いつものようでいつもと違う夜
今晩と明晩、僕が泊めてもらう場所はナチュラルに美園の部屋になった。
お母さん曰く「美園がそうするって言っていたから。ベッドも向こうのお部屋よりも大きいから安心してね」との事だ。
暗に釘を刺されたのか試されているのか何も考えていないのか。そもそも流石にこの状況で手を出すつもりは一切なかったので信頼されているのだと自分に言い聞かせたが、不在のお父さんはこれを知っているのかが気になって仕方ない。当然聞けはしなかったが。
そんな事を考えて悶々としながら、現在最後のお湯をいただいている。荷物を運びこませてもらった後勧められた一番風呂を、「入浴前に勉強をしておきたいので」と固辞したのは我ながら上手い言い訳だった。
バスルームは僕の実家の物よりも広くはあったが、流石に家屋の床面積に比例した大きさではなく、広さよりも内装の仕上がりでこの家の財力がわかる。
床や壁は恐らく御影石を用いた黒を基調とした仕上がりになっており、全身が映る鏡が設置されていて、側面には全面すりガラスの大きな扉。
浴槽は人工大理石で、大人二人と子ども一人くらいなら狭さを感じる事なく入浴が可能と思えるくらいだった。
「このくらい広ければ美園と入れるよなあ」
未だ果たされていないいつかの約束。
多分今ならご一緒してくれると思うのだが、何しろ機会がないのだ。
僕の部屋は言わずもがなだが、向こうの美園の部屋でさえも二人で入浴をするにはかなり狭い。お互い単身用の物件に住んでいるのだから当然の事ではあるのだが。
「やべっ」
久しく意識していなかった事を改めて考え、どうしてもやましい方向に進みかけた想像を頭に冷水のシャワーを浴びる事で抑える事にした。
◇
「お風呂はどうでしたか?」
「凄かった」
美園の部屋に戻ると、水色のネグリジェを纏った彼女が出迎えてくれた。流石に僕の部屋で着用している露出の高い物はこちらに持って来ていないので、約一週間ぶりにガードが堅い美園になっている。
普段ほんの僅かに巻かれた髪は現在まっすぐで、風呂上りという事でコンタクトを外して眼鏡になっている美園は、「それは良かったです」と嬉しそうに微笑んだ。
「今日は眼鏡なんだね」
「はい。久しぶりの実家なので、ちょっと慣れなくて」
「そっか」
美園は僕の部屋に泊る時にはもう眼鏡をかけない。春休みの中頃には「慣れましたので」と言って僕の内心に狂喜の嵐を巻き起こしていた。
あの時よりはだいぶ小さいが、今の発言も嬉しかった。美園はそんな僕の内心に気付いたのだろう、ふふっと笑い眼鏡を外してケースにしまう。
「よく見えなくなってしまいましたので、近くに来てください」
「眼鏡があってもそうするつもりだったけどね」
いたずらっぽく笑う美園に近寄り腰を下ろすと、嬉しそうな笑顔が迎えてくれる。
しかしその笑顔も少しの間で、美園はわざとらしく目を細めて、僅かに睨むような目元を作ってみせた。
「良く見えません」
美園は裸眼でも1メートルくらい先の人間の顔は十分識別ができる。今の僕たちは膝を突き合わせるほどの近さ、顔だって精々3、40センチの距離。
「これで見えるかな?」
美園の細い腰に手を回して体を寄せる、顔の距離は握りこぶし一つ分。満足そうに「はい。よく見えます」と言ったくせに、やわらかく微笑んだかと思えばそのまままぶたを下ろしてしまう。
「見えないじゃないか」とからかえば、「見えるんです」と美園は口を尖らせ、そのまま「んー」と僕を求める。
ああ、可愛いなあ。と、顔を寄せて唇を触れ合わせ、数秒して離した。
僅かに頬を染めた、はにかみながらしなやかな指先で自らの唇に触れる美園がまた可愛い。
しかし、美園のそんな状態も長くは続かず、彼女はゆっくりと僕から体を離した。ほんの少し寂しそうな眉尻を下げた表情に、こちらも手から力を抜くのに気力が必要だった。
「智貴さんはこの後お勉強をされますか?」
「いや、もう明日に備えて寝るだけだよ」
なるほど。美園があっさり離れていった理由がわかり、その気遣いが嬉しい。
髪を撫でながら「ありがとう」と伝えれば、美園は小さく首を横に振り、優しい目で当たり前の事だと教えてくれた。
「それじゃあ、明日に備えてベッドに行きましょうか?」
「うん。でも、寝る前にちょっと話したいかな」
「私もお話したかったので嬉しいです」
この部屋のベッドは右側が壁にくっついているので、普段とは逆で美園を右側に寝かせた。
寝る位置の左右を変えただけ、それなのに――
「なんか新鮮、と言うか慣れない感じがするかな」
「そうですね」
お互いに苦笑し、どちらからともなくもう一度唇を合わせた。
体を寄せ合い、腕枕をしながら腰に手を回して抱き寄せた美園の体はいつもと同じくとてもやわらかで、彼女が僕の首に腕を回してぎゅっと抱き着くのでよりそれが強く伝わる。
日中より少し強めの甘い香りと合わさり、何よりも近くに美園を感じられる。
しばらくそうしていると、美園が少し体を動かして僕の胸に頭を埋めたので、腕枕を外して彼女の髪に触れた。美園の方も風呂上りから時間が経っていないので残る香りもまだ強く、梳いた髪がサラリと流れるたびに体の方とは違う少し甘い香りがふわりと漂う。
恋人である美園とこうしていると、生理的な話で言えばやはり心拍は高まる。しかし、心は非常に落ち着く。腕の中にいる誰よりも愛おしい女の子を大切にしようと、きっとそんな風に思うからなのだろう。
「智貴さん」
「美園」
顔を上げた美園とまた口付けを交わすと、ふふっと笑った美園が僕の左手と指を絡め、空いた左手で僕の頬を優しく撫でる。
絡めた指に少し力を入れてぎゅっと握り合ったり緩めたり、お互いにそれを繰り返すのだが、たまにタイミングが合うと嬉しくて笑い合う。意味の無い行為がなんだか特別な意味を持つようで、こういうのも幸せなのだろうなと実感する。
そして、そんな幸せに浸っていたのは僕だけではないと、美園の顔を見れば分かる。それがまた幸せで仕方なかった。
時折頬を弛ませたり、目を細めたり、くすりと笑ったり。可愛らしくて悶えそうになる反応ばかり見せてくれた美園が僕に顔を寄せ、キスをした。
「聞きたい事があるんですけど、正直に答えてくれますか?」
「そう前置きされると怖いけど、美園に嘘はつかないよ」
おどけてみせたが、美園の笑顔から怖いような質問が飛んで来ない事は分かっていた。そもそも聞かれて困る事など何も無い。つもりだったのだが――
「お母さんと私のお料理、どっちがおいしかったですか?」
飛んで来てしまった。
「……その反応で分かっちゃいました。いえ、食べた時にはもう分かっていたんですけど、それでも悔しいです」
「お母さんは美園の師匠なんだろ? 経験の差だって20年分以上だし、設備の差だってある」
君岡家のシステムキッチンはIHコンロが四口あったし、本格的なオーブン、大きな温蔵庫、料理を冷やさないための移動式の強いライトなど、本格的な設備が整っていた。調理スペースだって美園の部屋と比べれば倍ではきかない。僕が料理をするのであればどちらでやっても大差ないだろうが、美園ほどの腕があれば大きな違いが出るはずだ。
「確かにそうですけど、私は智貴さんの好みを把握していますからね。むしろお母さんにハンデがありますよ」
悔しいと言った言葉に嘘はないのだろうが、美園はどこか晴れやかな顔をしていた。
「だから、見ていてください。一番近くで。絶対にお母さんよりおいしく作ってみせますから」
「うん。楽しみに待ってるし、隣でずっと見てる」
満面の笑みを見せる美園に、今度は僕から口付けて髪を撫でると、彼女は誇らしげな表情で小指を差し出した。
「僕も一つ約束するよ」
小指を差し出し、絡める前に一つ約束、いや宣言を口にする。
「将来、美園の腕に恥ずかしくないキッチン付きの家を建てられるように頑張るよ」
あとそれから二人で余裕を持って入れる大きな風呂。こちらは口に出さないが。
「はい。楽しみにしていますね」
今度こそ小指を絡め、嬉しそうに笑った美園は「でも」と口を尖らせた。
「お家は私も一緒に頑張りますからね」
「そう言うと思ったよ」
美園の髪をくしゃりと撫で「ありがとう、愛してる」と耳元で囁くと、頬染めた彼女が「もうっ」と髪を整え、優しく微笑んだ。
「愛しています。智貴さん」
今日でこのお話の初投稿から1年です。
まさかこんなに長々書くとは思っていませんでしたが、この後もちょびちょび続いていきます。
気の向く時にたまにでも、今後も時々お付き合いくだされば幸いです。