75話 これまでの彼女の事とこれからの彼女との事
「ええと……」
美園のお母さんが何気なく聞いた「下の名前で呼ばないのね」という疑問は、美園を困らせてはいるが、もっともなものだと思う。実際僕も名前で呼んでもらいたいとは思っている。
「まだお付き合いを始めて日が浅いですし、4ヶ月程先輩呼びだったので急に変えるのもお互い気恥ずかしい部分があるのかもしれません」
「今の子達はそう言うものなのね」
実際はそこから更に5ヶ月遡って、美園にとって僕は「牧村先輩」だった事を今日知った。そして、その呼び名が彼女にとって大切な意味のある物だった事も。愛しい恋人が大切にしてきた思いを、僕も大切にしたいと思うのだ。
「牧村先輩……」
「いつかは呼んでほしいけどね」
少し潤んだ上目遣いの美園に冗談めかして笑いかけると、小さく「はい」と頷いた彼女がそっと僕の手を握った。「焦らなくていい」という意味を込めて僕も頷き返した。伝わるという確信があった。
「わ。二人の世界だ」
「あらあら」
横と正面からの声にハッとしてお互いに慌てて手を離す。ご両親の前だという事を忘れていた。
「お父さん、お茶いる?濃い目で淹れるよ」
「……頼んだ」
苦笑しつつ席を立った花波さんに、お父さんは既に渋いお茶を飲んだような顔をしている。湯呑は空なのに。
「すみません……」
「美園が幸せそうだからいいんじゃないかしら。ねえ?」
「……そう、だな」
そういう顔ではないですね。怒っている、という訳では無さそうだが、鷹揚なお母さんとは違い、複雑な顔をしている。初めて訪ねて来た娘の恋人が、目の前でその娘とイチャつき出すという、非常識な行為をしたにも関わらず怒らないのはむしろ器が大きいと思う。
「本当に申し訳ありません」
再度頭を下げると、お父さんは、はーっと大きく息を吐いた。
「お父さん、あの――」
何かを訴えようとした美園を手で制し、お父さんは口を開いた。
「牧村君。とりあえず頭を上げなさい」
「はい」
「正直複雑な部分もあるが、怒りは全く無いから気にしなくていいよ。少し自重してほしくはあるが」
苦笑に対しては「はい、すみません」と返すしかない。
「応接での行動の方がよっぽどだったぞ?」
お父さんは「まあ私が悪かった訳だが」と言って笑っているが、思い返せばとてつもなくよっぽどな行為をしていた事実に肝が冷える。もちろん美園を泣かせてしまうより遥かにマシなので後悔は無いが、後悔が無い事とマズかったと思う事はどうやら別のようだ。
事情を知らない乃々香さんが首を傾げていると、湯呑を持って戻って来た花波さんが「お父さんの前で美園の頭撫でてた」と間をすっ飛ばした事実を伝え、「牧村さんて無意識だと凄いの?」などと驚いている。そこ、静かにしてくれませんか。
「それも含めて『美園を頼んだ』と言ったのだからね。泣かせるような事だけはしてくれるなよ」
「はい。もちろんです」
立ち上がってしっかりと頭を下げると、お父さんは少し寂しそうに笑っていた。
◇
「牧村君、お酒はいかが?」
「いえ、未成年ですので。ありがとうございます」
お母さんから勧められた酒は年齢を口実に断った。誠実アピールも兼ねているが、何より酒の値段が怖い。ただでさえ目の前の寿司に怯えているというのに、これ以上は味が分らなくなる。
「誕生日はいつなの?」
「今月の18日です」
「あら、すぐなのね」
「残念だな。うちの家族は私以外酒がダメでね。一緒に飲めると思っていたんだが。次に来る時はもう飲めるかな?」
「はい。是非」
お父さんは残念そうに冷酒グラスを傾けている。悪い事をしたなと思うが、未成年を口実にした以上今更撤回は出来ない。
しかし花波さんが飲めないのは意外だった。美園がダメなのだから、考えてみれば不思議ではないのだが、イメージに合わない。
「今失礼な事考えなかった?」
「まさか」
対角の位置に座る花波さんをちらりと見たところ、思考を読まれた。
テーブルの席順は、ご両親と花波さんが年齢順に並び、その反対も年齢順に並んでいて、僕の向かいにはお父さんが座っている。
「何十回――」
「お寿司美味しいです!」
「そ、そうですね」
ふっと笑った花波さんが言おうとした事を察し、僕と美園は慌てて話題を逸らした。
テーブルの中央にはそれ自体が高そうな寿司桶が二つ置かれ、とんでもなく値の張るであろう寿司が収められている。平然と箸を進める君岡家の面々と違い、平凡な僕はネタを選ぶ順番にすら戦々恐々としている。いきなりマグロ取ったらなんだこいつと思われないだろうか、最初は玉子でいくべきかなどなど。この家の人達がそんな事を思う訳は無いのだが、小市民の辛いところだ。
「そう言ってもらえるととった甲斐があるよ」
「ありがとうございます。本当に、こんなに美味しいお寿司を食べたのは初めてです」
誤魔化す為に声を上げた訳だが、お父さんは「そうかそうか」と言って喜んでくれている。実際めちゃくちゃ美味い。回る寿司にはもう行けないなんて冗談を言えそうなくらいだが、実際は次に回る寿司に行っても満足できるだろう。美園のおかげで多少舌は肥えたが、まだまだ僕は雑魚舌だ。
「次に牧村君が来てくれる時は、私のお料理をご馳走するわね」
「本当ですか?ありがとうございます」
お父さんもそうだったが、お母さんも次の機会を当然のように話してくれる。今回の訪問の目的である、美園との交際を認めてもらうという事への達成感だけでなく、上手くは言えないが、この家に迎え入れてもらえる事が誇らしい。
◇
「こんな場所で立ったままですまないね」
「いえ。それは全く構いません」
食事の後、三姉妹に片づけを任せたご両親は、僕を別の部屋――お父さんの書斎らしい――へと連れ出した。使ったのは取り皿と醤油皿と箸に湯飲み程度、大した量ではなく、わざわざ娘達三人に頼む程ではないだろう。つまり、美園のご両親として、娘の前では言いづらい話をしようという訳だ。
「今更交際を認めないなんて事は言わないからそう緊張しないでくれ」
多分僕は情けない顔をしていたのだろう、お父さんが苦笑しつつぽんと肩を叩いた。
「お話はね、私達と美園の事なの」
「ご両親と美園さんの?」
穏やかな笑みを湛えたお母さんの言葉の意味はわかるが、少し腑に落ちない。今までの美園を見ても、今日の親子を見ても、関係は非常に良好だとしか思えなかった。
「牧村君は去年の美園の事は知っているね。というよりも、君のおかげだという事は花波から聞いている」
「いえ、そんな――」
「その辺りの問答は止めておこう。まずは親として感謝をさせてほしい。ありがとう」
「ありがとう。牧村君」
お父さんに手で制されて反応が出来ずにいると、ご両親は僕に深々と頭を下げた。
「美園は昔からいい子でね。花波は見ての通り奔放で、私達とよく喧嘩をしては自分の意思を貫く子だった。だから情けない話だが、美園はいい子だからと決めつけてあまりあの子に構ってやらなかった」
「乃々香が産まれてからは余計にそうなってしまったわね。進んで家のお手伝いはしてくれたし、乃々香の面倒もよく見てくれたわ」
そんな美園は想像が難しくない。懐かしむようでありながら、ご両親の顔には僅かな悲しみの色があるように思う。
「花波や乃々香は危なっかしいところもあって、進路やら何やら色々話をしたんだが、今思い返せば美園とそんな話をした事は無かった。あの子はそう言った事も全部一人で決めていたし、恥ずかしい話、私達もそれが当然の事のように甘えていた」
「そんな私達だから、あの子が一人で悩んでいるのに気付いてあげられなかったの。ようやく気付いた時には美園はもう潰れてしまいそうだった」
「その後は君も知っての通りだ。親としては何一つしてやれなかった」
お父さんが握った手に、痛い程の力が込められているのが見て取れる。お母さんの方も僅かに唇を噛んで、小さく震えている。
「だから頼む、牧村君。今更虫がいい話かもしれないが、もう二度と美園にあんな思いをさせたくはない。今こんな事を言うのは失礼だが、二人の関係が今後どうなるかはわからんだろう」
「それは……」
「いや、それを責めるつもりはない。この場で将来を誓えなんて言う方が無茶な話だ。だが、たとえどんな形になろうと、あの子を傷つけないでやってくれ。頼む。その為なら、我々が出来る事は何でもしよう」
ご両親は揃って、まだ何も成していないちっぽけな学生の僕に、深々と長い間頭を下げてくれた。後悔もあるのだろうが、美園が深く愛されているという事を再確認した。
「一つ、勘違いをされています」
「それは?」
「美園さんはきちんとご両親からの愛情を受け取っていますし、本人にもきちんとその自覚はあります」
美園は自分がいっぱいいっぱいの状況でもご両親の事を大切に思っていた事を、僕はあの日の会話と今の美園自身の姿から知っている。
「そう、だろうか?」
「これについては、他人ではありますが、僕が絶対の自信を持って断言します」
不安げに問うお父さんだが、僕は自信を持ってそう言える。
「僕は羨ましかったですよ。花波さんと話している時の美園さんは、いい方にも悪い方にも表情がコロコロと変わっていました」
主に悪い方だが。
「今日のお父さんへの態度もそうですが、僕にはまだああいう面は見せてくれていません。心の開き方は、まだまだご家族には遠く及ばないなと、悔しく思っています」
お父さんは最初目を見開いたが、少しして噴き出した。横のお母さんの方も「あらあら」と笑顔を見せた。因みに僕なら、美園があんな風に怒ったら即土下座だ。もちろん怒らせるような事をするつもりもないが。
「心を開いているからこそ、か。美園があんなに声を荒げたところを見たのは初めてで、正直とても怖かったな」
「あら。そんなに凄かったのなら見てみたかったわ。今から交際に反対してみようかしら」
「やめてくれ。心を開いてくれている証だとしても二度とごめんだ」
のんきな様子に戻ったお母さんに、お父さんは肩を竦めて首を振り、二人は顔を見合わせて笑った。
僕の彼女は素敵なご家族に深い愛情を注がれている。
そしてそんなご家族よりもなお、一番愛情を注ぐのが僕でありたいと強く思った。




