49話 本音の先輩と楽園からの帰還
「――先輩。牧村先輩」
優しい声と体を揺すられる感覚で、沈んでいた意識がゆっくりと引き上げられる。
「う、ん……」
ゆっくりと目を開くと、目の前にはグレーの壁。左側には白い何かがあり、自分の左側頭部はその白く柔らかな物に接している。そして天地の感覚がおかしい。
「くすぐったいです」
少し頭を動かしてみると、頭の右からくすりと笑う音が聞こえて、一気に目が覚めた。
目の前に見えるグレーの壁はタクシーの助手席、そして左にある白い物は美園の浴衣。つまり所謂膝枕をしてもらっていたらしい。
膝枕って膝じゃないよな、太ももだよな。起きてる時にしてもらいたかったな。
「じゃなくて、ごめん!」
現実逃避を始めた頭を無理矢理引き戻し、急いで太ももから頭を離した。
「着きましたよ」
ばつの悪い思いで美園を見るが、彼女は優しい笑みを湛えていた。彼女の側のドアは開いており、その外に見えるのは今や実家よりも見慣れた僕のアパート。
「いや、美園の家まで――」
「あんまり長居しちゃうと運転手さんにご迷惑ですよ」
少しだけいたずらっぽい笑みの美園に、一瞬見惚れかけたが、大事な事を思い出した。
「あ、ああ。いや、お金」
「それなら彼女さんにもう払ってもらったよ」
「かのっ!?」
事も無げにさらりと言った運転手に、頭と顔が熱くなる。
「いや――」
「さあ、降りましょう」
慌てて否定しようとしたが、それよりも早く美園が僕の手を取った。
柔らかな手にぎゅっと掴まれ、頭のキャパを超えてしまい、もう訳がわからない。
されるがままにタクシーを降り、「ありがとうございました」とお礼を言う美園に釣られ、僕もなんとかお礼の言葉を絞り出した。手はまだ繋がれたままだ。
初老の運転手はそんな僕達に笑顔で手を振ってから、車を走らせ去って行った。
「そうだ。いくらだった?」
右のポケットから財布を取り出しながら、笑顔でタクシーを見送る美園に尋ねると曖昧な笑顔が帰って来た。
「いいじゃないですか」
「そう言う訳にはいかないよ」
「先輩だからですか?」
そうだと答えようとしたが、悲しそうな美園の視線に気付き言葉を続けられない。
自信をもってそうだと言えない事も理由だろうか。
先輩だから、という理由ももちろんあるが、1番の理由は好きだからだ。
好きだからわざわざタクシーを使った。会場から駅まで歩いて、そこからバスに乗って帰っても時間だけ考えれば大差は無いというのに。
足元が不安定な美園を混雑の中を歩かせたくなかった。それはもう混むであろうバスに乗せるなどあり得ない選択だった。
何も言えないでいる僕に美園はふっと息を吐いて、その悲しそうな顔を解いた。
「それに、お金を出せませんよね?」
僕の右手は財布を取り出しはしたが、そこから金を出すべき左手はニコリと笑う美園の右手に繋がれたまま。その右手に少しだけ力がこめられ、場違いかもしれないがとても気持ちがいい。
「離しませんからね」
「いや、でも――」
「今日だけは。今日だけでいいんです。お願いします」
笑顔だった美園がまた少し悲しそうな表情を見せ、繋いだ手にもう少しだけ力がこめられる。
今日だけという言葉の正確な意味はわからないが、悲しみで潤ませた上目遣いはドキリと言うよりはチクリと言う音を僕の胸に与えた。
「わかったよ」
悲しみの色を吹き飛ばした美園が、「ありがとうございます」と満足そうに笑っている。
「それ、こっちのセリフじゃないか?」
「いいんです。今日だけは特別なんです」
「そっか」
「はい。それじゃあ牧村先輩のお部屋まで送りますね」
まあ美園が満足そうにしてるからいいかと苦笑していると、彼女は僕の手を引いてアパートの階段へと歩き出そうとした。
「そっちじゃない」
軽く手を引いて美園の足を止めると、気遣うような視線が僕に向けられた。
「お疲れなんですから、今日はゆっくり休んでください」
一緒にいると言うのに寝てしまったのだから中々反論しづらくはあるが、美園に譲れないものがあったように僕もここを譲るつもりはないので、首を横に振ってその意を示す。
「でも――」
「膝枕のおかげでもう疲れは取れたよ」
口にするのは少し恥ずかしかったので、膝枕の部分は少しだけ小声になった。
先程は平然としていた美園だが、改めて言及されるのはやっぱり恥ずかしかったのか、少しだけ顔を赤くしている。
「家まで送るよ」
「はい……」
◇
「美園はいつから帰省?」
「明後日から実家に帰る予定です」
「そっか」
「牧村先輩はずっとこちらなんですよね?」
「うん。もしかしたら日帰りか一泊くらいで帰るかもしれないけど、今のところは帰省の予定は無いね」
美園を送って行く途中、今日から既に夏休みに入っているので、帰省や夏休みの過ごし方についてが話題に上がっている。
因みに、僕の左手は未だに拘束されている。両手が空くとタクシー代を払おうとするからと、美園は「家に着くまでずっとこのままです」と言って離してくれなかった。むしろ願ったり叶ったりなので、少し困ったフリだけして素直に従っている。
「お盆が終わると、実行委員の活動も再開ですね」
「うん。夏の日中の実務だから暑いよ」
8月後半になれば看板等のデザインも決まってくるため、以前下準備で作っておいた看板の下地に絵を描いて色を塗っていく作業が待っている。
服が汚れないよう美園も待ち望んでいたスタジャンを着ての作業が始まる訳だが、通気性がいいとは言え一枚余計に着る訳で、夏なので当然暑い。
「気を付けないといけませんね」
「ほんとにね」
「早く始まらないかなぁ」
待ち切れない、といった様子で呟いた美園の横顔が可愛い。
そして早く始まらないかな、というのは僕も同意するところだ。
今年の夏休みの特にお盆期間は、周りは帰省するのに自分はこちらに残るせいで割と暇になる。しかも美園は2週間もこちらにいないのだ。いたとしても会う口実が無い訳だが、それでも気が遠くなる程長く感じてしまう。
「とりあえず実家でゆっくりしてきなよ」
内心の寂しさを誤魔化すように、気軽に声を掛けた。
「花波さんとどこか行ったりするの?」
「お姉ちゃんの事はいいじゃないですか」
「喧嘩でもした?」
どこかムスッとした様子の美園に尋ねてみると、少し気まずそうに「そういう訳じゃ、ないんですけど」と彼女は言葉を濁した。
「それにしても」
我ながら露骨だと思うが、なんとなく触れづらい空気を感じたので話題を逸らす事にする。
「その浴衣綺麗だな」
白地に色とりどりの花が咲いた、楚々とした浴衣。思えば最初に褒めただけだった。
今日だけでも、僕は何度も美園に見惚れていた。何度も何度も、その度に言いたくて言えなかった言葉がある。
「ありがとうございます」
少し照れたよう笑顔で、美園は僕の言葉に応じた。
「でも、美園はもっと綺麗だ」
そんな彼女の目をしっかりと見て、今度は本当に伝えたかった事を伝える。
「綺麗だ」
「……ありがとうございます」
小さくそう言って顔を逸らした美園の耳は赤く、少しだけ歩く速度が増した。
それでも、握られた手に少しだけ力が込められたのがわかる。
だから僕も、繋いだ左手に、少しだけ力を込めた。




