人生に蘇った②
「ところで先生、今回の〈今際人〉はどのような方なんですか?」
ミスズは蒸気自動車の操舵輪を巧みに操りながらもアガタをチラッと見遣った。
ミスズは几帳面な性格で非常にマメな運転をするので、アガタも蒸気自動車の運転は彼女に任せきりであった。
「送付紙には…えーと、名前はアイダ・マモル、三十二歳の男性と書かれているね。アズミノ地区の登山道付近の崖下で死亡していたとのことらしい。発見者は登山に来ていた老夫婦。あー…死因は頭部外傷か。おそらく、登山道を歩いていた〈今際人〉が何らかで転倒して崖下に落下、頭部から岩に打ちつけたんだろうね。死後から十数日の経過が見られるということは…」
アガタは送付紙を見つめたまま口を噤んだ。
ミスズは眉を寄せ、ツカマの一顰一笑を伺うと彼は苦い表情で視線を紙面にぶつけたまま凝り固まっていた。
「先生…」
「どうせ向こうに着けば見なくてはいけないだろうね」
ミスズは顔を歪めた。
「うっ…。先生…これ間違いなく閲覧注意のやつでは…」
「うんうん…。どう考えてもしばらく食事が困難になるやつだねこれは。まあ、君ももう慣れてきているだろうけど、腐敗がすすんだ物を見るのは初めてだったけ?」
「見たことないですし見たくもないです」
「まあこれも勉強ってことで。一回こういうの見ておけば慣れ…いや、慣れはしないけど耐性をあげるくらいはできるかもしれないかも」
隣に座るアガタは悪戯ぽく笑っている。
「そうだ。せっかくならこういうのはどうだろうか」
ミスズは嫌な予感を感じた。
アガタのこういう時の提案で美味しい思いをした物はほとんどない。
「君ももう慣れてきただろう。一回くらい〈フヂナ〉を〈硝子棺〉に納めてみようか?今回は…少し抵抗があるかもしれないけれど、寧ろいい機会かもしれない。最初にある程度の苦汁を味わっておけばこれからに繋がるんじゃないかな?」
ミスズは驚きから目を点にしてアガタを見つめた。アガタは慌てて目の前の運転に注意を向けるように促した。
ミスズは冷静さを取り戻して視界を真っ直ぐ進行方向へ向けた。
「私が〈掬い〉を…?」
彼女は今までツカマの助手を務めてきたが、実際に〈フヂナ〉を※1〈掬い〉を行ったことはない。
彼女にとって〈掬者〉になることとは最終目標の一部で念願だった。
形式上、〈掬者〉と呼ばれるには必要な基準・行程が幾つもあるけれど、勘所となるものは〈フヂナ〉を認められる視力と正確な手順で〈掬い〉を行う知識だろう。
視力とは言うものの〈フヂナ〉を見るのに必要なものは単純な目の善し悪しではなく、感性にも似た後発的な経験から育まれる資質と先天的な才能だった。
そういった意味での視力が生まれつき恵まれていてまた優秀な教師の下で育てられてきたミスズは〈掬者〉としての基本的な能力は十分に持ち合わせていた。
けれど、それらを及第しているミスズの障壁となるもの、それはもっと根本的なもので、基準のうちに含まれる年齢の原則だった。
一般的に〈掬者〉は満十八歳以上の、〈保棺局〉による厳格な選抜に合格した者にその資格が与えられる。
ミスズは今、十五歳だ。
彼女が正式な〈掬者〉になるにはあと三年は待たなければいけない。
「ですが先生、正式な〈掬者〉以外の〈掬い〉は御法度では」
本来、〈掬者〉の資格を持つ者以外の〈掬い〉は法度とされている。
「なに、構いやしないよ。そんなものは僕が責任を持とう。そもそも〈掬者〉以外の〈掬い〉が禁じられているのは、〈フヂナ〉を見ることの出来る人間であっても、正確な〈掬い〉を出来ていないということを危惧してのことだしね。〈掬う〉途中に大事な過程をすっ飛ばしたりとか。でも、君には知識があるし、今まで僕の傍でずっと見てきた君なら問題はないと僕は思うけれど」
ツカマの言葉の末尾を聞き取る頃には、ミスズの中で様々な思惑が錯綜していた。
その中にはもちろん感動もあった。
念願の〈掬者〉の象徴的作業とも言える〈掬い〉を、遂に彼女の諸手で執り行う、それはミスズの〈掬者〉への大きな一里塚となり得るだろう。
そのことを彼女は重々理解していた。
けれどそれ以上に心に大きく居座るのは不安であった。
〈掬い〉はきちんと行程さえ踏めばそこまで困難な作業ではない。
けれど、もし失敗して〈今際人〉の〈フヂナ〉がミスズの心に干渉してしまったら…。
我々が〈フヂナ〉と呼んでいるそれは魂と何ら変わらないものだ。
それは生前に〈今際人〉が培って形成された人格や物事への思考などと言える。
〈フヂナ〉が〈今際人〉の身体から発散するときに手で触れようとも、身体をすり抜けて空の上の方へふわふわと浮かんでいってしまう。
〈掬者〉が〈掬い〉をするときは、彼らが自己同一性を強く持った上で、自らの手が〈フヂナ〉の殻になるようにしているから身体をすり抜けることもない。
つまるところは〈掬者〉自身に内在する〈フヂナ〉を手に集中させ器にすることによって〈今際人〉の〈フヂナ〉を空に逃がさずに保存している。
ところがこの曲芸にはリスクを伴う。
手の平に〈フヂナ〉を集中させるということは〈フヂナ〉を露わにしていることになる。
〈フヂナ〉自体の習性として他人の〈フヂナ〉と結合してしまうというものがあり、もし仮に〈フヂナ〉を露わにした状態で自我を強く持たずに他人の〈フヂナ〉が大量に発散している環境に居ると、〈フヂナ〉同士が結合してしまい元の生きている方の人間の人格や精神に影響を与えてしまう。
特にミスズのようにまだ精神的に確固とした自立がない子供はその影響も大きくなる。
しかしミスズは子供であるが、〈掬い〉に関しては大人が顔負けするほどの知識がある。
アガタの側でずっと見てきたという強みもある。
これほど恵まれた環境下で〈掬者〉を目指せる人間はそうは居ない。
〈掬者〉は誰だって最初は無経験の状態で初めの〈掬い〉を行ってきた。
その過程を踏んで多くの者は成功し、手に職をつけてきた。
だがそれが彼女自身にも当てはまるかは不確実だ。
ミスズにはまだ九分九厘の確実でも不確実が残るような事柄に自信を持てるだけの慢心さは足りない。
冷静に運転をこなしているようだが、その実彼女の頭の中は嵐の中の海原のように荒々しく大きな波を立て、その上で帆を立て進んでいる平静を積んだ船を攫いそうなほどであった。
嵐はあらゆる方向からの風を含み巨大に渦巻いている。
一等大潮を立てた風はツカマからの期待だった。
(何故、先生は私にこんな機会を与えたのだろう?
もしも私が〈掬い〉を失敗したとして。
いや、成功しても同じか?
〈掬者〉でない私が〈掬い〉を行って、それが周知してしまったら、責任は未成年者の私ではなく現在私の世話をしている先生に追及されるだろう。
先生はわざわざ自分の名声に傷をつけるかもしれない危険を冒してまで私を試そうとしているのが分かる)
ミスズはツカマの提案を彼からの注目を明確に感じさせる提案として受け取りもしたが、その注目を事実無根なもっと重いものとして捉えてしまっていた。
(これはきっと私を試験しようとしているんだ。私が〈掬者〉になり得るのかどうか、いや、もしかしたらこれはもっと前段階な…私が先生の助手としてこれからも傍らに置いておくに相応しい人間かどうか、それを計ろうとしているのかも。いや、こんな事はあまりに誇張しすぎた考えだ。一つの不安に他の不安を孕ませ大きくさせてしまうのは幼稚だしデタラメだ)
こんなくだらない妄想を叱責しようとするにも、この頃のミスズは彼女とツカマの関係に空想的な思惑の存在を汲み取ろうとする癖がついていた。
それがあくまで空想的であること、きっと存在はしないだろうとミスズ自体も分かっているつもりではあったが、未熟な精神或いはの空想の思惑を考えずにはいられなかった。
(でも、私がこの試験を唐突だと罵詈を唱えるようなことは当然出来ない…。今まで縦横無尽に振る舞ってきた私を助手として傍に居させてくれていただけでも感謝しなきゃいけないんだから…。そうするとやっぱりこの試験は受けなきゃいけないだろう…)
「…分かりました。折角ですのでやらせて頂きます」
「うん、僕も隣で見ているからもしも分からないことがあったら聞けばいいしね」
ツカマはにっこりと、いつものように温和な笑顔で言った。一方、ミスズは未だに逡巡な表情を晴らせずにいた。
※1〈掬い〉…〈フヂナ〉を〈硝子棺〉に納めること。