来年の話をすると彼女が笑う
「去年は美園の話を聞かせてもらったから今年は牧村君の話を聞かせてほしい」と、そう言ってくれたお父さん相手に自身の専攻についてを噛み砕いて説明した。
専攻と言っても研究室に所属していないのであくまで一般的な生物学科の話。それでも一応生物と言って想像されるような分野ではなく生化学寄り、分子生物学を中心に話をさせてもらったのだが、お父さんは全くの門外漢にもかかわらず聞き上手で話していて心地よかった。
そして21時になる少し前、お父さんが舟を漕いだ。お父さんは「すまないね」と言ってくれたが、僕が来年の話をした辺りから酒量が――しかも度数の高いウイスキー――増えていたので仕方のない事だろう。
結局そこで解散という事になり、片付けに来てくれたお母さんを手伝ってキッチンまでグラスを運び終わり、洗い物を手伝おうとしたところでお母さんがリビングを顔で示した。そして「行ってあげて」と美園に似た穏やかな笑みを見せた。
後姿の美園ソファーに座って本を読んでいた。大きさからして専門書だとは思うが、いつもの美園なら自室があるのにリビングで勉強はしないだろう。つまり、待っていてくれたのだ。
お母さんに礼を言い美園に近付くと、彼女は本を閉じて振り返り、パッと顔を輝かせて立ち上がった。
「美園、お待たせ」
「智貴さん……はい」
僕を見て一瞬動きを止めた美園だったが、すぐに本を持った逆の手を差し出してきたので、即座に握った。
「どうかした?」
「普段お酒を飲んだ時よりも少し酔いが回っているようですので。このままお部屋までご案内します」
「うん、ありがとう。お言葉に甘えるよ」
「はい。お任せください」
手を握ったままぴったりと僕に寄り添ってくれた美園に連れられ、そのまま彼女の部屋に辿り着くと、「少し待っていてください」と出ていった美園はグラスに水を持って帰って来た。
「どうぞ」
「ありがとう。なんだけど」
「どうかしましたか?」
きょとんと首を傾げる仕草がこれ以上なく可愛いが、距離が近い。
もちろんそれは嬉しいのだが、左側にぴったりくっついた美園は僕の体を支えながらグラスを差し出している。
「自分で飲めるよ?」
「どうぞ」
「……ありがとう」
顔には出さず甘えるような甘やかしてくれるような態度を取っている美園だが、付き合って以降で僕がここまでのアルコール量を摂取した事はない。自身の現状に自覚はないのだが、恐らく大分心配をさせてしまったのだろう。
だから素直に美園に甘えさせてもらう事にして、彼女を甘えさせるつもりだ。
「美味しい」
「ただの水ですよ?」
飲ませてもらっているのにタイミングやグラスの傾き加減もぴったりで、そんな嬉しさも水の味を増していると真面目に思う。
くすりと笑った美園が「もう一杯持ってきますね」と言って立ち上がろうとするので、「大丈夫」とそんな彼女の腰に手を回した。
「それじゃあ」
可愛らしい大きな目を僅かに細め、美園が蠱惑的にすら映る笑みを浮かべた。
「お風呂が空くまでたっぷり甘えてください」
「うん、よろしく」
髪にそっと触れで梳くように撫でると、心地よさそうに笑ってくれた美園が、支えていた僕の体を倒していく。ゆっくりと、彼女の体に自身の体重をかけていく。
「重くない?」
「ちょっとだけ。でも、それが幸せです」
「こっちのセリフだよ」
優しく笑う美園にそう笑い返せば、彼女はそっと僕の頭に触れて優しく撫でながら自分の腿の上へと導く。
膝丈のスカートの向こうから伝わるやわらかな幸せを、繊細な手つきから与えられる心地良さが増幅していく。
「脚を楽にしてくださいね」
「うん」
「照明を落としましょうか?」
「眠そうに見える?」
「そうですね、少し」
「多分凄い気持ちいいからだよ」
そう言って髪を撫でてくれる美園の手を捕まえて、自分の手と指を絡めた。
名残惜しさは感じるものの、繋いだ手のひらと指からの幸せがそれを上書きしていく。
「これで起きてられるよ。美園と一緒の時間に寝ちゃうのはもったいないから」
「もう」
美園が優しい顔でくすりと笑う。実際にそのもったいない事を何度かしている僕だけに説得力があるはずだ。
「まだこっちがありますよ」
「……寝ちゃいそうになったら起こしてくれる?」
「どうしましょうか?」
空いている左手をひらひらとさせる美園の顔にはいたずらっぽい笑み。それを捕まえようと僕の方も空いた左手を伸ばすが体勢の差で逃げられてしまい、眠気を誘う心地良さがまた与えらえる。
「お父さんとのお話は大丈夫でしたか? 何か失礼な事を言いませんでしたか?」
「お父さん、信用無いね……」
「だって……お父さんの事は好きですけど、また智貴さんを試すような事を言っているかもしれないと思ったら、やっぱり心配です」
「ありがとう、大丈夫だよ」
少し不安そうな美園の頬に手を伸ばして撫でる。腿とは違う、吸いつくようなやわらかさが心地良い。安心してほしくて触れたのに、こちらが幸せを感じてしまう。
「来年の話をさせてもらった」
「来年の?」
「うん」
不思議そうな顔をした美園を見上げて頷く。手を解いて起き上がり正面から彼女を見据えた。
「来年はスーツを着て来ますって、言ってきたよ。就職を決めてからだけど」
「それって……」
「うん。だからまた来年、僕をこの家に連れて来てほしい」
「はい。はいっ」
顔を綻ばせて僕の胸に飛び込んで来た美園と、その勢いのままでカーペットの上に寝ころぶ。
顔を埋めた美園の髪を、先ほどまでとは逆に優しく撫でる。美園が僕の肩をぎゅっと掴むので、背中に手を回して抱きしめた。
「色々形にするのは美園の卒業を待ってからかなって思ってるんだけど、来年こっちに挨拶来た後はもう一度僕の両親に会ってほしい」
「はい。お義父様とお義母様に、今度は私もしっかりと智貴さんとの事をお願いしたいです」
「うん。ありがとう。どっちかと言うとお願いされる方だと思うけどね」
特に母さんなどは息子である僕よりも美園の方を信頼している節がある。今までの自分を省みるとまあ仕方ないかと思いはする、僕だって僕と美園なら美園を信頼するから。
そんな事を伝えれば、美園は「もう」と言って優しく笑い、そして少し口を尖らせた。
「でも、来年はしっかりご挨拶をさせていただきたいですけど、それまではお伺いしたらダメですか?」
「全然。むしろ喜ぶと思うよ」
いまだに母さんからはいつ美園を連れて帰って来るのかと言われるし、ちょっと前は父さんにも似たような事を聞かれた。嫁姑問題などは遠い世界の話になるだろう。
「ありがとうございます。お義母様とは智貴さんのアルバムを見せていただく事と一緒にお買い物に行くお約束をしていますから、楽しみです」
「ちょっと恥ずかしいなあ」
先の話に胸を躍らせて嬉しそうに笑う美園の頭を撫でると、彼女は気持ち良さそうに目を細め、僕へと顔を近付けてまぶたを下ろした。
「んー」とせがまれてそのまま引き寄せられそうになるが我慢し、美園の唇にそっと指で触れた。
「やめとこう。結構飲んだし、キスして美園が潰れちゃうと困る」
ビール一口で眠ってしまう美園だ。それなりにウイスキーを飲んだ僕としては断腸の思いで我慢せざるを得ない。酒臭いと思われても嫌だし。
だが、ぱちりと目を開けた美園は自身の形の良い唇に指で触れて一瞬だけ嬉しそうな顔を見せたものの、すぐに「むー」と不満そうな表情を浮かべた。
「お水をたくさん持ってきます」
「……了解」
そんなこんなで、風呂上りにはだいぶ酔いも醒め、待たせてしまった美園からは強く求められた。
たまには焦らすのも悪くないなと、そう思った。