72話 あなたを、君を、好きな理由
「ずっと、聞きたかったんです」
「うん」
少し離れて座っていた美園は今、前方ゼロ距離にいる。「うれし涙ですけど」と前置きした彼女は、それでも泣き顔を見せたくないと言って、いつものように僕に寄りかかるように座った。
「私の事を覚えていますか、って」
頭を少し撫でると、美園は首元に回された僕の左腕をぎゅっと握った。
「あなたのおかげで私はここにいます、って。言いたかったんです。でも、もし覚えていないって言われちゃったら。そう思ったら聞けませんでした」
「覚えてたよ」
そう言って空いた右手で美園の右手を握ると、握り返した彼女は小さく、嬉しそうに「はい」と口にした。
「あの子はどうしてるかなって、大学生活楽しめてるかなって、ずっと気になってたよ」
「私だと思っていなかった子の事をずっと考えていたんですか?」
美園はちょっとだけムッとした声でそう言うと、僕の右手をつねった。
「理不尽じゃないか!?」
「冗談です。とっても嬉しいです」
ふふっと笑った美園は、優しく「ごめんなさい」と言って僕の右手を撫でた。そしてそのまま僕の左腕をゆっくりとどかし、僕へと向き直り、佇まいを正した。
そんな美園を見て僕も体を起こし、背筋を伸ばした。
「不愛想で失礼な私にあなたがしてくれた事を、忘れた事はありません。あの時は碌にお礼も言えず、申し訳ありませんでした。改めてになりますが、その節は本当にありがとうございました。」
美園はそう言って深々と頭を下げた。先程と違い、戻って来たその顔には微笑みが浮かんでいる。
「僕は大した事はしてないよ。美園が見失ってた物を、そこにあるよって言っただけで、必要な物は全部最初から美園が持ってた」
あの時僕は、この子はいい子だ、いい子過ぎてこうなっていると思った。だから、それを指摘しただけで、解決出来た事だってきっと、美園自身のおかげなのだ。
「私にとってはそうじゃありませんでした。それに、牧村先輩は一つだけ間違えています」
それは何の事だろう。美園は頭に疑問符を浮かべた僕に、何故か少し自慢げな表情で言葉を続けた。
「必要な物は全部最初から持っていた、という部分です。あの時の私には牧村先輩がいませんでした」
僕を必要としてくれている。その言葉に胸と顔が熱くなる。
「あの日から、優しくて誠実なあなたの後輩になりたい、絶対になるんだって、そう思って頑張りました」
意志の強い目を向けてそう言ったところで美園は照れたような表情で少し視線を逸らし、僅かに赤くなった顔で続きを聞かせてくれた。
「でも、いざ実際に後輩になってみると、それだけじゃ満足できませんでした。それで、今に至ります」
照れながら言葉を選んだ美園に、間を端折り過ぎじゃないかと思ったが、そこから先はお互いが知っている事が多いし、大事な思い出ではあるが改めて話すとなると気恥ずかしいものもあるだろう。
「聞かせてくれてありがとう」
美園と会ったのは9ケ月以上前の事になる。そんなにも前から僕を想っていてくれた。大した事をしていないと自分では思っているが、それでもそんな僕を好きになってくれた彼女の想いはしっかりと伝わった。
「どういたしまして」
目を細めて優しく笑う美園に、少し気恥ずかしくなる。ここ最近抱えていた「彼女が自分のどこを好きになってくれたかわからなくて……」という情けない不安を、見透かされてしまいはしないだろうかと。
「それにしても、卒アル見せてもらえて良かったよ。机の上に出てて……?」
誤魔化すつもりでそこまで言って、違和感に気付く。美園だって今日この部屋に入るのは初めてだったはずだし、彼女が机の上を片付けずに下宿先に戻るとは思えない。
美園を見ると、少しだけ気まずそうに、僅かに肩を竦ませて僕を見ていた。
「実は……見てもらいたくて、昨日頼んでお姉ちゃんに出しておいてもらいました」
「あ、あの時の話はそれか」
「はい。もし気付いてもらえなかったら、ただ見るだけになっちゃいましたけど」
思い至る事のあった僕に、美園は苦笑しながら起こらなかった未来の話をした。
「そっか、花波さんが出しといてくれたのか。他の事も含めて後でお礼言っとかないとな」
「私が言っておきますので! 牧村先輩は大丈夫です」
「いや、そういう訳にも――」
「いいんです!」
焦ったような美園の態度にまたも違和感を覚える。花波さんと話すと余計な事を言われるとでも思っているのだろうか。僕と花波さんを接触させたくないように思える。
少し前からだが、花波さんの話題が出ると不機嫌になっていた節もあるが、見ていればわかる通り姉妹仲が悪いという事は無いはずだ。
「もしかしてさ。僕が、花波さんの事好きになると思った?」
「なんでわ……いえ、その、そんな事、無いです」
そう考えると説明のつくような気がして尋ねてみると、一応美園は否定こそしたが、顔を真っ赤にして俯くその様子は、まさに語るに落ちるという言葉が相応しい。
「そうだよ。そんな事は無い。僕が他の人を好きになる事なんて無いよ」
「でも、お姉ちゃんと私は同じ顔をしています」
「美園の顔はもちろん好きだけど、それだけで好きになった訳じゃない」
「でも。牧村先輩はしーちゃんや香さんと話している時の方が楽しそうです。きっとお姉ちゃんとだってそうです」
「そんな事……」
そんな事はあるはずが無い。確かに名前の出た二人と話す時は、美園と話す時よりも気安く話しているかもしれない。それでも、僕が美園と話すだけでどれだけ幸せかなんて事は、僕自身が誰よりわかっている。
「美園」
「……はい」
体一つ分前に出し、噴き出した不安を抑えられない、そんな状態を怖がっているであろう美園の肩に手を置いた。
「僕は美園が好きだ」
多分だが、僕が抱えていたのと同じような不安を、美園も抱えていたのではないかと思う。思い返してみれば僕の方も、「美園のどこが好きか」をしっかりと伝えていなっかった。
「顔が可愛い事ももちろん、綺麗な姿勢が好きだ。品のある所作が好きだ。上手な字が好きだ。作ってくれる美味しい料理が好きだ」
だから、全部言ってやろう。
「からかうと恥ずかしそうに顔を赤くするところが好きだ。逆にたまにだけど見せるいたずらっぽい顔が好きだ。頭を撫でると心地よさそうに目を細めるのが好きだ。手を繋いだ時の嬉しそうな笑顔が好きだ」
僕が他の女性に目移りする事などあり得ないのだと、思い知らせてやろう。
「まだまだあるぞ。誰にでも優しい美園が好きだ。気弱に見えて芯の強い美園が好きだ。頑張り屋な――」
「もう、もうやめてください……」
あと10分は語れるつもりでいたが、目の前の恋人からストップがかかった。
耳どころか首まで真っ赤にした美園が、僕の口を塞ぐ勢いで両手を突き出している。左手を美園の肩に置いたまま、ぷるぷると震える彼女の手のひらに右手で触れて、そっとその手を下に導くと、その大きな目を揺らしながら、美園は眉尻を下げた。
「もっと聞きたいですけど……これ以上は、死んじゃいます」
「それは困るな」
そう言って笑って見せると、真っ赤な顔のままの美園もつられて笑った。どんな顔でも可愛いけど、やっぱり笑った顔が一番可愛い。
「わかってくれた?」
「はい……やっぱり、いいえ」
わかりきった質問をわざとらしく投げかけてみると、潤んだ瞳で一度は頷いた美園が、すぐさま前言を撤回した。
「え」
想定外の言葉に少し驚いていると、美園は赤く染まった顔にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「わからないので、ちゃんと教えてください」
その意図はすぐに知れた。
目の前の恋人は、それだけ言うと目を閉じて見せた。
言いたい事や聞きたい事はあった。「いいのか?」が筆頭だが、どんな言葉も無粋だと思えた。
空いた右手を美園の肩に再び置くと、その体が小さく震えたのがわかった。ゆっくりと顔を近付けるだけで、彼女の周りの空気にすら甘さを覚えてしまう。
そしてそのまま、愛しい恋人と唇を重ねた。




