あにといもうと
振り子付きのアンティークな壁掛け時計に目をやり、そろそろ夕食の準備をと言って席を立ったお母さんに手伝いを申し出たのだが断られた。美園と乃々香さんの方も同じく。
今日の夕食は前日から仕込みをしてくれていたらしく、お母さんが全て作ってくれるとの事だった。
結果、明日が試験なのだからと異口同音で三人から言われた僕は勉強、美園と乃々香さんは久しぶりの姉妹の時間となった。
そうして出来上がった夕食は、これを外で食べたらいくら払えばいいのだろうと思うような物。
去年の訪問時、お母さんは「一般的なお料理はもう美園の方が上手」と発言していたが、その意味を今日知る事になった。
出してもらったフレンチは、申し訳ないが美園が作ってくれる僕の好みに合わせた料理よりもおいしかった。彼女とたまに行くようなレストランでさえ、美園の料理に敵わないと思っているのに、だ。
足りない言葉を尽くして褒めたところ、「牧村君の歓迎と、明日の試験の応援でちょっと頑張ったの。普段は流石にここまでの料理はしないわね」と、お母さんは少しだけ恥ずかしそうに笑っていた。
ここまでの夕食をご馳走になったのだからと食後の片付けの手伝いを申し出たところ、お母さんは渋っていたが意外にも恋人とその妹が味方をしてくれた。美園はお母さんに今日の料理の事で話を聞きたいと、乃々香さんは僕と一緒に片づけをする、と。
美園が目配せをしながら一瞬だけ見せた微笑みで、これが彼女の気遣いなのだとわかった。片付けならば支度と比べてそれほど時間はかからない、僕が感じるであろう後ろめたさの解消にはもってこいだと考えてくれたのだと思う。
一緒に食後の片付けを始めた乃々香さんは、本格的に家の手伝いを始めたのは今年高校に入ってからだと少し恥ずかしそうにしていた。その言葉通り、彼女の姉のような手慣れた様子はなかったのだが、それがどこか微笑ましくて頬が弛む。美園にもこういう時代が――もっと幼い頃だったのだろうが――あったんだよなあ、と。
「なんだか子ども扱いされているような視線です」
「ごめんごめん」
前の時は気付かなかったが、恨めしげな視線は僕に対する遠慮があるのか美園にはあまり似ていなかった。
そんな乃々香さんとの共通の話題はやはり美園の事で、彼女は大好きな姉の話を僕にせがんだ。
「僕の実家にも遊びに来てもらったんだけどさ、それ以来母さんが美園を凄く気に入って『美園さん次はいつ来る?』ってうるさいんだよ。僕が近況報告すると二回に一回は聞かれる」など。
「段々僕の部屋に二人で使う物だけじゃなくて美園の物が増えてきててさ、ペアの枕とかクッションとか、ついにペンギンも一匹置かれたよ」などなど。
時に誇らしげに、時に赤面しながら、乃々香さんは僕が話す美園の事を聞き漏らすまいと真剣だった。
そして片付けがもう少しで終わるだろうという頃、話の途切れたタイミングで「あの」と手を止めて、それほどまでとは違う真剣さを纏った表情で僕へと向き直る。
「牧村さんは……お姉ちゃんと結婚するんですか?」
「……したいと思って……いや、するよ」
正直な思いとしてはこれをご家族の前でまだ言いたくはなかった。
しかし、五歳年下の少女からの真剣な眼差しに誤魔化しで応えるのは情けないと思ったし、「したいと思う」などという弱い言葉で返すというのは、美園に関する事ではどうしても嫌だった。
ちらりとダイニングを挟んだリビングの美園を窺えば、乃々香さんとはまた違った真剣な顔でお母さんと話し中。手にはペンとメモを持っており、時折走り書きをするように素早く手を動かしていた。きっとそんな字でも惚れ惚れするほどに上手いのだろう。
「少し休んで話そうか」
美園から視線を戻して乃々香さんにできる限りやわらかな雰囲気を纏って笑いかけ、水道の水を止めた。白を基調とした人工大理石を用いたキッチンから音が消える。
手を拭いて作業を止め、「ご飯の前に美園から何か聞いた?」と問えば、乃々香さんは小さく首を縦に振る。
「私、お姉ちゃんに牧村さんの事は聞かないんです。長く、凄く長くなるから」
引き締めていた口元をふっと緩め、乃々香さんの話は苦笑から始まった。少し恥ずかしくて、それよりもずっと嬉しい。
「今日は久しぶりに会えたから、お姉ちゃんの大学のお話を聞かせてもらって、私の高校のお話を聞いてもらって、とっても楽しかったです。お正月に帰って来た時は、親戚も来ていてお姉ちゃんあんまりゆっくりできなかったから、私もそんなに話せなかったんです」
大好きな姉との時間が愛おしいものだと、乃々香さんの表情からは一点の混じりけもなくそう伝わってくる。
「抱きしめてもらって、頭を撫でてもらって。嬉しかったですけど、今までそんな風にしてもらった事ってほとんどなかったから、牧村さんの影響なんだなって、少し……ううん、とっても悔しかったです」
軽く首を振り、美園より少し長いまっすぐな黒髪をふわりと揺らした乃々香さんがいたずらっぽく笑い、そのまま頬を膨らませて僕を睨んで見せる。
「だから、いつもは絶対に聞かないのに、『牧村さんの事好き?』って聞いちゃったんです。聞いた後、また惚気話を聞かされちゃうって後悔しましたけど」
苦笑した乃々香さんに同じ顔を作ってみせながら、美園は普段どれだけ惚気話をするのだろうと気になった。彼女の学科の友人たちは普段の美園は僕の話をしないと言っていたが、高揚すると惚気だすとも言っていた。
後で聞いてみようかと思ったところ、乃々香さんはふっと笑い、「でも」と言葉を続ける。
「お姉ちゃん、ちょっと驚いたみたいでしたけど、すぐに優しく笑って。今まで見た事もないくらいに幸せそうな顔で『愛してるよ』って言ったんです」
「そっか」
「……顔は全然似てないのに、今の牧村さんあの時のお姉ちゃんとなんだか似てます」
「そういうの、嬉しいなあ」
笑いながらも少し呆れた様子を見せる彼女の妹の前で、弛みそうになる頬に力を入れて更に手で抑える。
「それでさっきの質問か」
「はい。お姉ちゃんに聞いたら長くなりそうだったので」
「ある意味信頼されてるなあ」
またも二人で苦笑しながらも、僕はある事に思い至る。
「因みにこれ、お父さんとお母さんには内緒にしといてくれる?」
「どうしてですか?」
「きちんと就職して、いや。就職を決めてから改めてお願いに来たいから」
首を傾げて尋ねた乃々香さんは、僕の意図がわからないと言いたげに眉をひそめた。
「将来の保証が何もない奴が『お嬢さんと結婚させてください』なんて言ったら気分良くない、ってか非常識だと思うんだよ」
「そうなんですか?」
「実際はわからないけど、僕はそう思う。乃々香さんだって美園が将来お金に困るような状態になったら嫌で――」
「絶対嫌です」
食い気味に否定する乃々香さんに苦笑する。これなら言わないでいてくれるだろう。
実際のところご両親は僕の思いなどある程度察しているのだろうが、それでも僕が今口に出しては失礼だと考えている。
稼ぎが全てだとは思わないが、金銭があるに越した事はない。
生活や結婚のための資金は二人でという考えではいる。逆に全部僕がなどと言おうものなら美園に正座させられるだろうが、そのメインが僕であるのはこちらも譲る気はない。
美園は僕を追って就職すると言ってくれているので当然幅は狭まるし、更に先の事を考えれば出産もある。育児はともかく産む事は美園にしかできないので、当然キャリアに対する影響も彼女の方が大きくなる。
「そういう事だから、来年きっちり稼げるとこに就職決めて挨拶に来るまでは、内緒にしといてほしい」
「わかりました」
頷いた乃々香さんは「でも、一つだけ約束してください」と、先ほどよりも更に、痛いほどに真剣な眼差しを僕に向けた。
「お姉ちゃんの事幸せにしてくれますか?」
「約束する。美園と一緒に幸せな家庭を作るよ」
強く頷き、まっすぐに将来の義妹を見つめて答えると、彼女は「ありがとうございます」と綺麗に腰を折った。
やはり似ているなと思って、戻って来た乃々香さんの顔の前に小指を差し出すと、彼女は首を傾げながらそれを見つめ、頬を赤らめた。
「お姉ちゃんと、こういう事してるんですね」
「あ」
「私がお父さんとお母さんに言わなくても、牧村さんが口を滑らせそうですね」
「鋭意努力します」
将来の義兄としての威厳はゼロから築かなければならないらしい。




