二巻発売後SS IFストーリー もしも別れの抱擁の後に鉄の意志を発揮していたら
62話後のIFストーリーです。二章ラストでちょっと違う行動を取っていたら……?
美園との抱擁。別れの、と頭につくことがある意味口実になっていたので、あまり長くを求めることが出来なかった。本音を言えばあと何時間でもしていたかったのに。
付き合って初日かつそれなりに遅い時間ということもあって、年上の恋人としてカッコつけた訳なのだが、ぬるい夜風を浴びながらの帰り道で早くも後悔している。
「仕方ない」
そう言い聞かせて無心で歩いて辿り着いた自分の部屋、ちょうどポケットから取り出した瞬間にスマホが震えた。表示された名前は『君岡美園』。
「美園……」
もちろん連絡をくれたことに対する喜びもあるのだが、たった四文字の名前を見ただけでどうしてか心が満たされる。帰り道で覚えていた後悔など、もはやどこにも無い。
「もしもし。美園?」
『はい。牧村先輩……急にお電話してすみません』
「いや! 全然」
応答の声から少しトーンを落として謝る美園に力強く応じる。見えるはずもないのに首も大きく振った。電話の向こうから美園の吐息が聞こえた。
「あ、ごめん。大きな声出して。でも、電話貰えて嬉しいよ、ありがとう」
『そう言ってもらえて、私の方こそ嬉しいです。ありがとうございます。もうお家に着きましたか?』
可愛らしい声は普段の美園と同じ。ただ、落ち着いた話し方の中でも彼女の声が弾んでいるのがわかる。心臓が跳ね回るような感覚ではないが、自分自身静かに高揚していくような感覚を覚えてしまう。
「うん。ついさっき着いたよ」
『あ、すみません。それじゃあ、もう少し後にかけ直しますね』
「いや、このまま話そう。せっかく美園の声が聞けたのに、もう一分でも待ちたくない」
美園の返事を待たず、腰を下ろす。一旦通話を切るつもりなど毛頭無いという意思表示だ。見えないけど。
『牧村先輩……』
美園が息を飲んで数秒後、『はい』とこの通話で一番弾んだ声が耳に届いた。
『私も、待ち切れませんでした。時計を見ながら、牧村先輩はもうお家に着いたかなって、ずっと待っていました。結局、待ち切れなかったですけど』
少し眉尻を下げながらはにかむ美園の姿がありありと浮かぶ。
『牧村先輩が帰っちゃうからですよ?』
今度は少しいたずらっぽく笑う彼女の姿が浮かぶ。右耳だけにしかいない美園が、すぐ隣にいてくれるような感覚は、何と言うかくすぐったい。
「ごめんごめん。でも、あのままだと本当に心臓が耐えられなかったよ」
『仕方ありませんね』
嬉しそうにふふっと笑ったと、美園が『でも』と言葉を続ける。
『そのおかげでこうやって通話が出来たので、良かったのかもしれませんね』
「ああ、そう言えば今までほとんどしたこと無かったもんね」
『そうですね。これからは、時々こうやってお電話してもいいですか?』
「むしろさせてくれないと困るよ」
『もう』
会えるのが一番いいと思うが、こうやって夜の時間で通話をするのも恋人らしい感じで幸せを感じる。
「せっかくだしビデオ通話にする?」
『ええと……したいんですけど、ちょっと今だらしない顔になってしまいそうなので……』
「そういう顔も見せてほしいんだけどな」
多分僕も似たような顔をするだろうし。
『恥ずかしいのでダメです』
「了解」
少し口を尖らせる美園が見える。
「さて、どんな話しようか?」
『どんなお話でもいいです。声を聞かせてください』
「それ、こっちの台詞なんだけどなあ」
電話の向こうから美園の可愛らしい笑い声が聞こえ、それから本当にとりとめのない話を続けた。気が付けばもう、美園と付き合い始めて二日目になっている。
「それじゃ、本当に名残り惜しいけどこの辺にしとこうか」
『そうですね。遅い時間までお付き合いしてくれて、ありがとうございました』
「こちらこそ」
『…………』
「美園?」
遅い時間ではあるが今の流れで眠ってしまったということは無いだろう。何かあったのかと心配になったが、ビデオ通話のアイコンが光った。即座にタップした。
『おやすみなさい。牧村先輩』
「おやすみ、美園」
愛らしい笑みを浮かべた美園の頬には朱色が注がれていて、本人の前言通り少しだけ緩んでいた。
だた、それがだらしないなんてことは、もちろん一切無い。可愛くて仕方が無いのだが、それを伝える前に美園がえへへとはにかみを浮かべ、最後の言葉を口にした。
『それじゃあ、失礼します』
「うん。また明日」
『はい。また、明日』
きっといくらでも話していられたと思う。ただ、『また明日』会えるのだから、今はこの幸せを噛みしめておこうと思う。