85話 宵闇に隠せないもの
自身の着替えはサクッと終わった。服を脱いで上下黒のスウェットに着替えるだけ。脱いだ服は畳んで、上着だけをハンガーにかけさせてもらい、今日はどんな寝間着か、前回と同じだろうかと想像しながら美園を待つ。
脱衣所から出て来た美園は予想通りと言うべきか、今日もネグリジェ。前回と違うのはその色。今回は薄いピンクのそれで、ロングスカートより少し丈が短い長袖。全体的にひらひらしてはいるが、フリルなどは少ない。
「似合い、ますか?」
赤らめた顔に照れた表情を浮かべ、もじもじとしながら上目遣いで聞いてくる美園への返答は「はい」しかあり得ない。
「似合ってるよ。可愛い」
「良かったぁ。嬉しいです」
夏に見た水色のそれよりも襟ぐりが広く、鎖骨が半分程見えてしまっているので、ただ可愛いだけでなく色気も醸されているが、流石にそれは言えなかった。
ホッとしたように笑う美園は、そのままソファーの横に腰掛けるかと思ったが、僕を見てから少し視線を彷徨わせた。
「どうかした?」
「牧村先輩がさっきまで着ていた服はどこかなと思いまして」
「畳んでバッグの中にしまったよ」
「私の分と一緒にお洗濯しちゃいますので出してください」
「え、いや悪いよ」
「洗剤の量も水の量も大して変わりませんから。出してください」
僕のバイト中に留守番をしてくれていた美園は、何度か僕の分の洗濯をしてくれた事があった。ただ今回は彼女の分と一緒に洗うと言うし、何より誕生日前にそんな事をさせていいのかという気持ちがある。
「夜中だし、隣の人にも迷惑にならないか?」
「そのお隣の方から夜に洗濯機を回しても全然問題無い、とお墨付きを頂いています。お引越しのご挨拶の時に伺いました」
高級物件の防音性能は高い。確かにこの部屋にいると窓の外の音さえあまり聞こえない。
「という事でお洗濯しますね?」
「お願いします」
有無を言わさぬ美園に先程まで着ていた衣服を差し出すと、「はい」と受け取った彼女はニコリと満足げに笑った。
◇
その後、美園は洗濯機を回しただけでなく、明日の準備だと言ってその他の事に手を付け始めた。それが終わって一度戻って来たのだが、丁度洗濯機が止まったので、「乾燥機にかけてきます」と言ってソファーに座らずUターンしてしまった。
あと5分程度で日が変わる時間になってようやく美園が隣に座ったが、初めて見る愛らしい恰好の彼女を抱きしめるどころか、触れてすらいない。今からそれをするには時間がまずい。それで0時ジャストのおめでとうを逃したら僕はただの色ボケバカである。
残りの5分は結局、美園から貰った腕時計を二人で見ながらのカウントダウンタイムとなった。
「10、9、8、7、6、5」
4、3、2、1――
「誕生日おめでとう。美園」
「はいっ。ありがとうございます。牧村先輩」
「気が早いかもしれないけど、20歳の誕生日もこうやって祝わせてほしい」
「はい! 20歳も21歳もその先も、ずっとお祝いしてください」
真剣にコクリと頷き、優しく美園の髪に触れて顔を近付けると、彼女はそっと目を閉じた。
しかしその瞬間響いたのはピコンという電子音。聞こえた場所は美園のデスクの上、彼女のスマホからで、続いてもう一度同じ音。
「誕生日祝いのメッセージかな? 見てきなよ」
困ったように笑う美園を促すと、彼女は「すみません」と申し訳なさそうに言ってスマホを手に取った。因みに手に取るまでの間にもう3回同じ音が鳴った。
カウントダウンと同時におめでとうを言っておいて心底良かったと思う。少し遅れていたら最初のおめでとうを取られてしまっていたかもしれないのだから。
「僕の事は気にせず返信してていいよ。友達は大事にな」
「はい。ありがとうございます」
少しだけ眉を下げて笑った美園は、立ったままで一生懸命に指を動かしている。返信をしている間にも更に何件か届いているようで、中々彼女の指は止まらない。
正直に言えば邪魔が入ったという気持ちもあるが、それよりも美園の交友関係が微笑ましい。素直で優しい性格のおかげだろう、いい友人や先輩に恵まれて、彼女は大学生活を楽しんでいる。
保護者気取りかもしれないが、年上の彼氏である以上こんな事を思ってもいいだろう。
◇
結局美園が届いた全てのメッセージに返信を終えるまで15分程かかった。件数も多かったようだが、恐らく内容もしっかりと考えて送り返したのだと思う。
因みに僕の誕生日に届いたメッセージは両手の指で十分足りる上、返信はほぼ「ありがとう」のみだったので2分で全員に返し終わった。
「ありがとうございました。待って頂いて」
「人気者の彼女で鼻が高いよ」
「そんな事ありませんよ」
振り返った美園にそう言うと、彼女は照れながらこちらに寄って来た。
隣に腰掛けた美園に、先程出来なかったキスをしたかったが、機会を逸してしまった感が拭えない。友人や先輩からお祝いの言葉をもらったばかりの彼女に、何故かそういう事をしづらいと思えてしまう。
「そろそろ休みますか?」
「そうだな。明日もあるし」
美園もそんな空気を感じ取ったのか、それとも疲れ気味だった僕を気遣ってか、そんな提案をしてきた。
「それじゃあ。お化粧落としてきますね」
「ああ」
美園を見送ってからスマホを取り出し、目覚ましをセットする。それからこっそりとこの後の仕込みをしていく。聞こえはしないだろうが、洗面の美園に音が届いてしまわないように慎重に。
「お待たせしました」
そう言って美園が戻って来た時には、僕は何気ない顔をしてソファーに座っていた。
「あれ、眼鏡?」
「はい。普段はコンタクトなので」
戻って来た美園は細い黒ぶちの可愛らしい眼鏡をかけている。
「そっか、卒アルでも眼鏡だったよな。ん? でも前に僕の家に泊まった時はしてなかったよね?」
「はい。あの時は恥ずかしくて。一応裸眼でも0.4はあるので見えない事はありませんし」
「眼鏡も似合ってて可愛いよ」
「ありがとうございます。やっぱり今も恥ずかしいですね。ノーメイクですし、あんまり見ないでください」
恥ずかしそうに顔の前に手をかざす美園だが、先程からバッチリ見てしまっていた。付き合い始めてから、デートの時には美園が化粧を変えてくれる事もあって、彼女の化粧の違いに気付けるようにとよく見ていたので、流石に普段とノーメイクの違いはわかる。
とは言え流石に元がいい、良過ぎるくらいなので現状でもとんでもなく可愛い事に違いは無い。
「お付き合いをする内にどうせ見せる事になるので、早い方がいいとお姉ちゃんには言われたんですが、やっぱり今日は見ないでください」
「わかったよ」
恥ずかしそうに顔を隠す美園が可愛くて、少しいじわるをしたい気持ちも湧き出したが、なんとか我慢して苦笑しながら視線を外して見せた。
「それじゃあ、僕はソファー借りるよ」
「えっと。いいんですか?」
遠慮がちに聞いてくる美園に頷いて見せると、「そうですか。わかりました」と彼女は小さく呟いた。
正直もっと食い下がるかと思っていたが、意外にすんなりと僕の寝床は決定した。
「それじゃあ。これを使ってください」
「ありがとう」
美園から渡された毛布をソファーにかけ、求められると思っていたおやすみのキスをしようと一歩踏み出すと、「それじゃあ。おやすみなさい」と言う言葉が聞こえ、美園はそのままベッドに入ってしまった。
「ああ……おやすみ」
膝枕こそしてもらったが、色んなタイミングが悪く、今日はほとんど美園に触れていない。付き合ってから今日まで、会えない日は何度かあった。しかしこれだけ近くにいて、同じ部屋で寝ると言うのに、ハグもキスも出来ない。それ目当てという訳ではもちろん無いのだが、やはり寂しい。
「電気消しますね」
「うん」
何となく平坦に聞こえる美園の声に応じると、遮光性の高いカーテンのおかげもあって、部屋には夜の闇が訪れた。しかしそんな暗闇も、自分自身の悶々とした心の内を覆ってはくれず、眠りに就くまでには少し時間がかかった。




