社会人の部屋、二人の部屋
智貴が社会人になった後のお話です
社会人になって1ヶ月。まだ学生の美園とは遠距離恋愛になってしまっていたが、その彼女を初めて新しい部屋に招いた。
「ありがとうございます」
ドアを上げて中へと促すと、緊張気味の美園がそれでもやはり丁寧に頭を下げた。
「そんなに緊張しなくても。美園だって部屋選ぶ時に来てるだろ?」
「緊張しますよ。私の知らない、社会人になった智貴さんのお部屋ですから」
口ではそう言うものの緊張はどこへやら、美園の大きな瞳が期待に輝く。
「期待に応えられるといいんだけどね」
「その点は心配していませんので」
肩を竦めた僕に美園がやわらかく笑い、「お邪魔します」とドアをくぐる。
部屋の間取りは2LDK。靴を脱いでスリッパを履いた美園が玄関スペースを通過し、リビングスペースへ。そして予想通りと言うべきか、部屋を見渡して少し怪訝そうな顔をする。
「がっかりした?」
「……いえ、そういう訳ではないんですけど。全然物が置いていないなと思いまして」
「まあね。荷物ここに置くよ」
「あ。ありがとうございました」
迎えに行った駅から運んで来た美園の荷物をソファーの上に下ろす。そのソファーと向かいのテーブル以外、リビングにはほとんど家具を置いていない。社会人どうこうは関係無く、殺風景極まる部屋だ。
「来年から美園も一緒に暮らすだろ? だからその時に二人で選ぼうかなって」
礼金や引っ越しの手間などを考えれば損な話でもないし、何より僕を追いかけて来てくれる美園を迎え入れるのに万全でいたかった。
「そういう事だったんですね。でも、私は智貴さんが選んでくれた物に文句なんて言いませんよ」
「それは分かってるけどね。僕が美園と一緒に選びたかった、って言うのが正しいかな」
「ありがとうございます。楽しみですね」
二人の部屋を、二人で作り上げたかった。そんな僕に、美園は嬉しそうに目を細め、ぎゅっと抱き着いた。部屋に入ってから感じていた、彼女のほのかに甘い香りをより強く感じられる。やわらかな体と相まって、高揚と懐かしさを覚えた。
「こうするのも1ヶ月ぶりか」
「1ヶ月と1週間です」
「うん」
抱きしめ返すと、美園が更に力を込める。
「私は新幹線通学をします、って言ったのに」
胸に埋めた顔を少し上げ、美園は恨めしげな表情を作って僕を見上げる。
実際、四年生になった美園が大学に通わなければならないのは週1日だけ。下宿の家賃生活費を考えれば、ここで僕と暮らして新幹線通学をする方が安く済む。それに何より、二人の時間は桁違いに多くなる。僕だってそうしたかったのだ。なのに、それを選ばなかった。
「智貴さん」
今からでも。そんな誘惑を心の中で潰し終えたところで優しい声に呼ばれた。ゆっくりと踵を上げた美園が、長い睫毛をほんの少し震わせながらまぶたを下ろした。
「こちらも1ヶ月と1週間ぶりです」
「うん」
唇に残るやわらかな感触と、目の前の彼女のはにかみ。我慢が出来ず、今度はこちらから唇を重ねると、吐息をもらすようにかすかな声を上げた美園が僕の首に腕を回す。
最愛の恋人と1ヶ月と1週間離れていた――電話はかなりの頻度でしていたが――のだから、ドアを入ってすぐにこうしなかった自分を褒めてやりたいくらいだ。
「本当はすぐに一緒に暮らしたかったですけど、智貴さんのお気持ちは嬉しかったです。だから、この1年は、大学生活最後の1年を存分に楽しませてもらいます」
大学付近には志保を初めとした美園の友人たちが多くいる。それに文実の同期や後輩たちも。大学を卒業したらどうしても思うようには会えなくなってしまう、その関係を大切にしてほしい。
来年から美園には僕と一緒の人生を歩んでもらう。だから卒業までは、僕が我慢すべきだ。
「ああ、そうしてほしい。僕の事も忘れないでほしいけどね」
「もう」
眉尻を下げた美園がもう一度僕の唇に唇でそっと触れ、「そんな訳無いじゃないですか」と優しく微笑む。
「逆に私の方こそ、智貴さんはお仕事が忙しくて私の事を忘れちゃうんじゃないかって心配しているんですから」
「それこそそんな訳無いよ。美園の事を忘れたら生きていけない」
「大げさですよ。と言いたいところですけど、私もそうですからね。嬉しいです」
そう言って僕の胸に顔を埋めた美園を再び抱きしめる。
「ああ、そうそう。個室の方はもちろん色々置いてあるから、社会人になった僕の部屋、見る?」
「見たくない訳があると思いますか?」
「いや」
「では早速お願いしますね」
「了解」
抱擁を解く前にどちらからともなくもう一度唇を重ね、笑顔を向け合う。
そのはずだったのに、短い別れの前に交わした口付けは片手の指を超えた。