第143話 ミーンの町の海王神(ポセイドン)。(後編)
「あ、ちょっとお待ちを。実はもう一品、もう一品あるんですよ」
僕はそう呼びかけた。
朝のイールさんとミケさんの会話で出てきた海藻…、アレをまだ僕は出していない。それは…
「あっ!そ、それはっ!?」
「あの青い奴ではないかっ!!」
「『やきそば』の香りに負けぬ強烈な磯の香りを持つ…」
僕は木製の深皿にそれを盛った。
「さあ、お試しを。これはあおさ、青のりとも言いますね」
「ぬううっ!これだけを味わったら我はどうなるか…」
「一人では逝かせぬッ!我も参るぞ!」
「我ら三名、死ぬならば同日同時!いざッ!」
あの…イールさんたち。青のり食べて死にはしないですって…。
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「うンまぁーいッ!なんだこの香りはぁ!!」
「まさに今この時、この場所が磯であるかのように鼻をつくゥ!!」
「そしてこの舌に張り付く感覚よぉ!こ、これでは香りだけではないッ、味からも決して逃れられぬゥッ!!」
小匙一杯ほどの試食、それはイールさんたちを完全に虜にしていた。
「で、では私もっ!」
次にヒョイさんが連れて来た女性が手に取り、上品に口に運んだ。
「はああああッ!なんて芳醇ッ、そして官能的な香りなのッ!これではいかに悲恋の姫君とてすっかり涙を忘れてしまうわぁ〜!」
鼻にかかった甘く、それでいて色っぽい声。はぁはぁと荒い息を吐きながら潤んだ瞳で僕を見つめる。
「兎獣人族のあの子たちが夢中になるのも分かりますわ!」
「えっ!?ミミさんたちを知っているんですか?」
「知っているも何も…私もそこで…ああッ!!」
「危ないッ!」
なんだか妙な声を上げたかと思ったら急にバランスを崩したので僕は慌てて支える。なんだか立っていられなさそうな…辛そうなのでブルーシートの上に座ってもらう。
すると…。
「あれっ!?」
足が…ない。代わりに魚の尾ビレというか…。そ、そうか、人魚だもんな、でも…イールさんたちは顔や首筋に鱗が…。
もしかすると男人魚族は上半身、女人魚族は下半身が部分獣化するのかも知れない。
「メルジーナ…、大丈夫ですかな?」
上質な毛織物を持ってヒョイさんがやって来て、ドレスの裾からのぞく尾びれに優しく織物をかける。うーむ、自然で優しい雰囲気。紳士とはこうあるべきなんだろうな。
「は、はい。ヒョイおじさま」
「おじさま?」
気になった事がつい口をついてしまっていた。
「ええ、ええ。メルジーナは我が劇場の歌姫なのですよ」
あ、そうか…。ヒョイさんは劇場や社交場、酒場とかを経営されているんだっけ?そう言えば、兎獣人族の子たちにも『ヒョイおじさん』って呼ばれていたっけ?
随分と皆さんに慕われているんだなあ…。
「あ、私…」
そう言ってメルジーナさんは、何やら恥ずかしそうにモジモジとしていたが、僕の胸元に顔を伏せるようにした。その表情はよく見えない。
「会ったばかりの殿方にこのように身を委ねてしまって…」
「お気になさらないで下さい、あのまま倒れてはケガをされてしまったかも知れませんから」
「で、でも、私は女人魚族!貴方様に受け止めて頂く訳にはいきませんわっ!」
「メルジーナさんっ!」
「は、はいっ!」
弾かれたようにメルジーナさんが僕を見上げた。うわあ…、泣き黒子がすごく似合う…。
「確かに僕は人族です、でも、それが倒れそうなあなたを支えない理由にはなりません。だから…そんな悲しい事、言わないで下さい」
「ゲンタさん…、ありがとうございます…。あの…、その…」
何やら言いにくそうに僕を見たり、下を向いてしまったり…そんな動きをメルジーナさんは繰り返す。その度にこの世界では珍しい黒髪…、漆黒の髪が揺れる。
「どうしました?遠慮なく言って下さい」
キュッ!メルジーナさんが僕の胸元のあたりを握った。そして意を決したように僕に問いかけてきた。
「もし、もし…これから先も…私が倒れそうな時は支えていただけますか?」
「もちろんです」
「嬉しい…。私嬉し過ぎてもう先程の味も香りさえも忘れてしまいそう…」
そう言って彼女は僕の胸に顔を伏せた。
いやー、さすがにそれは言い過ぎでしょ。あれ?もしかしてこれは彼女なりの海藻類への賞賛なのかな?
まあ、そうまで気に入ってもらえたなら商人冥利に尽きるって奴なのかな。じゃあ、まあリップサービスとかしておきますかね、一応。
「じゃあ…、メルジーナさんに何か海藻をご用意しましょう」
他の人に聞かれると俺も俺もになるかも知れないから小声、彼女だけに聞こえるくらいの声の大きさ…囁くように言った。
「まあ…。それは…。でも私は毎夜、舞台に立ちますから会えませんわ…」
同じようにメルジーナさんも囁き声で返してくる。
「なら、早い時間では…」
「嬉しい…、またゲンタ様にお会いできますのね?確かゲンタ様は早朝にパンをお売りになるのでしたね…。その後はいかがですの?先日、兎獣人族の子たちが伺った時間などは…」
「分かりました。では、明日の朝でははいかがですか?」
「私、嬉しい…」
なぜか頬を赤く染めながらメルジーナさんが返事をするので、照れ屋さんなのかなと思いながら明日の約束をした。
それから周りを見回してみると、なぜかヒョイさんはニコニコと僕らを見ながら何やらウンウンと嬉しそうに頷いていた。
そしてその遠くでは…、
「こ、これ良い!初めて彼と出会った海岸を思い出すようだわぁ!」
そんな風に言っている女性。きっと嗅覚は脳にダイレクトに刺激を与えると言うから、何か海での鮮烈な思い出が蘇ったのだろう。獣化して釣り上げられた魚がそうするようにビタンビタンと尾びれを地面に打ちつける。
「なんたる香りッ!馥郁たる香りとはこういうものかァッ!」
「ああっ!海を離れて幾歳月…。この山あいで海以上の海を感じたァ!!」
そんな事を言いながら涙さえ浮かべ部分獣化させるオジサン男人魚族たち。
どうやらここにいる全員、大満足してくれたようで良かった。
「海藻って味だけじゃないんだなっ!」
「ああ!味も、歯触りも、そして何よりこんな強い香りも!」
「間違い無えっ!このお方は我らが海王神様だっ!」
「ああっ!きっとお姿を変えて地上に…、ミーンの地に降臨されたのだぁ!」
何やら凄い持ち上げ方をされているが、僕はただの商人。
「ゲンタ様…」
メルジーナさんが僕の名を呼んだ。
「私たちの…、いいえ…私の海王神様」
歌うようなその声は、伝説のセイレーンの様に僕の耳に甘く…甘く…響いていくのだった。。
《次回予告》
早朝のパン販売を終え、朝食のテーブルに着いたゲンタ。右隣にはマオン、そして左隣に座るのは…。結婚、そんな言葉がテーブルの上に並べられた…、誰もがそう感じていた。
次回、異世界第144話。『受付嬢たちは気が気じゃない & あの人は今』。ざまあの後にざまあ有り、ご期待下さい。