第318話 秘密。
およそ一刻(約二時間)…、そのくらいの時間だろうか…僕はシルフィさんと一緒にいた。せせらぎの音すらしないゆったり流れる川を前に僕たちは束の間のひとときを楽しんだ。
常に寄り添っていたシルフィさんだったが、町に戻る頃にはいつも通りの冷静沈着な彼女に戻っていた。
「あっ…」
別れ際、少し寂しそうな表情をしたシルフィさんだったがすぐに表情を戻し家路についていった。マオンさん宅の敷地の前、帰りゆく彼女を見るにつけ
(家まで送ってきてもらってしまった。普通、こういうのって男女逆だよなあ…)
そんな事を思ってしまう。そもそもの話、僕に戦う力が無いというのが原因ではあるのだが…。よくあるセリフ『僕が君を守る』みたいな事…言えないよなあ。護衛ってもらってるのが現状だし…。強くなりたいね…。
それから、日本の自室に戻ってきた。
入浴はシルフィさんに会う前に済ませておいたので、今夜はもう良いだろう、クローゼットから出て部屋着に着替え、布団を敷く。明日はいつものように早起きをする必要はない。久々にのんびり出来る。
照明をオレンジ色の常夜灯に切り替えた。暗闇を最低限照らし、部屋の中を見渡せる程度の明かり。布団に入り、今日あった事を思い出しながら目を閉じる。
なんとも言えぬ幸福感に鼻歌が洩れそうになる。そんな気分で眠りにつこうとした時、人の気配を感じた。
武術の達人が気配を感じ潜んでいる人の存在を見破る…そんなドラマのワンシーン、よくあるパターンである。しかしながら僕は武術の心得が無いのでそういう事は出来ない。ではなぜ人の気配を察したのか…、簡単である。
もぞ…。
寝ている布団に入り込み、誰かが僕に触れた感触があったからだ。
「誰ッ!?」
目を開けて未知なる侵入者を見てみると…、
「カグヤ…」
見た目小学校高学年ぐらい黒髪の美少女、闇精霊カグヤ。その彼女が仰向けに寝ている僕の目の前にいる。
にこ…。
そして妖しく静かに微笑うのだった…。
□
ゆっくり…、隣室の冷たい空気が床の方から忍び寄るように音も無くカグヤが動く。布団の脇から入って来て正面に僕を見つめながら、片足を上げ僕の胴の上を跨ぐ。ここからはその様子は見えないが、なぜかありありと、その映像が理解出来る。
「ど、どうして?今日はサクヤたちと全員でマオンさんのそばにいるように言ったのに…」
その声に応える事なく互いの吐息がかかるような距離でしばらく僕を見つめた後、カグヤは指先につまんだ何かを示す。
「………」
それを僕の口元へ、唇に触れる感触と鼻で感じた香り…これはチョコレートだと確信する。
「噛んで…。でも、噛み砕いたら駄目。前歯で挟むように…」
カグヤが何をしたいのか分からなかったけど、とりあえずその言に従う。一口サイズの長方形と思われるチョコレート、それを前歯で言われた通りに挟んだ。
「ふふ…」
そう小さく笑ってカグヤの顔が近づいてくる。そしてカグヤは僕が咥えているチョコレートの反対側を噛むと首を捻って器用に互いに咥えたチョコレートを半分に割ったようだ。そしてそれを口に含んだ。
「良いよ、食べて」
耳元に唇を寄せてカグヤが甘く囁く。
甘く…いや少しばかり甘ったるい、そんなホワイチョコレート。シルフィさんと食べたホワイトチョコレートと同じものだろう。あの時と同じような味がする。
「ねえ…」
カグヤが再び囁く。
「シルフィの時とどっちが美味しい?」
「ッ!?」
カグヤ見てたのか…。日本に帰ってくる時について来たのではなく、ずっと…。だから一つのチョコを指でつまんで食べさせるのではなく、一つのチョコを互いの唇で分け合って食べるような感じで…。戸惑う僕を余所にカグヤはくすくすと微笑っている。やがてカグヤは再び僕の耳元で囁く。
「見てるよ、全部…。でも私は…。ねえ…、シルフィには黙っていてあげても良いんだよ…」
ぞくり…。
あどけないはずの声、だけど今はそれがとんでもなく妖艶で…。
「寝ようか…」
そう言ってカグヤは僕に体を預けてきた。彼女の感触、重みを感じる。耳元で囁かれるカグヤの声になぜか僕は抗う事が出来ず、そのまま意識を手放すのだった。