遮二無二神様大っ嫌い
「ねえちよちゃん、遺書って書いてある?」
「は?」
ちょっとママには確認しづらいなと思ってかけた電話口の向こうから素っとん狂な声が返ってくる。
ちよちゃんは混乱したような様子だったがしばらくでなにかを察したらしく、深い溜息を吐いた。
「幾真ちゃん。私は自殺しないよ?」
ちよちゃんは吐き捨てるような口調でそう言う。電話口ではよく分からないけれど。
わたしはちよちゃんもまだまだだなあと感じてふふんと鼻息を荒くする。
「ちっちっち、古いよちよちゃん古すぎるよ」
「えー、ちょっとうざいよ幾真ちゃん」
はーこれだからちよちゃんにはわたしがついてなきゃなあ、と首を振る。
「最近はいつ死ぬか分からない時代なんだから遺書くらい用意しとかなきゃいけないんだよ」
ちよちゃんに教えてあげなければと自信満々に吐いた言葉はちよちゃんの溜息に少しかき消される。
「今度は誰に吹き込まれたの?」
「なんでそんなに疲れてるの?」
「うるさいバカ」
時々ちよちゃんは辛辣になってしまう。まだまだちよちゃんは子供だなあと大人のわたしはそれを軽く笑って流す。
「知らないの? テレビでやってたんだよ」
「…………ああ、あのCMか」
「うん、テレビコマーシャルだね」
「うる……いや、なんでもない」
言いかけた言葉を呑み込んだちよちゃんは再び大きな溜息を吐いた。
「あのね幾真ちゃんそれはおじいちゃんとかが書くようなものなの。そのCMは幾真ちゃんには向けられてないの?」
「うん?」
呆れ気味の吐息が電話口の向こうから漏れる。
「……まあいいや。私以外にそんなこと聞かないでね、迷惑になっちゃうから」
「え? なんで?」
「なんでも。もう、こんな時間に電話かけてきてどうせくだらないことだろうとは思ったけど……それじゃあ、また明日学校でね」
「ああ、うん。バイバーイ」
「うん。ばいばいおやすみまた明日」
電話があちら側から切られる。
電話を切られるのは糸が切れるような不気味な感触がしてわたしは少し苦手だ。
わたしはちよちゃんはなにに怒っていたのだろうかと少し思ったけれど、まあ、ちよちゃんが怒っているのはいつも通りなので別に気にしなくていいかと冷静な判断を下して勉強机に向かう。
「よーし、書くか」
そこには書きかけたわたしの遺書が置いてある。
遺書にはなにを書けばいいのかってちよちゃんから聞こうと思ったのだけれど、まあいいやと思い直す。
テレビコマーシャルでも言っていたから遺書になにを書くかくらいわかっているのだ。たしか遺産とか葬式とかなんかそういうことだったと思う。それと遺書と言えばなんで死んだのかを書くとかって聞いたことがある気がする。
まあ、大体そんな感じか。
わたしはどこまで書いていたっけなと書きかけの遺書を確認する。するとまだ『い書 武者煮 幾真』というところまでしか書いていなかった。
そうだったとわたしは思い出して、なにを書こうかなとペンを咥える。思いついたままに文章を書き加えていった。
「まずは遺産か……」
わたしのちょ金箱に入ってる2532円と本のすき間にこっそりかくしてある五千円はママのさいふに入れてください。
うむ、と納得し続きを考える。
「えっと後……」
わたしのおそう式は……とそこでペンが止まる。
「あれ? お葬式ってどういうのだっけ。たしか……」
なんとなくで書いていく。
わたしのおそう式はみんな暗い顔をしないで笑顔でにこにこしていてください。音楽はわたしのいさんを使ってオリコンチャート一位のグループを呼んでロックな演奏をしてください。
うん、大体こんな感じでいいはずだと頷く。意外とわたし、遺書を書くのが上手なんじゃないだろうか。
遺書の代筆の仕事で大成したりして。
そこまで書くとまだ便せんの中はほとんど埋まっていなくて、あれえと思う。あとはなにを書いていけばいいんだっけ。たしか……なんで死んだのか?
「うーん。わたしの死因か……まあ交通事故じゃあないよね。わたしちゃんとルール守ってるし。暗殺者に殺されちゃう……これもないなあ。わたし悪いことしてないもん」
それにわたしは陸上部の子と同じくらい足が速いのだ。暗殺者なんてもしも来たって、逃げ切ってみせる。
じゃあわたしはどうやって死ぬんだろうと考えても特に思い浮かぶことはなかった。
これはもしかして……わたしは死なないんじゃないかと思いつく。
「じゃあ……」
わたしは死んでいないかもしれませんが……と書きかけてそれをやめる。遺書は死んだ後に読んでもらう手紙だからわたしは死んでいないとおかしいのだ。矛盾なのだ。
それなら、とその分を消しゴムで消して書き直す。
わたしがなんで死んだのかはなぞですが、わたしはたぶん元気です。と書いてそれもおかしいなと思い直す。死んでいるなら元気なんてないんじゃないのだろうか。
そう思ってまたその部分を消しゴムで消す。
わたしは死んでるけどおたっしゃにやってます。……書いてみてなんだけれど、やっぱりこれはさすがにおかしいなあと思い直す。
これも消しゴムで消そうかと思ったところ、ドアからノックする音が聞こえてきた。ママかな? と思って「入っていいよ」と応える。
しかしドアが開くことはなく、お行儀のよいノックが繰り返される。
「ママ? ママじゃないの? パパ? 希美?」
聞いても、お行儀のよいノックは繰り返される。出て来いということなのか、しかたないなぁと思ってわたしは遺書にもともと書こうと思っていた文章を書き加えて、ドアの方に行く。
「今開けるから、ちょっと待って」
そしてわたしはのぶに手をかけてそれを奥に押すと、突然お腹を熱い衝撃が襲った。
「……え?」
なにが起こったんだろう、と考えている間に気付いたら視線がずいぶんと下の方になっていて混乱する。
あれ、おかしいな。寝不足かな。
目が薄ぼんやりとして、お腹がじんじんして、ぬちゃぬちゃした。
生温い感触が肌を滑り、こしょぐったいよと笑もうとしても体が上手く動かなかった。なんでだろうかと考えるよりも、もうとにかく眠くなってしまって、眠ってしまいたくなる。
ああ、取りあえず明日。
遺書の続きは明日起きてから考えようと思って、ああそうだわたしの書いた遺書は本をいっぱい読んでるちよちゃんに校閲してしてもらおうと思いついた。
それ以上頭が回らなくて、ほとんど見えない目を閉じる。
そしてわたしはすうっと、いつものように、眠りについた。
☆
「おえっ」
噎せかえった喉から酸っぱい臭いがして、また吐いた。朝ごはんも食べていないのにどこからこんなに出ていくんだろうと思った時にいくまの顔が浮かんで、また吐いた。
脳みそがぐわんぐわんして保健室に行った方がいいのかなとか思う。
個室のドアの向こうから突然授業を飛び出した私を心配するような声が聞こえる。一時間目は大丈夫だったんだけどなとか余計なことを思い出して、自分の頭をぶん殴ってやりたくなる。
殴り殴られバランスを崩した私はドアに勢いよくぶつかって大きな音を立てる。
ドアの向こうから先生の私を呼ぶ声が聞こえて、ぐわんぐわん脳みそをその声が反響した。耳鳴りがするようで、頭蓋骨がこのまま砕けることを夢想した。
いっそそのまま死んでしまえと思ったけれどその程度で人間は死ななかった。
彼女が網膜でフラッシュバックして、ちかちかした。
「………………あー……」
なんでこうなったかなーと考える。
親友が死んだ。
誰とも知らぬぽっと出のどっかの誰かの手によって、一家全員死亡した。殺害された。
いやに脳みそがクリアになって事件の情景が再現される。また吐く前に止まってくれないかと脳みそをふたたびぶん殴っても、私は死なない。頭が止まることすらない。
まず犯人は力業で、しかし恐らくとても静かに鍵を破壊してそれからインターホンを押した。そしてドアの前に来たいくまの母親の頭部を鈍器で強く殴打し、バランスを崩した彼女を喉を掻っ捌きながらなるべく音がしないように倒した。
ドアに頭を殴りつけても喉を掻きむしっても、私は死なない。
そして犯人はドアで挟まれた向こう、なにも気づいていないいくまの父親を後ろから脳幹を刺して殺した。
首の後ろを殴りつけても、頭がぐらぐらするだけだ。
父親を知らない人間に刺殺されて混乱するまだ幼いいくまの妹を声を上げないようにしたかったのか馬乗りになって顔面を殴打し、死亡後確認のように腹を裂かれた。
自分の顔面をできる限りの力で殴ると口の中からぼだぼだと血が溢れた。ああ、もしかしたら私も、死ぬかもしれないと希望した。
人間三人を殺害した犯人はそれ以外にも家の中に人間がいるかもしれないと思って家中を確認し、いくまの部屋を発見した。そしてどうにかしていくまをドアの近くまで呼び寄せ、腹部を刺して殺した。そして死亡後確認のように喉を裂かれた。
早朝ランニングをしていた民間人が鍵の壊れたドアに不信感を抱き、事件が発覚した。
腹を殴っても、吐き気しかしない。
今ならこのまま死にそうな気がするのだけれどと、私はゆっくりと、反転する視界に夢想する。私と電話したすぐ後に、いくまは死んだんだ。
死んだのか。
先生の声を遠雷のように聞きながら、私は伏した。
死ぬかなぁと問いかけても、誰も応えてくれなかった。
生温い孤独のそんな感触が、死ぬということなのかとか、考えながら、私の意識は沈んでいった。
次に目を覚ましたときそこは保健室だった。
病院のような特有の臭さが鼻をついて、妙なうざったるさに右頬にガーゼが張られていることに気が付いた。
お腹の中が空っぽになっていることを感じて、空腹感にお腹が少し痛い。
ささやかな痛みは私に生きているんだなととてもありがたい落胆を与えた。神様からいただいた、人間みんなの忘れかけていた恐怖だ。
なに考えてんだろうなーとか冷ややかになりつつ、ふと自分の服に違和感を覚える。
「……」
「おっ、おっ、起っきたー?」
行儀の悪い先生がキャスター付き椅子から下りないままに私のベッドの方へとやってきた。同年代よりも中学生の方にモテそうな気がするというふざけきった理由で先生になった美人の養護教諭だ。
美人なのは間違いないし男子にも人気だが、まあ、なんとなく同年代にはモテなさそうな空気がするなとは感じる。
「あ、体操服に着替えさせたのは私ね」
「あー、ありがとうございます」
「制服は汚れてたけどもうそろそろ乾くと思うよ」
そすかとらしくない、むしろいくまの吐きそうな台詞を吐きそうになってやめて、息をするのが面倒くさくなって声を出すのを諦める。
意識すると起き上がっているのも面倒くさくて、再び布団の中に潜り込む。
体重を預けるとベッドに体が沈み込むような感覚がしたけれど、さんざん寝たからか眠気はしなかった。
「……今、何時です?」
「五限目がさっき終わったくらい」
「そんなに?」
二時間目が始まって少しから五限目の終わり頃まで寝ていたっていうことは、相当な時間になったはずだ。
そりゃあ眠れるはずもないなとか、妙にクリアな視界で天井を見る。
「ねえ、先生」
「はいなに」
「はい死ぬってどういうことですか?」
「生きてるじゃなくなるってことだよ」
先生はまったく淀みなくそう答えた。自分でも尋ねてから聞いてどうするんだと思ったけれど、もしかしてこの人はいつもから死のことでも考えているのだろうかと思った。
もしそうなら同年代よりも中学生にモテるのも納得だ。特に中二。
それとも、死を知っているというだけなのだろうかと薄ら寒く思った。
「……別に、そういうわけじゃないよ。私、経験浅いもん」
そういう先生は私の目を見ていないんだなと思った。
「生徒に死なれたのも、これが初めてだよ」
「私もです」
目を細めても、そこにいくまの姿はない。
「幾真のこと、知っていたんですか」
「噂くらいかな」
「うわさ?」
いくまの噂なんて……いや、色々流れていそうなものだろうか。彼女の暴れっぷりを思い出して、血を流す彼女の姿と重なる。
それは思い出すと辛くて、自分の輪郭が滲むように感じた。
苦笑い気味に先生が口を開く。
「純朴な問題児は一番たちが悪いって愚痴ってた」
「ああ、なるほど……」
先生たちの方でも話題になっていたのかと少し、呆れる。なににだろうか、考えると、分からなくなった呆れは霧散した。
「学年一のまじめちゃんと彼女が仲良かったってのはあんまり知らなかったけどね」
先生が茶化すようにそう言う。
「学年一って、別に成績、五番くらいですよ」
「すごいじゃないか、五番。二百分の五の逸材だぜ」
「四十分の一の点数ですね。人類で言ったら一億九千二百五十万です」
私がらしくもなくひねくれていると、苦笑いしてま、それもそうだなと言った。
時間の空白ができて、ぼんやりと今朝のことを思い出す。
朝起きてテレビを見たら親友が死んでいて、朝ご飯も食べずにいくまの家へ走って、警官に殴りかかるくらいの勢いで入れてくれと頼んで弾かれて、そして名前を聞かれて言うと驚いた警官に見せられたスマホの画面に映る写真。
思い出しながら思い出してしまっても大丈夫なのかと思ったけれど、案外、もう、思い出しても心は平静を保っていた。
なにかが冷めたのかなぁと胸に手を当てると、能天気な心臓が間抜けに鳴っていた。
「あ、そういえば眼鏡、割れちゃってたんだけど」
「ああ、そういえば」
先生に言われて今更のようにいつもかけていたものがなくなっていることに気付く。
「あれ伊達メガネですし別にいいですよ」
「む? 伊達なんかつけてたんだ」
意外そうに先生が声を上げる。まあ、実際私も伊達なんて付けるような柄じゃない。そもそも視力は両目とも2だ。
「目、いいねー。じゃあなんで?」
「幾真が頭いい奴は眼鏡を付ける義務がある、と」
「あー、言いそう」
噂くらいしか知らないくせに、と少し頭をよぎったが、彼女の行動を聞いていたならそのくらいは分かってくれる人もいるのだろうか。
「まあ八千代ちゃん、眼鏡似合いそうな顔してるけどね」
「……どんな顔なんです、それ」
「……んー、まあ、まじめっぽい顔」
なんだそれ、とつい吹き出してしまう。
まるでいくまのようなことを言う女だなと思うと、妙にしっくり来た。いくまはどんな大人になるのだろうかと何度想像しても難しかったけれど、あの純朴さが社会に擦られてささくれた素直さに彼女特有の生き強さを加えたら、もしかしたら、こうなっていたのだろうか。
私はこうはならないんだろうなと思うと、少し寂しい。
寒気がした。
ふと、今朝警官に見せられた遺書を思い出す。
思い出すだに、本当に、下らない文章が少し書かれているだけだったけれど、それは彼女を想起させて、付け加えられた一文は、なんでそんなことを言ってくれるんだろうかと思ってしまうほどに私の胸に突き刺さった。
差出人は『武者煮 幾真』、宛名は『五十鈴 八千代』。
わざとらしく他の文から離れて加えられた一文には『ちよちゃん、天国で待ってるね』。一番大きく、そう書かれていた。
私は天国なんて信じていないし、幽霊なんて迷信だし、仏と神の違いも分からないいくまに行ける天国なんてあるかは知らない。
でもそう言われたら、天国にいると言われれば、少なくともここにはいないんだと分かった。
死んだんだと、突き付けられるような、諦めてくれと言われた気がした。
「先生、私は死ぬのは天国に行くことだと思います」
「……そっか。信心深いのね、意外と」
まあそういうことでいいやと、さっさともうひとつの聞きたいことを聞く。
「ねえ先生」
「はいよ」
「遺書って書いてます?」
「は?」
先生はよほど言われたことが予想外だったのか素っとん狂な声を上げる。彼女は混乱したような表情を見せていたけれどしばらくで察したらしく小さく息を吐いた。
「ううん。書いてないよ」
「そうですか。なら、書いた方がいいと思いますよ」
そう言って、私も書こうかなと思った。
人はいつか、死ぬのだと分かったから。