第二話 クローゼットからはるばると
「なんだ…、これは?」
クローゼットの中…、隣の部屋との境の壁に屋外の風景が広がっている。草原が広がり、木々も見える。
何より驚いたのは雨が降っていない。
穏やかな月明かりの夜。星空が静かに広がる。
屋外…と言って良いのか分からないが、どんな場所なのかは気になる。しかし、街灯も無さそうだし夜出歩くのは危険な気もする。それにこんなのは現実的ではない。
僕はクローゼットの戸を閉め、見なかった事にして寝る事にした。
気にならないと言えば嘘になるが、これは夢なのかも知れない。明日の朝に目が覚めれば、綺麗さっぱりクローゼットの中の怪異も消え去り何事もなくいつもの日常に戻るだろう。
そう、人生に危険や冒険は極力必要無い。
例えば街中で喧嘩になったとする。勝つには勝ったがその結果片目潰れましたとか指が千切れましたとかでは何の意味もない。
肝心なのは危険に近寄らない事、そして事前に危険が差し迫る状況を作らせない事、平穏に家族や周りの人を大切にして暮らすのが何より素晴らしいと思っている。
だから、僕は寝ることにした。
よく分からない風景もこれでもう無関係、短期でも他のバイト探しをして収入の目処を立てよう。
よく分からない世界?行かないよ!
よしっ!第一部完ッ!!
…そんな事を思っていた時期もありました…。
□
「マジですか…。終わってなかったですよ」
翌朝、朝食を済ませクローゼットを開けた時、昨夜と何も変わらず草原の風景が広がっていた。
今日は土曜日、講義は履修しておらずバイトも無い。
部屋の外は豪雨ではないが、雨がシトシト降っている。他にする事もないしなあ…。
試しにクローゼットの奥の風景が映る、本来なら壁の部分を指先でツンと触れてみる。触れたあたりが水面に触れた様に周囲に波紋が広がる。しかし、指先が濡れた訳ではない。
そこでもう少ししっかりと手の平全体で触ってみる。何かに触れた感覚はしないが壁面に反応がある。
もう少し手を押し込んでみたら壁の向こうに手の平が抜けた。引きずり込まれるような事も無かったので一安心。足を踏み出し体を半分向こう側に入れてみると、問題なく向こう側に出た。
次に僕はその向こうに見える境界になっている面にそーっと顔面を侵入させた。仕事先の家の中の様子をこっそり覗き見る有名な家政婦さんのようにそ〜っと片目だけ出して周りをキョロキョロすると、辺り一面大草原で遠くには森、遥か遠くには山が見える。
うーん。どうしようか…。このよく分からない草原に行くか行かないか。頭の中に選択肢が浮かぶ。
*『この世界に足を踏み入れますか?』
はい いいえ
どうするか…、別に行かなきゃならない理由はないし…。僕は行かない事にする。
はい ▶︎いいえ
*『そんな…、ひどい…』
そうは言ってもねえ…。
*『もう一度問います。
この世界に足を踏み入れますか?』
はい ▶︎いいえ
*『そんな…、ひどい…』
なんか何処かの精霊ル◯ス様あたりが勇者の頭の中に問い掛けてきているかのようなシチュエーションにも思える。行くよな?絶対に行くよな?行かないなんて選択肢はないだろ?みたいな感じの。行くまでクローゼットの壁は直さねえよ、行くしかねえぞ?みたいな感じで。
なんかこのまま行くと、『いいえ』からの『そんな、ひどい』が永遠ループしそうなので、ここは行くしかないんだろうか。
仕方が無いので、諦めて足を踏み入れるだけ踏み入れてみようと思う。クローゼットには新聞紙を置き靴を置いておく。そして、リュックを手に取る。
中には昨日買った菓子パンや調理パンが二十個以上入っていた。流石にこれ全部は持ってはいくのはなあ…、よし十個くらいに減らして…、代わりにペットボトルの飲み物入れて、あとは明かりとタオルでも持っていこう。あとは…傘、もし雨が降ってきてもしのげるだろう。体が濡れ続けるのは体力を奪われると言うし…。
ホントは行きたくないんだけど、なんか大宇宙の大いなる意思みたいなものに動かされてるような、なる様にしかならない流れに巻き込まれているような気がして僕はあきらめにも似た決断をしたのだった。
クローゼット内に敷いた新聞紙の上で靴を履き、僕は見慣れない草原に足を踏み入れた。
部屋から草原に足を踏み入れる瞬間、思わず体を硬らせたが特に何かがある訳でもなく一安心する。また、部屋への出入り口は大丈夫なのかと振り向いてみれば、そこにはなぜかこちら側に向けて見慣れたクローゼットの戸があり開ける事も中に足を踏み入れる事も出来た。
どうやら自室に戻る事は出来るようだし、とりあえず僕は歩き出した。
□
草原、一口に言ってもただ平坦で丈の低い草が生えているとは限らない。腰の高さより草の高さがあったり、起伏があったりと普段アスファルトの上を歩く事が多い現代人にはそれなりに難易度が高いフィールドだ。
草原に足を踏み入れた時、ありがたい事にすぐそばに道がありそこを辿って歩いていく。しかし、舗装はされておらず、窪みや泥濘がある場合もあり足元に結構な気を使う。肉体もそうだが精神的にもタフさが必要る。昔の人は、旅から帰ってきた人間が一回り大くなって帰ってきたなんてもてはやしたと言うが、さもありなん。
無事に目的地に着き無事に帰ってくるだけで、道の悪さから心身が鍛えられる。地元を離れればそこは顔見知りもいない自己責任の道中、依存心を棄て己の力だけを頼りに進まねばならない。
日本全国どこに行っても均一のサービスが受けられるチェーン店がある訳でなく、路銀が尽きたり病気になって行き倒れる人が珍しくなかった江戸時代の日本でさえそうなのだから、自然しか見えないこの辺りはなかなかのハードモードというところだろう。
しかし、僕の苦労はそう長続きする事は無かった。
なぜなら、遠くに建物が見えたからだ。
丈の高い草や、微妙な土地の起伏が想像より見晴らしを悪くしていたのだろう、道に出てなんの気無しに進んだ所で遠くに建物らしき物が見えた。
とりあえずの目的地が決まった事で、僕は戻るクローゼットの位置を確認しようとした。すると、目の前にクローゼットの戸が出現した事から思い浮かべると目の前に現れてくれるらしい。戸を試しに開けてみると見慣れた部屋と繋がっていた。帰り道の心配が無さそうなので僕は再び歩き出す。
道の先に見える建物、まずはそこに向かって。