28話 消極先輩と誓い
「すみません、眠ってしまって」
「いや全然。疲れもあったろうし、気にしないで」
「ありがとうございます。ところで牧村先輩」
美園がどんな顔をしているかはわからないが、声からは疑問の色を感じる。
「どうしてそんな所にいるんですか?」
「気にしないでくれ」
「はあ。でも暖かくはなってきましたけど、髪の毛を乾かさないと風邪ひいちゃいますよ?」
「それだ。あ、いや。悪いけどドライヤーかけるからうるさくするよ」
「はい。私の事は気にせずにどうぞ」
僕の部屋の居室部分は真ん中付近にテーブル、窓に向かって左にベッドが置いてあり、美園は現在ベッドとテーブルの間にいる。対して僕は、居室部分のドアを入って右の角に収まるように座っていた。
先程自分の気持ちを自覚してしまってからというもの、美園の顔がまともに見られない。中学生の初恋でもここまでではないだろう、という程の状態に陥っている。
だから今、ドライヤーを使うというのは妙案だ。髪を乾かす間に心を落ち着けるしかない。丁度すぐそこに置いてあるドライヤーを手に取り、スイッチを入れ、頭を回し始める。
現在時刻は22時なので0時に寝るとしてもあと約2時間、間を持たせなければならない。普段なら話す事はいくらでもある、相手が美園ならなおの事で、2時間くらいならあっという間に過ぎてしまうだろう。ただ今は、僕がそれに耐えられるかどうかが怪しい。
それなら映画でも見ようか。ノートPCの画面で見なければならない分、ある程度距離は近付くので、精神修行的な面はあるが、間を持たせるだけなら優秀――
「なんだよそれ」
呟いた言葉はドライヤーの音がかき消してくれている、美園には聞こえなかっただろう。柄を握る自分の右手に力が入るのがわかる。
さっきから僕は何だ。間を持たせるだの精神修行だの。
これをチャンスと捉えて行動を起こす、という大それた事が出来ないにしても、どうして好きな女の子と一緒にいるという、そんな幸せな時間を捨てようと思えるのか。
何より一緒にいてくれる美園に失礼極まりない。
しかし、じゃあどうしようかという部分は全く思いつかないままに、髪は乾いてしまった。本当にどうしよう、とりあえず平常心だ。
「ごめんね、うるさくして」
「いえいえ。私がお邪魔しているんですから気にしないでください」
ようやく正面から美園を見て、会話のとっかかりを探そうと思ったが、優しい微笑みになけなしの平常心は崩されてしまう。
「と、ところでさ。どうするか決めた?」
仕方ないので風呂に入る前の話題から続けるしかない。今となっては送り帰すという選択肢はもう無いので、何とかしてベッドで寝かせる方向に持って行くしかない。
「考えましたけど、せっかくなのでお言葉に甘えさせても貰おうかなと思います。牧村先輩には申し訳ないですけど、その分何かお返ししますね」
「そんな事気にしなくてもいいのに」
相変わらずの律儀な後輩に内心苦笑するが、お返しという言葉にはピンと来るものがある。
「僕の方こそ、今日の料理にワインまで貰ったんだから、何かお返ししないとね」
感謝の気持ちはもちろん大きいし、純粋にお返しがしたいのも事実だが、これを口実にまた一緒にいる時間を作りたいという思いも大きい。
「それこそ気にしないでください。前回のお礼と先日のお詫びですから」
「いやいや。それを十分に超えてたよ」
「いえいえ――」
◇
結局お礼やお返しの話は平行線を辿った。なので、それにかこつけて次の約束をしようという思惑も上手くいっていない。
美園はこういった事では意外と譲らない。人として好ましい面だと思うが、なんとかして次の機会を作りたい今の僕からしたら中々困らされる一面だ。
どうすべきかと美園を見ていると、彼女は口を押えて小さく可愛らしいあくびをした。
「すみません」
恥ずかしそうに謝る姿も可愛い。
「今日早起きしてくれたみたいだし、そろそろ寝ようか」
一緒に話す時間が惜しいという気持ちはあるが、僕のために早起きしてくれた美園に無理はさせたくない。
「もう少しお話したいです」
「じゃあいつ寝ちゃってもいいように、とりあえずベッド入りなよ」
「そうするとすぐ眠っちゃいます」
「やっぱり眠いんじゃないか」
「あ……」
話をしたい、そう言ってくれるだけで僕にとっては十分だ。
拗ねたように言う美園は、言葉を聞くまでもなくやはり少し眠そうに見える。からかうように指摘すると、彼女は諦めたのか「お化粧を落として着替えてきます」とうなだれた。
「ああ、そうしたら寝るまで色々話そう」
「はい」
僕にそう答えながら、美園はキャリーバッグの中から、恐らく着替えが入っているであろう袋とポーチを持って洗面に向かっていった。
閉じられた扉を見ながら、僕の頭の中は「どんな服に着替えるのだろう」という思考に支配された。実際見た事は無いが、美園はネグリジェとか着ていそうだな、というイメージはある。流石にここでは着ないだろうけど。
パジャマにしろ仮にジャージにしろ、普段の彼女とは印象が違う服。ものすごく楽しみだ。ついさっきまで正面から見られない、などと思っていたのが嘘のように楽しみだ。
しかしジロジロ見るのは失礼だろうか、だろうな。化粧も落とすと言っていたし。
そんな思考で悶々としていると、扉が開いて美園がおずおずと入って来た。薄い水色のネグリジェを身にまとって。
「あの。恥ずかしいのであんまり見ないでください……」
「あ、ごめん。凄く似合ってたから、つい」
恥ずかしそうに頬を染める美園に、ジロジロ見たら失礼だなどと思っておきながら、結局のところ視線を奪われた。
「お化粧も落としているので……」
「ほんとごめん」
言われてなお視線を外せないでいた僕は、2度目の言葉でようやく美園から視線を外せた。化粧を落としているとは言ったが、正直普段とそこまで大きな差を感じなかった。
そんな美園はキャリーバッグの中に袋とポーチをしまうと、そそくさとベッドに潜ってしまった。
「牧村先輩は私のタオルケットを使ってください」
布団から顔を半分覗かせた状態の美園が、そんな事を言う。よく見るとキャリーバッグの上に、タオルケットが置かれている。
「それじゃあ、ありがたく借りるよ」
目と眉だけでも美園が微笑んだのがわかり、こちらも微笑ましい気持ちで見ていると、彼女はハッとしたような目になり布団を被ってしまった。
「化粧落としてもそんなに変わってないし、気にしなくても」
「そう言って貰えるのは嬉しいですけど、ちょっと複雑です」
女心と言うのは難しい。素顔がいいと褒めたつもりだったが、向こうとしては何やら思うところがあるようだ。
◇
翌日は普通に目が覚めた。あの後、他愛のない話をしている内に、美園はすぐに寝入ってしまった。
僕の方は、緊張で眠れないかとも思ったが、ベッドとはテーブルを挟んで反対側、デスクのすぐ近くでタオルケットにくるまってから、その後の記憶はあまり無い。すぐ眠れてしまったのだろうと思う。
手に取ったスマホは6時30分を示している。寝た時間の影響とは言え、休みの日に目を覚ますには若干早い。床で寝はしたが、伸びをしても体の痛みはなく、好調な目覚めだと言える。
「おはようございます。牧村先輩」
「おはよう、美園」
訂正する。多分朝イチだけを考えれば、人生で一番幸せな目覚めだと、美園の笑顔を見てそう思う。
既に着替えの済んでいる美園は、髪をアップにしてエプロンを身に着けている。
「もしかして朝ご飯作ってくれてる?」
「はい。勝手にお台所使ってすみません。材料は昨日の残りなので、サラダくらいしか作れていないんですけど」
「十分すぎる。ほんとにありがとう」
冗談抜きで今日は人生最高の朝だと思う。
身支度を済ませると、テーブルの上にはトマトと玉ねぎのサラダに、昨夜のビーフシチューが用意されていた。
「簡単な物と残り物ですみません」
「美園に作ってもらえるだけでもありがたいのに、味も最高なんだから悪い事なんか一つもないよ。ありがとう」
申し訳なさそうな彼女に、心から感謝を伝えるが、これでもまだ僕が今どれだけ幸せかを、まるで伝えきれていない。
◇
あの後、片づけまでしてくれようとした美園を止めて、家まで送った。彼女の部屋は2階にあるので、キャリーバッグの事を口実に今日は部屋まで。オートロックの玄関から彼女の部屋までの、そんな短い時間でさえも一緒にいたかったのが本音だ。
手を振って美園と別れた後、胸に穴の開くような感覚に気付いた。今までは気付かなかった事だが、彼女への好意を自覚した今となっては、これが寂しさによるものだとわかる。
今の今まで、昨日の夕方からずっと一緒にいたというのに、次に会えるのはいつになるか、次に会ったら何を話そうか、そんな事ばかりが頭を占める。
だと言うのに、来月末には試験があるので、文実の活動はこれから少しずつ減っていく。学年も学部も違う美園と一緒にいられる口実はどんどん無くなっていく。
それが嫌なら自分から動くしかない、頭ではそう分っている。そしてそれは、僕の一番苦手な事だという事も、20年近い人生の中で痛い程わかっている。
ただそれでも、それでも僕は自分を変えたいと思う。変わらなければ美園に近づけないのだから。
絶対に変わって見せる。他の誰にでも無く、僕は自分自身に誓った。




