における裏話やちょっとしたアイデアについて奥方様は興味を示されていた。そしてある程度の時間が過ぎた頃、不意にラ・フォンテーヌ様が話を切り出した。
「ゲンタ、ここに一人呼びたい者がおる。構わぬか?」
「はい、奥方様」
僕がそう応じるとラ・フォンテーヌ様は手元のベルを鳴らした。するとこの場にはいなかった侍女の方が駆け寄ってきた。
「お呼びでしょうか、奥方様」
「モネをこれへ」
「はっ」
そう言うと侍女はどこかへ駆け出していった。しばらくすると一人の女の子を連れて先程の侍女が戻ってきた。女の子は十歳になったかならないかくらい…、少なくともアリスちゃん(6歳)よりは歳上に見える。さて、この女の子は何者か…?着ている服が上質なのは一目で分かるけど…」
「母上、モネ参りました」
なるほど、モネとはこの女の子の名前だったのか…。母上…、つまりはラ・フォンテーヌ様の娘さん、子爵家の御令嬢ということになる。
「よくぞ参った、そこにかけるが良い」
「はい」
モネと呼ばれた少女は空いていた一つの席に座った。
「ゲンタ、シルフィ、これなるは我が娘モネである」
ああ、やはり娘さんだったか。領主の娘さんだから言わばお姫様だな。地方民から見れば王都にいる王様がなんて名前なのか知らないし、そもそも話題に上った事もない。領主のハンザ・ツグイ・ナタダ子爵の名前だって今回の件で初めて知った訳だし…。おっと、物思いにふけっている場合じゃない。挨拶しとかないと…。
「はい。モネ様、冒険者のゲンタと申します」
「その介添(アシスタントの事)として参りましたシルフィにございます」
僕たちはとりあえずモネ様に挨拶をした。しかし、なぜ奥様は娘さんをこの場に呼んだのだろう?
□
「イッフォーとクーゴとは面識はあったのぅ?」
「はい、母上様」
「よい、ではゲンタよ。そなたに頼みがある」
「何でございましょうか。奥方様」
頼み…、依頼という事だろうか?
「そなたにモネを預けるゆえ傅育を頼みたい」
え?傅育だって?僕は困惑した。確か殿様とかの子を養育する事だよね、傅役とか言ったりもするけど…。例を挙げれば徳川三代将軍家光の傅役の一人、土井利勝とか…後に大老にまでなるし…。
「恐れながら申し上げます。姫様の傅育と伺いましたが既に傅役の人士はおられるのではありませんか?ましてや私など何の学識も無いかけだしの商人、とてもご期待に添えるとは思えませぬ」
貴族の子はどのような教育を受けるのだろうか、僕にはとても想像もつかない。礼法?歌舞音曲?それとも帝王学とか?歴史とか、あるいは兵法?政治学かも知れない、そんなのが普通の大学生に分かるものか。
「そなたの言うように娘には師を何人もつけておる。歳相応の一通りの学問の他にも基本的な馬術や水練(水泳の事)なども修めておる」
「な、ならば何故にございますか?少なくともそれだけの事を修めようとさせるならばその傅役の方々は才豊かな方々にございましょう。とても私の及ぶところではありませぬ!」
僕は重ねて固辞した。そもそも僕はこの異世界の社会情勢とか常識的な事も知らないんだぞ、何を教えろと言うんだ。
「そなたの申す通り傅役にはその時その時に最良の人士を求めてきたつもりじゃ。将来、家を継ぐ婿をとるにしても当主が長く所領を空ける事もある。それを守るが妻たる者のつとめ…なればこそ養育には力を注がねばならぬ」
「し、しかし僕には…」
私と言うべきところを思わずいつも通りの僕と言ってしまった。
「ゲンタよ、娘には一通りの事は修めさせてきた。まだ幼いが厳しく育てたつもりじゃ…、その為に寂しい思いもさせたやも知れん。親の欲目かも知れぬが娘は見所ありと妾は思うておる…。だが、それはあくまで机の上に限ってじゃ」
「机の上…」
「そうじゃ。一方でそなたはこの町に参ってどのくらいじゃ?そう長うはあるまい?されど、民は皆がそなたを知っておる。事ここに至るまで平坦な道とは限らなかった筈じゃ…悩み工夫して出来た事もある筈じゃ…。そなたには娘にそれを見せてやって欲しい、書物では学べぬ体験学問を…。引き受けてくれぬか、ゲンタ。これは子を持つ一人の母の願いじゃ」
「母の…願い…」
僕の実家は山深い集落の街道沿いの商店を営む兼業農家。畑を耕し店を守り、両親も祖父母も忙しく働いていた。僕がまだ幼い頃は何かと忙しかったようで店番をしている家族の誰かが一緒にいてくれるようにはしていたが、それとて常に一緒ではない。客が来れば応対せねばならないし、なんやかやと仕事はある。
『寂しい思いをさせたね…』
いつだったか母がすまなそうにそんな事を呟いた。今なら分かる、家族の誰もかれもが懸命に働いていた。感謝こそあっても恨みに思う事はない。そうやって育ててくれたのだから。
「机の上で学ぶ事、それはあくまで書物の中の事に過ぎぬ…。書かれた時代も場所も違えば住まう者も色々じゃ。このミーンの求めるものが何か知らねば政(政治の事)などとても出来まい。とりわけそなたは商人じゃ、民が求めるものが分からねば何も買われず客は離れるのみであろう。苦労も工夫もしたはずじゃ、それを教えてやってたもれ」
「奥方様…」
「何もそなたに講義をせよとまでは言わぬ、そなたが普段している生業を共にさせてやってくれればよい。その中で娘に学ばせてやって欲しい、言わば体験学問じゃ。どうじゃ?この母の願い、引き受けてくれぬか」
学ぶ事は大切だ、ましてや町の指導的立場になる人が良い政策を行えば不幸な目に遭う町の人も減るだろう。それに子を思う母の心は万国どころか異世界でも共通だ。出来る事なら応じたい。
「微力ながらお引き受けいたしたく存じます」
「おお!よくぞ申してくれた、ゲンタ」
ラ・フォンテーヌ様は優しい笑みを浮かべた。
「ならば早速…。モネ、ゲンタの元へ」
「はい」
そう言うとモネ様は僕の近くへとやってくる。僕はそれに応じようと椅子から立ち上がると地面に片膝を着き出迎える。右手を胸に添え口上を述べた。
「冒険者ギルドより参りましたゲンタにございます。何卒よろしくお願いいたします」
すると驚いた事にモネ様は僕と同じように片膝を着き、頭を垂れた。
「モネにございます。この時より父と思い、また教えを乞いたく存じます」
そう言って立てている方の…僕の右膝に両の手を添えた。まだまだ小さい可愛いらしい手だった。
「師父の礼じゃ。これより娘はそなたを実の父に次ぐものと慕い、師として仰ぐ事となる」
父…ですか。僕、もうすぐ二十歳を迎えるとはいえ…まだ十九歳なんですけど…。同時になぜか『十七歳です』というあの方のセリフが思い浮かんでいた。
次回、『針仕事と白いパン』。お楽しみに。