年越しの儀式
「お蕎麦ですか?それじゃあ準備しておきますね」
「31日の夕食はやっぱり蕎麦にする?」と尋ねた僕が次の言葉を発する前に、美園が事も無げにそう言って笑ったのは、クリスマスの2日後だったと記憶している。
だから、31日当日の買い物の際に「蕎麦買わないの?」と尋ねた僕に、「はい。準備してありますので」と返してくれた美園に、流石だなとしか思わなかった。
「そうだった。僕の彼女はこういう子だった」
夕食の支度――しかも蕎麦だ――には少し早い時間にエプロンを身につけた美園は、アップにした髪を調整しながら、えへへと笑った。
「せっかくですから」
照れながら笑う美園の視線の先には蕎麦打ちセットが用意されている。
一緒に年越しを過ごす事で浮かれていたのも一因なのだろうが、美園がこれくらいするであろう事は想定出来たはずだと、彼女への理解度が足りていなかった事が少し悔しい。
「後でネギでも切るよ」
「はい。お願いしますね」
エビの天ぷらでも揚げようかと思ったが、せっかく美園が作ってくれる蕎麦の完成度を落とすのも嫌だった。
美園はと言うと、そんな僕の考えがまるでわかっているかのように、穏やかに微笑んでくれた。
◇
料理を褒める時の語彙力が欲しいと常々思っている。
とは言え一口食べた段階で自然と出る「美味い」のたった一言で、美園はそれはそれは満足そうに笑う。そのおかげと言うかそのせいと言うか、その後に何を言っても浮ついた感じになってしまう事もあり、僕が彼女の料理に対して気の利いた褒め言葉を口に出来る事は少ない。
「お料理に関しては、智貴さんに美味しいって言ってもらえる事が何より嬉しいですよ」
「美園の料理が美味過ぎて、僕の言葉に芸が無いなと思って」
ふふっと笑う美園に、割と真剣に思っていた事を伝えると、「グルメレポートじゃないんですから」と彼女は少しだけ眉尻を下げた。
「それに、智貴さんの顔を見れば心からそう言ってくれているのがわかりますから」
「それならいいんだけど……」
「因みに今の顔は照れている顔です」
自慢げに笑う美園の回答はもちろん正解。
「じゃあこの顔は?」
嬉しさを誤魔化す為に、美園に微笑みを向ける。
美園はそんな僕の顔をじっと見つめ、照れたように笑い、最後には口を尖らせた。
「正解させる気のない顔です」
「それじゃあ罰ゲームだ」
「ば、罰ゲーム、ですか?」
何故かやはり少し嬉しそうな美園の顔。もちろん罰ゲームと言っておきながら、僕が彼女に酷い事をする訳がないので、それが伝わっている証でもあるのだが、それはそれとして期待の色が見え隠れしている。
「うん。しばらくソファーで座ってて、一人で」
きょとんと首を傾げる美園に腕まくりをして見せると、「あ」と口にした彼女は、「お願いしますね」と苦笑した。
◇
夕食の片付けはすぐ終わった。元々美園が片付けながら料理をしていた事が大きい。
「お待たせ。罰ゲームはこれで終わり」
「もう。ありがとうございます」
中央から少しだけ左寄りに座る美園の右隣が、このソファーでの僕の定位置。
誰にも譲るつもりの無い場所に着くと、美園がこてんと僕の左肩に頭を預けた。
「今年もあと4時間くらいで終わりですね」
「うん。色々あったな」
「はい。私の今までの人生で、最高の1年でした」
「僕もだ」
「来年はもっと幸せになります」
「うん」
美園の言う通りあと4時間少しでやって来る来年。その始まりの瞬間から、僕と美園は一緒にいる。間は常に一緒にいられる訳では無いが、終わりの瞬間も、きっとこうして一緒にいる。そんな来年が最高の年にならない訳がない。
「来年はもっと智貴さんを好きになります。もっと智貴さんに好きになってもらいます」
「後半は絶対叶うよ」
「前半だってそうです」
身を起こした美園が、自信満々に笑って僕を見る。
「来年も、気が早いですけど再来年も、毎日毎日、もっと智貴さんを好きになります。『今日の私が、一番智貴さんを愛しています』って、毎日言ってみせます」
「うん。僕も同じ事を言ってみせる」
優しく微笑んだ美園が差し出した小指に、僕も同じように笑って同じ指を絡めた。
◇
「そろそろ寝ようか?」
年が変わるまであと30分程になった頃、いつものように僕に抱きしめられた美園が、ほんの一瞬舟を漕いだ。
美園は6時に起床する子なので、何も無ければ24時前――本来は23時頃が多いらしい――には寝る。冬休み中も基本的にはそのリズムを崩さないので、今日も恐らく6時には起きていたはずで、今日は蕎麦打ちで疲れた事もあって、眠くなるのも仕方ないのだと思う。
「まだ、大丈夫です。年越しまでは起きています」
風呂上りの甘い香りを漂わせながら首を振り、美園は僕の腕を強く抱きしめた。
「5分前くらいになったら起こすから、少し目を瞑るといいよ」
「でも……」
「嫌ならこのままお姫様抱っこでベッドまで運んで添い寝して腕枕する」
「それは……してもらいたいです」
腕の中でもじもじしながら、耳を赤くした美園にそう言われてはやらない理由が無い。
「持ち上げるよ」
ベッドの上の掛布団をめくってから戻ってきて、背中と膝裏に手を置いて力を入れると、美園は抱き上げやすいようにか、真っ赤な顔で僕の首に手を回してくれた。
「重くありませんか?」
「軽すぎてびっくりするよ」
大嘘です。ベッドまでの2メートル弱なら問題はないだろうが、小柄で無駄な肉の付いていない華奢な美園を持ち上げる事でさえ、想像の5倍は大変だった。イメージでは「ひょいっ」だったのだが。
来年の目標に体を鍛える事も含めようかと真剣に思う。
「下ろすよ」
「はい」
下ろす時も地味にキツイ。美園に衝撃が無いようにゆっくりと下ろす為、筋肉への負荷がデカい。地味どころか普通にキツイ。絶対筋トレする事に決めた。
赤い顔でぽーっとする美園をベッドに寝かせ、掛布団をかけてその横に入らせてもらいながら、彼女の頭の下に腕を潜り込ませるが、腕にかかる負荷はいつも通り非常に小さかった。
「5分前に起こすから、ちょっと休んで」
「ドキドキし過ぎてもう無理です」
まだ赤みの残る顔で頬を膨らませた美園が、そう言って抱き着いてきた。
「伝わりますか?」
「うん。伝わるよ」
「智貴さんもドキドキしていますね」
「そりゃあね」
◇
「あと1分。こうしてるとすぐ時間が過ぎるな」
「はい。あっという間でした」
ゼロ距離の美園と、取り留めの無い話をしていると時間はあっという間に過ぎた。
「お願いがあります」
「何でも聞くよ」
「年が変わる瞬間、ちゅーしていてほしいんです」
「喜んで」
「ありがとうございます」
なるほどと思っていると、ふわりとした甘い香りとともに、美園の顔が近付き、柔らかな唇が重ねられた。
ベッドの中でキスをしなかった、する雰囲気を作らなかったのはこれが理由だったのだと、彼女の唇を啄みながら思う。
年が変わるまではあと30秒程だろうか。目を瞑って美園の髪を撫でながらそんな事を考えたが、まあどうでもいいかと思い直す。
このまましたいだけキスをしていれば、新年はいつの間にかやって来ているだろう。




