89話 毎朝の約束
数学科はどうかわからないが、理学部は午後に実験やフィールドワークがあるため、必修科目は出来る限り前から詰まって来る。そうする事で午後の実験の時間を確保するとともに、落としてしまった単位があった場合も実験を出来る限り休まずに再取得が可能になる。
という事で僕の所属する理学部生物学科は、推奨の時間割の通りに履修科目を選択すると、2年の後期は月曜から金曜まで1コマ目の授業がある。運のいい事に美園の所属する人文学部社会学科の1年後期も同様。
そして僕の家は美園の登校ルート上にあるので、必然毎朝一緒に大学へと向かう事になる。近いからと適当に選んだ家だったし、前の入居者の退去が遅れた事で僕の引っ越しにも悪影響が出たりもしたが、今はこの家を選んで本当に良かったと思う。
「授業がある時にこうやって手を繋いで行くのは初めてですね」
「そうだね」
文実の活動などに手を繋いで家を出た事はあったが、その時は夏休みで人通りも少なかった。今は僕のアパートを出た段階で既に人がちらほら見える。8時40分の1コマ開始に対して今は8時ちょうど、もう10分もすれば一番学生が増える時間だろうか。
「夏休みが終わってしまって残念でしたけど、こうやって毎日通えるのなら悪くありませんね」
「ああ」
大学前のメインストリートでなければ危なかった。僕を見上げてニコリと微笑む美園に対して湧き上がった欲求をギリギリで抑え、こちらも笑い返す。
「美園は今日の1コマは人文棟だっけ?」
「はい。智貴さんは後期の授業、1コマ目は全部理学部棟なんですよね?」
「うん。もう共通科目はほとんど無いからね。共通棟に行く事が稀になるかな」
「私も前期よりは人文学部棟で授業を受ける事が増えますから、大学内ではあんまり会えなくなっちゃいますね」
「その分以上に、前期と比べたら大学外で会えるだろ? それに元々大学内ではあんまり会えてなかったしね」
「確かにそうですね」
ふふっと笑う口元を抑えた彼女の右手の薬指で、僕の贈った指輪が光を反射した。
◇
人文学部棟へ行く美園の時間に会わせている為、僕の登校時間は前期よりも15分程早く、授業開始30分前には教室に入った。
一番乗りかと思っていたが、男女一人ずつ先客がいて驚いた。その二人はそれぞれ離れて座っていたが、揃って僕を見て怪訝そうな表情を浮かべた。こんな時間に来るのは初めてだしそりゃそうだろう。
特に親しい訳でも無い二人に挨拶をする事も無く、何となくの定位置――大学では席順は決まっていないが、学科の専門授業になれば大体の席順は固定される――に座った。教科書も後期分の販売はまだなのでスマホでニュースを見ていると、段々と教室内には同級生達が増えてきた。
「誰かと思えば牧村君じゃん」
「おはよう」
「何? イメチェン?」
普段近くに座る学科の友人の一人が声をかけてきた。思えば夏休み中に髪型と服の趣味を変えてから学科の人間に会うのは初めてだった。「あれ、牧村君か」と言う声も少し聞こえた。
「夏休みデビューとか?」
「まあそんなとこかな」
追加でもう一人、そして別の一人も加わって来た。
「彼女出来たからでしょ」
「え? そうなん?」
「そうでしょ。スーパーとかで牧村君が女の子と一緒にいるの見たし、手繋いでるとこも見た事ある。髪型違ったから人違いかなとも思ったけど、やっぱり牧村君だった」
「マジ?」
三人が一斉にこちらを向くので「マジ」と頷いておいた。隠したかったら手を繋いで登校なんてする訳が無いので、聞かれたら答える事は吝かではない。
「相手は? 学科の誰か?」
「一緒にいたのは人文1年の可愛い子」
「マジ!? あのめっちゃ可愛い子?」
「だったと思うよ」
1学年2000人いるのにそれだけで通じるのかとか、何で理学部の2年がそんな事知ってるのかと言いたくはあったが、「マジかー」「嘘だろ?」と言った声が他所からも聞こえてくるあたり、想像していたよりも美園は有名人だったらしい。まあわかるけど。
結局、その有名人の彼女を持った僕は、話した事も無かった同級生を含んだ集団に質問攻めに遭う事になった。
◇
『テロ幇助で逮捕します』
貰って初めての授業という事でテンションが上がった事もあったのか、美園からのプレゼントの腕時計で授業開始からの時間を測り始め、42分30秒が過ぎた頃だった。謎のメッセージが届いた。
『真面目に授業受けろよ』
実際のところ学期1回目の授業などは、どれも元々残り14回の講義の内容説明がほとんどだし、学生はまだ教科書を買っていないので、真面目に聞こうが不真面目であろうが大差ないのだが。
『自分のカノジョに言ってあげてください』
意味が分からない。あと彼女をわざわざカタカナにしているのも少し腹が立つ。
『美園が真面目に授業受けない訳無いだろ』
『うわぁ……』
引いたような仕草のウサギのスタンプが添えられていた。
『まあ本題ですけど。美園に指輪あげましたよね?』
『ああ』
『朝大騒ぎだったんですよ。当然学科の子達は「彼氏?」って聞く訳ですよ』
『で、美園はそりゃもう嬉しそうに「そうだよ」って言う訳ですよ』
『学科の男子達は死屍累々な訳ですよ。あれはもうテロですよテロ』
『だから僕が幇助したと?』
『です。今度会った時に言おうかと思ったんですけど、美園が授業中も時々指輪見てニヤニヤしてるんで、ついマッキーさんに送っちゃいました』
自分の表情筋が弛むのを感じた。思えば無駄に機能を使ってみたりと、何かと腕時計に触れている自分に気付き、美園とのシンクロが嬉しかった。
『ありがとう』
『は?』
欧米風のリアクションを取るウサギがウザいが許してやる事にした。
◇
「って事があった」
美園は夕方まで授業があったので、今日は僕が作った夕食を二人で食べ、食後に志保とのやり取りを話題に出してみた。
「隣で何かしているなとは思ったんですが、まさかそんな報告をされているとは……」
右手の指輪に触れながら、少し恥ずかしそうに美園は俯いた。もう少しその様子を見ていたかったが、僕も同じように時計を触っていた事を伝えると、「一緒ですね」と少し頬を染めた美園が嬉しそうに口にした。こちらの方がより見たかったのだから仕方ない。
「でも指輪置きもちゃんと使ってくれよ。この間は寝る時も指輪着けたままだったし」
実は指輪と一緒にペンギンを模した指輪置きも贈っている。血行が悪くなってその綺麗な指に悪影響が出たら困るので、ちゃんと使ってほしい。
「あの日以外はきちんと外してから寝ていますよ。可愛い指輪置きも使いたいですし。ただ、あの日だけは特別、でしたから」
「そ、れならいいんだけど」
少しだけ力のこもった「特別」の言葉に、一瞬返答につまりそうになったが、なんとか顔を逸らさずに言い切れた。そんな僕の様子を見て美園はくすりと笑う。どうもこの間から主導権を握られ気味だ。ドギマギさせられるのは嫌ではないが、どちらかと言えばさせたい方だ。どうすべきか。
「どうかしましたか?」
「ん?」
そんな事を考えてはいたが、穏やかに笑う美園を見て改めて思う。
「結局どんな美園でもやっぱり好きなんだなあって」
「……そういう事はいきなり言わないでください」
図らずも先程の願いを達成してしまったらしく、美園は顔を見せないように僕に背を預けて座った。彼女の耳はほんのり赤かった。




