第359話 鳥の心。
フラグは…立てるだけ立てる。
ハンザ・ツグイ・ナタダ子爵夫人からの指名依頼を受ける事にしてから時はあっと言う間に流れた。
「その日のうちに行く事も出来たんだけどね…」
しかし、僕はそうはしなかった。気軽に…というか、今後気安く呼ばれないようにしたいのとシルフィさんに同行してもらう許可を得るにしても回答をもらうには時間を要するかも知れないし先方も何らかの準備に時間を要するかも知れない。その為に相手側に投げたボールであり、時間的猶予でもある。
そしてもう一つ、僕の為の猶予の時間でもある。
「マオンさん、とりあえずここで良いですか?」
「うんうん、そこで良いよ」
ガントンさんらの手により建てられた新しい家屋にではなく、納屋の方に25キロ入りの強力粉が入った大袋を置いた。全部で100キロ分、これで僕に何かあってもしばらくはパンを作るのには困らないだろう。そう思いながら僕は納屋を出た。
「それにしても壮観じゃあ。この一樽に『しょうちゅう』がなみなみと入っているとは…」
そう感想を洩らすガントンさんが見つめるのは庭の片隅に置かれた先日広場での大宴会で使った石木製の大きな酒樽、この中には100リットルの焼酎が入っている。
「一晩で飲み干したら駄目ですからね、ガントンさん」
「わ、分かっておるわい!!」
ガントンさんが少し慌てたように応じた。
「これと同じ量だけ量って飲めば良いんじゃろう!任せておけい、我らドワーフは長さや重さを見誤る事はないわい!1重(1重=0.996グラム)の誤りなく汲み出してやるわい!!」
「本当ですかぁ?ついつい多く汲み出しちゃったりしませんかあ?」
「ぬぐっ!!そ、そうしたいのはヤマヤマじゃが、我らドワーフ…約定を違えぬのじゃ!」
「ははは、分かりました」
「ぬうっ!ほ、本当じゃぞ!」
ガントンさんが抗議の声を上げる。
「大丈夫だべ、坊や。オデたちも盗み飲みなんかしないように互いを見張るだ」
ゴントンさんがガントンさんの横に来て言った。
「それなら安心ですね」
「ふん!!最初から心配なんぞいらんわい!それより…坊や!」
ガントンさんが僕をまっすぐに見つめた。
「はい」
「そんなに心配なら…、自分の目で確かめるが良いのじゃ!明日も、明後日も…」
「儂も見ておくよ、ゲンタ。ガントンたちがついつい飲み過ぎたりしないようにね」
「マオンさん…」
「だからね、ゲンタ。お前さんも必ず戻って来るんだよ、酒好きたちが飲み過ぎたりしてないか…それを確かめる為にもね」
知っていたんだ…マオンさんも、ガントンさんたちも…。僕がもし戻ってこれなくてもしばらくは困らないように物資を用意している事を…。
「おやおやゲンタ、なんて顔をしてるんだい?」
僕より背の低いマオンさんがじっと見上げている。
「領主様からお呼ばれするなんて凄いじゃないのさ!あ、奥方様だったね…、いずれにせよゲンタが大きく羽ばたいていくきっかけになるかも知れないんだねえ…」
マオンさんが僕の手を取った。僕はその手を両手で握り返した。少しゴツゴツとした長年働き続けてきたマオンさんの手の感触が伝わってくる。でも、それはとても温かい手…。
「鳥によっては…」
僕は一言呟いた。
「渡り鳥と呼ばれる種類がいます。その鳥は季節によって暮らす場所を変えるそうです。それこそ海越え山越え国なんて三つも四つも越えるような遠くまで…」
「うん…」
「でもね、そんな渡り鳥も必ず故郷に戻って来るんです。どんな遠くからでも」
「ゲンタ…」
「僕が戻ってくる場所は…たった一つこの家です」
「うむ…」
ガントンさんが腕組みをしながら頷いた。
「ゲンタさん」
すぐ後ろから声がした。振り向くと大事な人がいた、迎えに来てくれたのだろう。
「シルフィさん…もうそんな時間なんですね」
僕はマオンさんたちの方に向き直った。
「それじゃそろそろ…。あ、そうだマオンさん…」
僕はゴソゴソとリュックからハンドクリームを取り出した。
「これ、使って下さい。手荒れによく効く軟膏です。薄く、肌に擦り込むようにして使って下さいね」
そう言って僕はマオンさんにハンドクリームを手渡した。そして改めて僕は登山リュックを背負う。
「行ってきますね、みなさん」
僕は努めて明るい声を出した。