87話 夜想曲
「なんでこうなった」
白いバスタブで温かな湯船につかりながら独り言ちる。
自問の答えは分かっている。
美園から風呂を勧められた。つまりは今日も泊っていってください、と言われた訳だ。
そんな予定は僕の中にも、美園との話の流れの中にも一切無かったので、正直混乱した。
「着替えが無い」と言おうかと思ったが、ご丁寧に寝間着含めてアイロンがけまで済ませてくれてある。因みに下着類はバッグの中に予備を持っていた。
実際に問題になるのはその程度、昨日だって泊った訳だし、今更今日の宿泊を拒否する道理など無い。そして昨日はシャワーを浴びてから来たので不要だったが、今日泊るのであれば風呂を借りるしかない。
明日一緒に出掛けるのだから都合だっていい。
理屈の上では何も間違っていない。
「一緒にいたかっただけだよなあ」
しかし結局のところ、答えはただそれだけのシンプルなものだった。
◇
風呂上りに用意された新品のバスタオル――吸水性を良くする為に一度洗ってある――といい、同じく新品のボディータオルといい、美園は完全に2日連続で僕を泊まらせるつもりでいた事がわかる。今考えれば昨日と今朝の2度の洗濯もその為だったのだろう。
しかし言っておいてもらえれば、なんだかんだで最初から支度をしてきたと思う。使い終わったドライヤーを洗面に返しつつ、美園が何故こんな回りくどい事をしたのかと、そんな事を考える。
考えたものの答えは出ず、いつの間にか思考は風呂上がりの美園の事にシフトしていった。
思考が良くない方向に向かってしまったのを自覚して、目を瞑って心を無にしようと思っていたら、いつの間にか少し落ちてしまったらしく、ドライヤーの音で目が醒めた。時計の長針は僕の風呂上りの時より300°程進んでいる。
もう10分もすれば髪も乾かし終わって出て来るだろうと思っていたが、美園が洗面からリビングに来たのはその3倍近い時間が過ぎてからだった。
理由は戻って来た美園を見れば瞭然だった。髪はいつものように少しだけ巻かれているし、薄めではあるが化粧もしている。また寝る直前に落とすつもりだろうか。
そんな事を思っているとソファーの所まで来た美園は、何も言わず僕の隣にぴったりと座った。シャンプーの香りに混じった昨日と同じ強めの甘い香りはもちろん鼻に届き、膝枕の幸福感を蘇らせる。
気分はかなり高揚していた。興奮していると言って差し支えないレベルで。昨夜から少しよそよそしいところのあった美園が、今ゼロ距離にいる。
「牧村先輩」
何と声をかけたらいいかを考えていたら、美園は僕の左腕をぎゅっと抱きしめて体を預けてきた。彼女の様子の変わり具合に驚きはしたが、左腕に伝わる普段と少し違う感触に最早それどころではなくなってしまう。多分、着けていない。
軽い混乱の中ではあったが、触れたいという気持ちが勝った。固定された左腕を軸にするように体を回転させ、そのまま美園を抱きしめると、僕の左腕にあった彼女の両腕が背中に回された。
自由になった左手で彼女の髪をそっと撫でると、ゆっくりと美園は顔を上げた。上気した頬は風呂上がりの為か、それとも彼女の高揚の証か。その温かな頬に触れ、潤んだ瞳に吸い込まれるように顔を近付け、唇に触れた。
◇
長い長い接触を終え、お互いに少しだけ乱れた呼吸を落ち着けた後、彼女は僕へと向き直り、ニコリと微笑んだ。
「今日はベッドで寝てくださいね」
「そういう訳には……」
「どうしてダメなんですか?」
「家主を差し置いてベッドで寝る訳にはいかないよ」
「それを牧村先輩が言いますか?」
きょとんと首を傾げる美園に、自分でも苦しいと思う言い訳をするが、3ヶ月以上前に僕がそれを潰していた。
「彼女をソファーで寝かせる訳には――」
「彼女の方が、二晩続けて恋人をソファーで寝かせるのはいいと?」
次の言い訳も想定されていたかのように、言い切る前にあっさり潰された。
「解決策が一つだけあると思いませんか?」
今日もう一度泊まる事になってから、望んでいながら考えを避けていた事。
「一緒に寝ればいいんです」
少しいたずらっぽい笑みを浮かべる美園に、何も言えない。僕だってそうしたいのだから。「お願いします」の一言を発してしまいたい。どうして言えないのか自分でもわからない。
「このソファーはお気に入りなので、間違って紅茶をこぼしてしまったりはしたくありません」
「じゃあ、ベッドで。お願いします」
実力行使を仄めかす美園に後押ししてもうらう形になったが、僕は自分の欲望を口に出して頭を下げた。顔を上げると、彼女は満足げに微笑んでいた。
◇
「腕枕をしてください」
同衾した彼女から潤んだ上目遣いでねだられて、断るような彼氏はいないだろう。今の僕も当然そうだ。
右の二の腕には愛しい恋人の可愛らしい顔が乗っかっている。最初は仰向けだった美園が、今は横向きで僕にくっついている。左の脇腹に回された彼女の右腕が少しくすぐったい。
腕枕の上の美園は「牧村先輩」と僕を呼んでは笑顔を見せる。ふふと笑ったり、くすりと笑ったり、ニコリと笑ったり、どの笑顔でも頬に差した朱が幸せと恥じらいを伝えてくれる。感じる甘さはボディークリームの香りのせいだけではない。
「理性が持たなくてお前の事襲ってしまいそうだ」的なセリフはテンプレートの一種だが、今まではそんな気持ちなど理解できる訳がないと思っていた。普通我慢できるだろうと。だが正直今は少しだけわかる。
もちろん「襲う」が最後の一線を超える事を意味するのであれば、そこまでする気は毛頭無いし、してしまうとも思わない。しかし、彼女の体の触れるべきでない所に手を送るくらいの事は、心の中の悪魔に唆されるまでもなくしてしまうかもしれない。
「牧村先輩」
先程から何度も何度も彼女に呼ばれた僕の名前。違ったのは、次に見せる顔。目を瞑った美園は僅かにあご先を上向かせ、「んー」とせがむ。
「美園」
呼びかけてから髪を撫で、体を少し傾けて彼女に口付けをする。数秒の接触を終えて唇を離すと、「えへへ」と笑う美園が「もう一度」と言って、次は彼女の方から僕にキスをした。
「今日もあと少しで終わっちゃいますね」
今日の終わりまで20分程度。離された形のいい唇から、寂しそうな声が聞こえた。
「プレゼントや食事は流石にいつもって訳にはいかないけどさ、誕生日じゃなくたってしてほしい事があれば応じるよ」
「はいっ。ありがとうございます」
嬉しそうに笑って一瞬だけ唇を重ねた美園は、「でも」と言葉を続けた。
「牧村先輩だって、もっといっぱい私にお願いをしてくださいね。お誕生日のお願いだって、今考えれば指のサイズを測る為に使ってくれたんですよね?」
「バレた?」
「流石に分かります」
口を尖らせた美園は、そのまま僕の胸に額をくっつけた。
「私ばっかりお願いしています。私ばっかりわがままみたいです」
「そんな事無いよ。前に一緒にいられればそれでいいって言ったけど、嘘だった。いや、あの時は嘘じゃなかったつもりなんだけど」
僕の言葉に、顔を上げた美園が不思議そうな視線を送ってくる。
「昨日から一緒にいたのに、美園にあんまり触れられなくて、結構辛かった。一緒にいるだけじゃ、もうダメみたいだ」
一緒にいれば触れたくなる。触れる事が出来たなら、その先を求めたくなる。美園が自分をわがままだと言うのなら、僕だって間違いなくそうだ。
「私もです」
ふふっと笑った美園は、「だから」と言って僕の目を見つめた。
「最後のプレゼントをください」
それが何かを尋ねる前に、近付いた彼女の唇が僕の唇に触れる。脇腹にあったはずの美園の右腕が僕の首に回され、柔らかな彼女の体がより強く押し付けられる。そうして、そのまま一つになってしまうのではないかと錯覚してしまう程、お互いを抱きしめてキスを続けた。
美園が唇を離し、右手の指を僕の左手の指に絡ませ、僕の胸に頬を預けて荒い呼吸を整える。
「これ以上は、言わせないでください。智貴さん」
耳まで朱に染まった美園はそう言って僅かに視線を逸らした。
僕はそんな彼女の頬に手を添え、初めての、始まりのキスをした。




