番外編 時間限定恋人
勇気を出して誘って良かった。
彼女の心中を占めるのは幸福感と、過去の自分への感謝と賞賛。そして片隅には僅かな罪悪感。
大好きな人と今、手を繋いでいる。
手を引かれた事は今までもあった。恋に落ちた日、つまらない嫉妬心から嘘を吐いた日、そして今日。
どれも牧村が美園を心配して、ほぼ無意識にやってくれた行いだったが、今は違う。彼女の方から彼の手を取り、引くような形ではなく、しっかりと握り合った。本当は親友が恋人としているように指を絡ませたいとも思ったが、流石に出来なかった。
手を繋いで少し歩き、そのままタクシーの順番を待った。会話はほとんど無かったが、そんな事は気にならなかった。
ただ、少しふらついた牧村を心配する事を口実に――もちろん本当に心配ではあるが――手を繋いだ事を思い出すと、少し胸が痛んだ。
「もう22時か」
美園の体感ではタクシーの順番はすぐ回って来たが、歩き始めてからだと1時間近く経っていると言った牧村の言葉に驚いた。
タクシーのドアが開き、先に乗り込んだ牧村が、繋いだままの手を引いて美園を車内へと招き入れてくれる。
「ありがとうございます」
笑顔で応じ、大好きな人のその手に引かれた。
しかし、美園が乗り込んだのを確認し、彼はその手を離した。無理なお願いだとはわかるし、口には出せないが、離さないで欲しかった。
「どちらまで?」
タクシーのドアが閉まる。運転手からの問いに、隣に座る牧村が「大学付近まで、近くなったらまた案内します」と伝えると、「わかりました」という声と、機器の操作の後、車は走り出した。
車内で牧村は運転席の真後ろに座っていた。もう少し左に寄ってくれてもいいではないか、と助手席の後ろの右寄りに座った美園は思う。
花火を見ている時は、ゼロ距離まで近付いた。その後はずっと手を繋いでいた。そのせいで、今の距離がとても遠く思える。
牧村の左腕は、彼に近い所にだらんと投げ出されている。
お互いのシートの中央よりも右、わずかに牧村の陣地へと侵入した美園の右手に、彼が気付く様子は一切無い。
「彼氏さんも鼻高いでしょ」
タクシーは会場の河川敷にある会場の出口から、そろそろ幹線道路へとぶつかる辺りまで進んできた。
牧村と美園と、初老の運転手との間で他愛もない散発的な会話が途切れたそんな頃、その言葉は不意に飛んできた。
「彼女さんがこんなに可愛いと」
容姿を褒められる言葉。普段なら「ありがとうございます」と返して終わりだが、今の美園にとって問題はそこではない。
考えてみれば当然だが、今の二人は恋人同士に見えてもおかしくない。それ自体は嬉しい。しかし、それを指摘されたくはなかった。
指摘されてしまえば、牧村はそれをきっと否定する。否定してくれる、してしまう。
(いや!)
自分でもおかしな考えだと思う。美園と牧村は恋人ではないし、以前親友の志保に伝えたように、しっかりと両想いになってから恋人になりたいと思っていた。
それなのに今日、以前からお願いしていたご褒美にと、頭を撫でて欲しいと頼んだ。丁度花火と被ってしまった事を利用して、体がくっつく距離まで近付いて、体を預け、頭を撫でてもらった。半年以上前から、ずっと言って欲しかった言葉と一緒に。
そしてその後、1時間もずっと手を繋いでいた。だから――
(今日だけは恋人でいたかったのに)
それが違う事は、美園自身が一番よくわかっている。それでも、自分の大好きな人から、それを否定する言葉を、今日だけは、今だけでもいいから聞きたくなかった。
しかし牧村から出るであろう否定の言葉を恐る恐る待っていたが、それは一向に訪れないどころか、彼は何も言わなかった。
美園がおずおずと視線を右に向けると、大好きな先輩の目は半分閉じかけており、その頭はふらふらとしていた。
「牧村先輩?」
静かに呼びかけると、牧村はゆっくりと顔を美園へと向けたが、様子はやはり虚ろなまま。寝不足だと言っていたので、眠いのだろう。
「お疲れでしたら着くまで寝ていてください」
頭をふらふらとさせる牧村がかわいいと、美園は思った。
牧村が美園に見せる顔は、不意の時を別にすればそのほとんどが先輩としての顔だ。それはそれで格好良くて素敵だと思う美園だが、寝顔とはまた違う無防備な顔が微笑ましい。
「美園と、一緒だから……」
そんな状態の牧村が発した言葉は、間違いなく彼の本心。
一緒だから、で終わってしまったが、きっと美園が喜ぶ言葉が続いたはずだと思えてしまうのは、都合のいい事だろうか。
一緒だから「まだ寝たくない」、一緒だから「安心して寝られる」というのは、以前彼女自身が思った事だ。牧村が続けるはずだった言葉が、そうであったなら嬉しい。
「私の事は気にしないでください。さあ」
そう伝えて、牧村の体を自分の方へとゆっくりと倒す。少しずつ傾く牧村の体を、美園は温かな気持ちで優しく、優しく支えた。
いつもなら絶対に出来ない事、牧村の頭を腿の上に優しく横たえ、その頬に触れた。彼からの反応は無い。すぐに寝入ってしまったようだった。
寝不足の中、気を張っていてくれたのかもしれない。少し申し訳ない気持ちもあったが、誰の為に気を張っていたかは考えるまでも無い。嬉しくないはずが無い。
しかし本来なら牧村が寝ていても、こんな事は出来なかったと美園は思う。それでも今日だけ、今だけは、恋人ならこんな事をしてもいいのではないだろうかと、偽りの自分を全面に出した。
整髪料の着いているであろう牧村の髪は、サラサラとはいかなかったが、それでさえも愛おしいと思えた。腿にかかる重さですら心地いい。
「彼氏さん、寝ちゃった?」
尋ねてきた運転手と、ミラー越しに目が合った。
すっかり忘れていたが、タクシーの車内だった事を思い出し、膝枕という美園にしてみればとても大胆な行為に、顔が少し熱くなる。
「はい。寝ちゃいました」
恥ずかしさと少しのためらいはあったが、「彼氏さん」と言う言葉を、牧村の右肩にそっと手を置いた美園は否定しなかった。
「最初は、この男上手い事やったな、って思ったんだけど」
運転手は笑いながら、「彼女さん凄い美人だから」と続けた。
少しくすぐったい思いで、「ありがとうございます」と返した美園に、彼は次の言葉を投げかける。
「こうして見てると、逆なんだね」
彼から見たら、牧村が美園を捕まえたと思えたのかもしれない。
実際は付き合っている訳では無いが、美園が捕えられた事自体は間違いではない。
あの日から、牧村は美園の心を掴んで離さない。本人にその気どころか、自覚すらないのが悲しいところではあるが。
「逆、という訳でも無いんですけど。でも、私の方がこの人の事を大好きなんです」
美園は誇らしい気持ちでそう答えた。
だからいつか、自分も彼の心を掴んでみせるのだと、そう決意を込めて。




