彼女と過ごす春休み
春休みが始まって5日目。友人達と以前から約束していた就活セミナーに参加し、夕食を済ませて家まで戻ってくると、道路側から見える自分の部屋の窓から明かりが漏れていた。
気付くと走り出しており、アパートの階段を一段飛ばしで駆け上り、一度深呼吸をしてから自室のドアを開けた。
「ただいま、美園」
「おかえりなさい。智貴さん」
穏やかな笑顔の美園が出迎えてくれる。ただそれだけで、2年近く住んでいる自分の部屋の印象がまるで違う。
もちろん今までも、こうやって美園に「おかえりなさい」と言ってもらった事は何度もある。ただそれは彼女が僕を待っていてくれた訳で、やはり特別な事だった。
今日のこれは少し違う。美園の日常の中に僕が帰って来たと言うべきか、僕の帰る場所に美園がいると言うべきか、どちらにせよ高揚を抑えきれない。
「お荷物と上着を預かりますね」
「ありがとう」
バッグを受け取ってもらい、コートを脱ぐのも手伝ってもらう。手間を掛けるようで少しだけ申し訳ない気持ちもあるのだが、ニコニコと笑う美園がそれを吹き飛ばしてくれる。
「手を洗って来るよ」
「はい。お待ちしています」
手を洗って歯も磨いてから戻ると、美園がコートにブラシをかけてくれていた。今まで手入れなどは考えた事も無かったが、僕の脱いだコートを、彼女は当たり前のように優しく撫でている。
そんな当たり前の様子だからこそ、どうしても彼女との将来を想像してしまうのだろう。弛む頬を手で押さえざるを得ない。一度ずらした視線をもう一度送ると、美園の頬も僅かに綻んでいる。
ああ、同じなんだ。ただそう思うだけで、どうしようもなく胸が温かい。
「ありがとう、美園」
「どういたしまして」
コートを丁寧にハンガーへと掛けてくれた美園に礼を言うと、穏やかな微笑みを向けてくれる。
「好きだよ」
「私も好きです。どうしました、急に?」
一瞬だけ目を丸くした美園が、少し照れくさそうに首を傾げた。
「当たり前だと思っちゃいけないなって」
「私は当たり前にしたいです」
「うん。僕も当たり前にはしたいんだけど、当たり前だと思わないようにっていう自戒かな」
「よくわかりません」
「美園はそれでいいよ」
きっと美園は自然とわかっているのだから。
頭を撫でると、「子ども扱いしていますね?」と美園は口を尖らせるが、その目尻は少し下がっていた。
◇
『春休みの間だけでも、一緒に暮らしたいです』
試験のご褒美に美園が求めたものがそれだった。
『一緒に寝て、朝になったらおはようって笑い合って、一緒にご飯を食べるんです』
自動車学校の申し込みを済ませた美園は、どうしても日中家を空ける事が多くなる。僕のバイトやお互いの友人付き合いもあり、一緒に過ごす時間が予想よりも少なくなりそうだったので、この提案はありがたかった。
そして幾つかのルールを決め、お互いが鍵を持つ僕の部屋を基本とした、春休み限定の同棲生活が今日始まった。
「ごめん。初日から予定があって」
「もう。私から今日がいいってお願いしたんですから」
いつものように後ろから美園を抱きしめ、そっとそのダークブラウンの髪に触れる。
「荷物は昨日の内に運ぶのを手伝ってもらいましたし、それに」
「それに?」
僕の脚の間、腕の中で美園がくるりと半回転。その可愛らしい笑顔には僅かに朱が差している。
「最初の日は、絶対に智貴さんに『おかえりなさい』を言うんだって決めていました。だから、今日が良かったんです」
「そっか。ありがとう。美園に『おかえりなさい』って言ってもらった時、自分の部屋が全然違って見えたよ。それくらい幸せだった」
「私も、智貴さんが『ただいま』って帰って来てくれて、とっても幸せを感じました」
優しい微笑みを向ける美園の腕が僕の首へと回される。僕の方も彼女の背中と頭にそっと手を添え、そのままそっと抱き寄せた。
小さく華奢な体なのに、抱きしめると全てが甘く柔らかい。体格差で言えば僕が抱きしめ包んでいるはずなのに、感覚はまるで逆。その心地良さが不思議でならない。
「僕も美園を『おかえり』て迎えるのが楽しみだよ。来週になりそうだけど」
明日はお互い予定を空けてあるので、同棲用の買い出しに出る。明後日は僕がバイト、その次の日は美園が一旦自分の部屋に帰る。次の願いが叶う日は中々遠い。
「そうですね。私も楽しみにしておきます」
肩の辺りに顔を埋めていた美園が、僅かに顔を起こしてふふっと笑う。その吐息が首筋にかかり、もどかしくも心地良い。美園本人にその意図は無いのだろうが、どうも最近首周りを攻められている気がする。
対抗して背中に添えたままの右手をそっと動かし、優しくさすると、首筋にかかる美園の吐息がほんの一呼吸分だけ強くなった。
「ごめん、嫌だった?」
僕の鎖骨部分に顔の下半分を当てながら、ちょっとだけ恨めしげな上目遣いの美園に尋ねれば、ふるふると首を動かして否定を示してくれた。服越しにではあるが、そんな動作ですら彼女の柔らかさを知れた。
「美園。柔らかくて気持ちいい」
「……太ったって意味じゃないですよね?」
「違うって」
苦笑しながらゆっくりと頭を撫でると、「よかったです」と美園は僕の耳元へと唇を寄せた。
「このままずっと離したくなくなる。そんな感じ」
「それじゃあ、離さないでください」
彼女の声に応じるように、この幸せを逃してなるものかと腕に力を込めると、美園の唇がそっと僕の頬に触れ、甘いささやきと吐息が耳に触れる。
「大好きです」
「うん」
初日からとばし過ぎではないだろうか。
美園の髪を撫でながら、溶かされかけた頭で真剣にそんな事を考えた。