26話 赤ワインと半袖の後輩
そろそろ約束の時間になる。それに伴って、冗談だとはわかっていても「お泊り」という単語を意識してしまい、落ち着かない。
換気でもしようと思い窓を開けると、大学とは反対側の交差点から、遠目からでもわかるとびきり可愛い女の子が歩いて来ている。大きな水色のキャリーバッグを転がしながら。
「まさか本気なのか」
一瞬思考が飛びかけたが、すぐに冷静になって部屋を飛び出した。僕がアパートの階段を下りるのと、美園がそこまで辿り着いたのはほぼ同時だった。
「こんにちは。牧村先輩」
「いらっしゃい。取りあえずそれ貸して」
美園はちらりと僕の後ろに視線をやって少し笑った。
「ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えさせてもらいますね」
「このくらいなら任せろ」
「部屋から出て階段を下りた時はまだ良かったんですけど、上りはどうしようかなって思っていたので、助かりました」
「遠慮せずに呼んでくれればいいよ」
「次からはそうしますね」
そう言ってふふっと笑う美園から受け取った荷物は、意外と重かったが階段にぶつける訳にもいかないので、なんとか片手で運びきった。
「本当に泊まる気なのか?」
「そう言ったじゃないですか。お風呂も済ませてきましたよ」
それはさっきから僕の嗅覚がしつこいくらいに教えてくれている。
微笑む美園に言葉が返せない。「何で泊るんだよ」「家に帰れる距離だろ」なんて言葉は思いついていたのに。
「荷物置いたらそのまま買い物に行く?それともちょっとゆっくりする?」
「時間もかかりそうなので出来ればすぐにお買い物に行きたいです。あ、また冷蔵庫お借りしてもいいですか?」
「ああ、どうぞ」
会話をしながらドアを開け、美園を中に通して荷物を部屋の中まで運んだ。美園は冷蔵庫に何やら白い箱をしまっていた。デザートだろうか。
「そうだ。牧村先輩、これ。すみませんでした」
「ん?」
そう言って美園が差し出して来たのは、手のひらサイズの白い小さな封筒。受け取ってみると、中に硬い物が入っていそうな感触がした。
「鍵か。渡したままだったっけ」
「はい。お返しできなくてすみませんでした」
「いいよ、気にしなくて」
白々しい事を言ったと思う。鍵を渡したままだった事など忘れてはいなかったのだから。封筒から取り出した鍵は冷たかった。熱伝導率のせいだろう。
◇
僕の家からスーパーへは徒歩5分程、家の近くの交差点を、美園の家とは逆方向の右に曲がって行った先にある。
「今日のメインはビーフシチューです」
「楽しみだ」
スーパーに着く少し前、今日の料理についての話になった。
「他の物、サラダとお魚料理とご飯ものを作ろうと思っているんですけど、牧村先輩は何か苦手な物はありますか?」
「んー。特に大丈夫かな」
「じゃあ逆に好きなものは?」
そう言われて気付くが、僕の好物って何だろうかと。
「何だろう?改めて言われると全く思いつかないな」
「それじゃあ」
美園は少し驚いたような顔をしたが、すぐに嬉しそうに笑った。
「私がこれから探していきますね」
「お手柔らかに」
「はい。ひとまず今日のメニューはお任せしてもらってもいいですか?」
「お願いします」
結局こうなってしまったかと内心苦笑しつつ、そのありがたい提案に乗る事にした。
先程の質問は、僕の好みから絞り込もうとしただけで、恐らく最初からメニューの候補はあったのだろう。美園は迷う事無く買い物カゴ――僕がカートを押している――に品物を入れていく。
人参、玉ねぎ、ジャガイモ、牛肉辺りのビーフシチューの材料の他に、ミニトマト、サーモン、チーズなどもカゴの中に加えられていく。何を作るのかわからないが、ここで聞くのも野暮な気がする。
ふと周囲に目をやってみると、流石土曜の夕方というべきか、夕食の買い物に来たであろう人が多い。
学生アパートが多い地域とは言え、普通のご家庭が存在しない訳では無いので、夫婦と思しき買い物客も何組か見受けられた。
僕たちはどう見えるだろうか。頭に浮かんだのはそんな疑問。夫婦には見えないのは当然にしても――
そこではっと気づき、頭を振っておかしな思考を吹き飛ばした。
「どうかしましたか、牧村先輩?」
「いや何でもないよ、ごめん。次はどっち?」
「そうですか?調味料類は持ってきているのでもうこれで終わりです」
「じゃあお会計済ませようか」
「私が払いますからね?」
「信用無いなあ」
まるで子どもに言い聞かせるかのような美園に肩をすくめて見せると、拗ねたよう表情で「前科がありますから」と言われてしまう。
約束とはいえ後輩に支払いをさせてしまうのは多少心苦しいが、恐らく合計額は想定に近い金額になるはずだ。これで美園の貸し借りの意識が消えてくれるなら、僕のメンツなど大した事ではないと思う。
「じゃあ美園さん。ごちそうになります」
「もうっ」
少し大げさに支払いをお願いすると、美園は言葉とは裏腹に目を細めて笑った。
◇
「騙された!」
部屋まで戻り、買った材料を僕がキッチンに置いている間に、美園は自分のキャリーバッグから調味料の類を取り出していた。それを見た僕の感想がこれだ。
「どうしたんですか?」
きょとんと首をかしげる美園の手にあるのは赤ワインのボトル。ラベルから受ける印象は料理用の安い物では無さそう、そうとしか思えない。
「それ高いヤツだろ?料理用だから安いのでいいんじゃないのか?
「お料理に合わせて飲める物にしました。大丈夫ですよ、そんなに高い物じゃありませんから」
そう言って美園は微笑みながら、ボトルを少し持ち上げて見せる。以前選んだ店の事があるせいで、その言葉は信用できない。後で調べようと思い、ワインのラベルを覚えておく事にした。
「じゃあ早速始めますね。牧村先輩はお好きな事をして待っていてくださいね」
キャリーバッグから以前と同じエプロンと髪留め――調べたらダッカールと言うらしい――を取り出し、支度をしていく美園を前回同様に眺めていると、またしても鏡の中の彼女と目が合ってしまった。学習をしなかった訳ではない、うなじの魔力がそれを上回っただけで、不可抗力と言える。
「上手く出来たら見ていいって言ってたから……」
「可愛く出来ていますか?」
「うん。いいと、思う」
「それなら、良かったです」
おずおずと尋ねる美園に大分控えめな感想を送ると、彼女は安心したように息を吐き、鏡越しの僕に微笑んだ。
「調理器具をお借りしますね」
「ああ。あと、前にも言ったけど必要な調味料や米なんかも使ってくれていいから」
「はい。ありがとうございます。7時くらいにはお出しできると思います」
「楽しみに待ってるよ」
「ご期待に沿えるよう、頑張りますね」
水色のエプロンの胸元で、握りこぶしを作って美園が気合のアピールをした。そんな姿が可愛らしくて、微笑ましくて頬が弛んだ。
美園は「好きな事をして待っていてください」と言ったが、はっきり言って何もする事が無い。正確には何をしても落ち着かない。
トントントンと心地よいリズムで響く包丁の音や、バターを使って玉ねぎを炒める匂い、そして美園がそれを作っているという事実が、僕の集中力を削り切った。
今はページの進まない本に目を落としつつ、たまにさり気なく美園の後姿を見ている。アップにした髪とそのおかげで見える首筋と、6月に入り半袖になったワンピースから見える二の腕に、僕の視線は引き寄せられる。
本能的にはどうしようもなく仕方の無い事だとわかるが、同時に罪悪感がザクザクと心を刻んでいる気がする。かと言って無理矢理視線を逸らしても。ちょっとしたらまたいつの間にか目が言う事を聞かなくなっている。
「座禅でも組むか……?」
時計を見ると、予定の時間まではあと1時間30分を切ったところだった。




