第137話 閑話 熊爪の惨劇
「待ってくれ」
その声の主はラメンマさんだった。ひどく真剣な…思い詰めたような表情をしている。
「その『らめえぇぇ!?ん』…、スープ…を一口…飲んでみたい」
「い、良いですよ。まだ口を付ける前だし…。でも、どうしたんです?そんな必死になって…」
あまりに切羽詰まっ多様なラメンマさんの様子に僕は理由を聞いてみる。
「失った…獣性…。取り戻したい…」
「ラメンマ…。お、お前、やはりまだ…」
呻くような…苦痛さえにじませるラメンマさんの声にナジナさんが呟いた」
「あれは…、三年前…」
ラメンマさんはポツポツと自分の事を語り始めた。
□
狩猟士の狩りは、待機と追跡である。
罠を用い、あるいはよく通る場所付近で待ち伏せての狙撃。あるいは獲物の様々な痕跡を見つけ追跡し仕留める。
ラメンマはどちらの方法にも精通していたが、どちらかと言えば追跡をより得意としていた。
三年前、ラメンマはその卓越した追跡能力で剣爪牙熊を追っていた。剣爪牙熊は大型の粗暴な熊である、熊自体が危険な野獣であるが剣爪牙熊はそれに輪をかけて危険なものである。
特筆すべきはその爪と牙、やや曲線を描く剣のように優美ささえ漂わすそれは背中合わせの危険そのもの。爪は鉄製の鎧でも装甲の薄い所であれば引き裂き、その牙は斬撃に強い鎖鎧を易々(やすやす)と貫いてしまう恐ろしい凶器だ。
山林に入りラメンマは犬獣人族の獣性を露わにする。獣性を潜めていれば色黒の野性的な男、しかし一度その獣性を露わにすれば顔はまさに犬そのもの。聴力と嗅覚の能力が格段に上がっだ追跡者となる。
剣爪牙熊に付かず離れず、時折不快な音をわざと大きく立てたり火を焚いて何者かがまとわりついているような感覚を与えるのだ。眠らせない、休ませない、食べさせない…、相見える前から戦いは始まっている。
剣爪牙熊がしびれを切らし音がしたり火を焚いている場所を襲撃しようとやってきても、ラメンマはそれを先んじて察知しその場を離れ姿を痕跡を煙のように姿を消す。何回もの空振りをさせられ、獲物は次第に疲弊していく…。
神経戦とも消耗戦とも言える両者の知恵比べ、我慢比べ…。数日をかけ彼は剣爪牙熊を追跡をする。ただ、彼には有利な点があった。
準備である。持ち込んだ食糧や水、常に現地調達をしなければならない剣爪牙熊に対してラメンマはそれを摂取できる。これによりラメンマは継戦を有利に展開できた。
しかし、熊からすれば餌を得る為の狩りが成功する確率は決して高いものではない。足を止めての殴り合いなら話は別だが、そんな強い牙獣に挑む獣はいない。存在を察知すれば先んじて逃げる。
剣爪牙熊の体躯は大きい。だから必要とする栄養も比例して大きい。空きっと腹を余儀なくされ熊は消耗し始める。城ではなく熊を相手に行う兵糧攻めだ。
全ては狩猟士の描いた作戦通りに進んでいた。
本来、熊は知恵も回る。狩りの成功率を上げる為、風下から獲物を襲うなど工夫もする。しかし今はなんの工夫も無く、真正面からやってくる。
どどどどっ!
猪突猛進ならぬ熊突猛進、追跡者に退避の時間を与えないような周囲を警戒しながらの襲撃ではない。急襲である。
熊は本能的に察したのだろう。これ以上は体力が低下し、時間が経てば経つ程に不利になると。動けなくなれば大きな的でしかない、普段の恨みを晴らすかのように格下の獣が寄って集って自分を獲物にするだろうと。
食べ物…、ラメンマの口にする携帯食料の匂いだろう、それを感じた。この急襲で追跡者を取り逃したとしてもその携帯食を落としていくかも知れない。
熊の狙い通り追跡者は逃げるのがやっとだったのだろう。
少しではあるが水で戻した固パンに何かの肉が挟まったものが地面に残されていた。
□
熊はより消耗していた。
罠だったのだ、あの残された一握りの食料は…。
前述の通り、狩りは狩るもの狩られるものの知恵比べである。その知恵比べの結果によっては狩るもの狩られるものの立場が入れ替わる事になる。
ラメンマ有利になり始めた知恵比べ、熊は挽回しようと急襲を試みた。その時、ラメンマはその有利な展開になった事に油断をせず、その作戦はより堅実さを増した。
紅蓮茸…、日本で言えばカエンタケと言ったところか。食べる事はおろか、皮膚に触れただけで火傷のようにただれてしまう。
剣爪牙熊はそれを口にしてしまったのだ。体が大きかった為、致死量には至らなかったが、しばらくして口内も、そして胃も焼けただれるように痛む。
腹の中の臓器ではいかに痛くても撫でさする事も出来ない、口が痛んでは食べ物を口に入れる事さえ苦痛。命をつなぐ為の食べる行為が今は耐え難き拷問へと変わる。かろうじて啜る泥水が唯一の口を通るものだ。
その泥水、口に含めばその冷たさがわずかに炎症を癒す。しかし、それとて苦痛と無縁ではない。
真水ではないのだ、泥という不純物が口内を、そして喉を擦る。またもや耐え難き苦痛である。
姿無き追跡者との知恵比べに負けた事を剣爪牙熊は察したのだろう、縄張りを…、慣れた餌場を捨てる。敗走である。
向かう先が生存に適するかどうかは分からない、しかしこのまま居れば確実に死ぬ。それならば動けなくなる前に死地から逃げる、熊は本能でこの追跡劇から逃れようとする。あては無い、一直線に逃げる。
突如薄暗い視界が明るく開けた。山森を抜けた。
熊の習性か、急激な明暗の変化に立ち止まる。目の開き具合を加減したその瞬間、何かが片目を襲った。頭を…、正確には頭の中を『とん』と一つの衝撃。
訳も分からないまま剣爪牙熊は体がずうんと前のめりに崩れていく。残った目で最後に見たのは弓を持つ、一人の犬獣人族の…、今になって目の前に現れた姿無き追跡者の姿であった。
□
射殺した大物を前にラメンマはふうと息を吐く。
無理も無い、どんなに小さな破綻でも体力差のあり過ぎる相手にはそれが命取りになる。
熊の爪や牙に対して小回りの利く俊敏さを追求した革鎧では、刃物の前の薄絹に同じ。ましてや鉄をも引き裂く剣爪牙熊の発達した爪牙の前にはその薄絹の役目すら果たせるかあやしいものだ。
その数日に渡る緊張感の中で彼はこれまでただ一つの失敗も、読み違いも起こさなかったのだ。それゆえ今回の狩猟の首尾に彼はこれまでにない満足感を覚えた。
会心の出来だ。自分の思う通りに事が運び、最後は眼球狩られ脳を射抜いてたったの一矢で倒した。神業と言って良い。そしてこの獲物を倒した事、そして現在の居場所を運び屋たちに知らせる為に狼煙を上げ彼らが来るのを待つ事にした。
だが、ただ待っているのも退屈である。彼はここ数日間の戦いの相手がどんな奴だったのか…、ふとそんな事が気になった。
冒険者ギルドに納品めてしまえば、二度とその姿を見る事はないだろう。そうなればこれほどまでに自身をすり減らして戦った相手の事を知る機会は無い。
ゆえに彼は水を一口飲み、水筒をしまうと足でうつ伏せに倒れている熊を足で仰向けにしようとした。普通に考えれば出来る訳はない大きさ重さだが、倒れたその場には丁度良い事に傾斜があった。
が、やはり少しばかり重すぎる。
そこで彼は熊の脇の下から腕をすくい上げるようにしてなんとかゴロンとひっくり返した。
「こいつが…、獲物…」
見事なまでの大物だった。目こそ閉じているが、射抜いた瞬間の表情のまま倒れている。ジッと見る、その剣爪牙熊の顔を。ラメンマはその顔を忘れまいとばかりにさらに近付きのぞき込む。
突然、剣爪牙熊が目を開けた。意思はない、ただ開いただけの真っ黒な瞳。ラメンマの事を見てすらいない。いきなりの事にラメンマの反応が遅れる。
のぞきこんでいた身を起こし飛び退ろうとする。しかし、一瞬遅かった。剣爪牙熊の最後の一振り、その右爪がラメンマの頭部をとらえていた。