33話 勉強会と拗ねる後輩
「お疲れ様」
金曜、雄一との約束の時間に委員会室に向かうと、目的の人物は真面目に教科書を開いていた。
「あ、マッキーさん。お疲れ様っす。今日はお願いします」
「ああ。早速やろうか」
雄一の前の席に座り、後ろを向いて教える態勢を整える。
「どの辺を重点的にやりたいんだ?」
「んーそうっすね。遺伝子のあたりからで」
「最初からじゃないかそれ」
「せっかく教えてもらえるなら最初からやりたいなと思って」
「今日だけじゃ終わらなそうだな。また予定組むか」
頭を掻く雄一に、息を吐きながらそう伝える。どうせ試験まではある程度暇なので、自身の復習と考えれば大した手間ではない。
「ほんっと助かります。色々恩返ししますから」
「はいはい。文実の仕事と来年の1年に良くしてやってくれよ」
「それ以外でも任せてくださいよ」
笑いながら胸をドンと叩く雄一だが、それ以外で任せられそうな事は無さそうだ。
◇
「え、構造式全部覚えるんですか?」
「DNA、RNAと塩基くらいはね。別に立体構造全部頭に入れろとは言ってないから楽勝だろ」
「えぇ……まさかマッキーさんは立体構造まで完璧なんすか?」
「ああ。でも構造式と混成軌道を理解してれば必要な時に組み上げればいいだけだし、覚えてなくても問題無いよ」
「そんな事出来る奴がどれだけいると思ってるんすか……とりあえず構造式だけ頑張るっすよ」
「まあヌクレオチド全体で見れば確かに複雑に見えるかもしれないけど、リン酸とリボースと塩基に分けて見れば大して複雑じゃないからな。何回か書いてれば覚えるさ」
担当教員が去年と同じだというので、僕が持って来た去年の小テストと期末試験の内容をベースにして、雄一に分子生物学を教えている。雄一の理解力は悪くないと思うが、基礎的な知識の量に難がある。
「試験じゃ結局知識が無いと何も出来ないからな。覚えるポイントに関しては絞り込むから、後は頑張れ」
「はいっす……」
腕時計に目をやると、僕が来てから1時間程経っていた。雄一も少し疲れ気味のようだ。
「一旦休憩にするか。飲み物買って来るけど、コーヒーでいいか?」
「はい。ありがとうございます」
口調の変わった雄一に苦笑しつつ、僕は共通G棟前の自販機まで歩いた。自分の分の紅茶と雄一の分のコーヒーを買い、自販機から取り出したところで横から声をかけられた。
「こんにちは。牧村先輩」
「マッキーさん、お疲れです」
「ああ、こんにちは。委員会室に用か?」
授業がある棟ではないのでわざわざ来る以上聞くまでも無いだろうが、特に急ぎではなさそうなので話のとっかかりとして聞いてみた。
「はい。4コマ目が終わって、夕食まで少しお勉強しようかなと思いまして」
「私は美園が行くって言ったので付き添いです」
「普段から結構来るのか?」
僕が普段から顔を出す訳ではないので、彼女達が委員会室に顔を出す頻度はわからない。志保は実家から通っているので空き時間に良く顔を出すのかもしれないが、美園はあまり来るイメージが無い。二人一緒の事は多そうなので、志保に付き合って来るのかもしれないが。
「私は空き時間にたまに来ますね。教養科目が違うと友達とタイミング合わなくて、結構暇なんで」
「実家からだとまあそうだよな」
「美園は普段来ないんですけどね。私が誘っても乗り気じゃない癖に、今日は何故か行くって言い出したんで付いて来たんですよ。何故か」
「しーちゃん!」
何故か「何故か」を強調する志保に、横でニコニコしていた美園が焦り出した。志保が「ごめんごめん」と笑いながら宥めると、美園は「もうっ」と顔を赤くして拗ねてしまった。そんな可愛らしい様子の美園の頭を、志保が優しく撫でている。羨ましい。
「美園は何で来ようと思ったんだ?」
「ええっと……あ、今日が前期の最後じゃないですか。記念にと思って」
目を泳がせた美園が、ちょうどいい答えを思い付いたというように手を合わせながら言った。ツッコミ所は満載だが、本人が言いたくないなら追及する訳にはいかない。気になるけど。
横でニヤニヤしている志保はきっと理由を知っているのだろう。
「そっか。とりあえず何か飲むか?」
「ありがとうございます。じゃあ紅茶で」
自販機を指差して尋ねると、志保はあっさりと乗って来た。美園は少し迷っていたようだが、コインを投入して自販機の前に促すと、諦めて志保と同じ紅茶を買った。
「牧村先輩。ありがとうございます」
この笑顔を見られるなら160円は安すぎる。
「とりあえず中入ろうか。雄一待たせてるし」
「「はい」はーい」
前半だけ声をハモらせた二人を伴って委員会室に戻ると、雄一は復活してノートに構造式を書いていた。意外とやる気があるようで安心した。
「その五角形とか六角形とか何?」
「おわ! なんだ志保か」
「あ、ごめん」
集中していたところに突然声をかけられて、驚いた雄一に謝る志保を横目に、「お疲れ」とコーヒーを渡してやる。「あざっす」と受け取った雄一は、先程までいなかった二人を見て軽く挨拶をした。
二人の方も雄一に挨拶をして、僕の隣に美園が、その後ろに志保が座った。
「私達も横で勉強してますよ。ね?」
「はい。お邪魔にならないように気を付けますから」
「邪魔なんて事は無いよ。な、雄一」
「むしろ俺が……いえ。問題ないっす」
「ん? まあいいや。構造はまた自分で覚えてもらうとして、次は転写行こうか」
「了解っす」
◇
「旅行楽しみですね」
今日も上機嫌な美園と一緒に帰っている。因みに僕から誘った。
彼女が口にした旅行と言うのは、8月下旬に予定されている文実の旅行――体裁上は合宿と称されている――の事で、以前から案内はされていたが、今日の全体会で正式に日程や費用が告知された。参加希望は、7月の中頃までにメッセージグループの方に出す事になっている。
僕も参加予定だが、この様子なら美園ももちろん参加なのだろう。
「そうだな。帰省の予定はもう決まった?」
「はい。お盆が過ぎたらこちらに戻ろうと思います。牧村先輩はどうされるんですか?」
「僕はお盆もこっちかな。バイトのシフトでちょっとあって」
「大変なんですね」
「そうでもないよ」
そう、大変なのはお盆のシフト自体ではなく、お盆にバイトに入らなければならなくなった理由の方だ。だと言うのに花火大会には未だ誘えていない。
猶予は今日までだと思っている。それなのに、言葉が出ない。この機会を逃せば、明日の飲み会の次に美園に会えるのは恐らく花火大会後の旅行の時になる。もちろん、誘えても断られれば同じ事になるが。
「あの、牧村先輩」
「ん?」
ぐるぐると同じ場所に思考を巡らせてしまっていると、美園から声をかけられた。
「雄一君とは、またお勉強会するんですよね?」
「ああ、次の木曜にやる予定だよ」
「それじゃあ」
美園が足を止めた。僕も合わせて立ち止まると、彼女は正面から僕を見た。
「私ともお勉強会してもらえませんか?」
真剣な瞳が少しだけ潤んでいるように見える。
「僕は構わないんだけど、教えられる事無いんじゃないか?」
美園が同じ学科とは言わなくてもせめて学部が一緒だったなら、出来るかどうかはともかく僕から切り出したい話だった。だが僕は理学部生物学科、彼女は人文学部社会学科と、まるで専攻が違う。教養で理系科目を選択していなければ、被るのは英語くらいではないだろうか。
「統計学で数学を使います。でもそれだけじゃなくて、牧村先輩と一緒だと集中できると思うんです。だから――」
「わかった。確かに誰かと一緒の方が集中できるかもね」
自分で言って白々しいと思う。誰かと一緒の方が集中できる、というのは確かにあるかもしれない。ただ、その相手が美園となると別だ。絶対気になって集中できない。
しかしこれは願っても無い提案だ。花火大会へのお誘いを先延ばしに出来るという狡い考えも浮かぶが、一緒にいられる時間を増やせる事が何より嬉しい。
「こちらこそよろしく頼むよ」
「はい!」
緊張の面持ちから一転、破顔する美園に見惚れてしまう。
「いつにする? 7月に入れば文実の活動無くなるから、火曜と金曜は大体空くけど」
「ご迷惑じゃなければ、継続的にお願いしたいです。例えば毎週金曜日に、とか」
「じゃあ毎週金曜でいいかな? 場所は――」
「私の家でどうでしょうか。ご飯も用意しますので」
おずおずと提案してくる美園の様子は可愛いし、あの手料理が食べられるというのは非常に魅力的だが、一つ懸念がある。
「あくまで普通の食事で頼む。普段一人で作ってる時と同じで」
この子は多分、誰かに料理を作ろうとしたら気合が入るタイプだ。集中したいからと言って、一緒に勉強する相手を求めているのに、料理で時間を取ってしまっては本末転倒になる。
「せっかくなのでちゃんとした物を食べて貰いたいです」
「ダメ」
両手をクロスさせて否定の意を示すと、美園は「むー」と拗ねて口を尖らせた。
そんな美園を見て、頭を撫でたい衝動を抑えるのに苦労した。




