109話 少し先の話
「1日目はどうだった?」
お互いの入浴後、いつものように後ろから美園を、いつもより少し強く抱きしめながら尋ねた。とにかくいい匂いがして、お預けを喰らった気分でいる僕にとっては中々刺激が強いが、現状は理性が勝っている。
「そうですね」
腕の中の美園は、少し考えた様子の後でおずおずと口を開いた。
「朝からの作業は大変でしたけど、全体としては思っていたよりも大変ではなかったです」
「うん。まだ1日目だからね」
現在時刻は23時。文化祭の出展終了時間は17時だが、ゴミの片付けと最低限の明日の準備を終え、家に帰って来たのは21時頃だった。朝6時からという事を考えると、長丁場ではあったが途中体を休める事も出来たので、準備期間と比べれば体力的には楽だったと思う。
「お客さんが増える2日目以降は、やっぱりもっと大変なんでしょうか?」
「うん」
文化祭3日間の内、2日目が一番来客数が多い。1日目は世間的には平日、3日目は翌日が月曜という事もあるが、2日目は招待企画がある。つまり芸能人が来るのでその分来場者も多い。
単純に人が増えればゴミも増える。更に2日目は招待企画用に人員が駆り出される為、単純に仕事が増える。なのに休める時間は減る。
そして3日目は単純に疲労のピークが来る。
「だから早く寝ようか。明日も早いよ」
そんな事を説明し、美園の髪を撫でて腕の力を弛めると、「はい」と頷いた美園がくるりと腕の中で反転した。最初はもぞもぞとぎこちない動作だったが、今はこの動きにも慣れたようで、非常にスムーズだ。
「嬉しそうな顔をしていますね」
「そりゃね」
慣れる程こういう事をしてきた証明なのだから、嬉しいに決まっている。
「私もです」
そう言って僕の胸に預けられた美園の頭と、背中に手を回して今度は正面から抱きしめる。あと1分くらいなら明日の体力、今日の精神ともに問題が無いだろう。と思う。
「智貴さん」
しかし、甘えるような声の美園が僕の背に手を回した事で、その時間を30秒に下方修正する事にした。
◇
「おはよう」
囁くように発した声は起床の挨拶という訳ではない。もちろん起こす為でもない。
隣ですやすやと眠る可愛い彼女の枕元から、手探りでスマホを探し当てひょいっと取りあげる。
恐らくそろそろのはずだと思っていると、4時丁度にセットされていたアラームでスマホが震え出したので、スワイプしてそれを完全に停止し、代わりに30分後にアラームをセットした僕のスマホを置いておく。
朝食は昨日の夜、僕が風呂に入っている間に美園がほとんど準備をしてくれていたので、あとは温めるだけ。後片付けも昨日は美園がしてくれたが今日は僕がするつもりなので、彼女の睡眠時間をもう30分確保する事は可能だ。
まずはこの後支度する美園に洗面所を空ける為に自分の身支度を済ませ、朝食を温め始めた時だった。ドアの向こうの居室スペースから「え!?あー!」という可愛らしい叫びが聞こえたのは。
「おはよう、美園」
ドアを開けて「なんで?なんで?」と自問する美園に声をかけると、薄暗い部屋の中で小さなシルエットがわたわたと動いた。
「え。え。智貴さん……ごめんなさい!寝坊しちゃって……」
「大丈夫だって。電気点けるよ」
部屋の照明を点けると、慌てふためいていた美園は眩しそうに手をかざした。そんな彼女に近付いて手元を指差すと、美園は握っていたスマホと僕の顔の間で視線を行き来させ、僅かに首を傾げた。
「え?あれ……私のじゃない」
「美園のはあっち」
次に指を指したのはテーブルの上。目を細めてそちらを見た美園は「あ」と呟き、再び手元に視線を落とした。
「これ、智貴さんの……」
「うん。ご飯はもうじき食べられるから、朝の支度してていいよ」
そこでようやく頭がクリアになったのか、美園は「もうっ」と枕をぽすぽすと軽く叩いた。
「ありがとうございます」
少し不本意そうではあったが、照れて視線を外す彼女の顔がなんとも堪らなかった。
◇
「でも、本当に驚いたんですからね」
キスを済ませて部屋を出て、その鍵を締め終わった後、むくれた顔の美園がじっとこちらを見つめてきた。
「お化粧せずに行かなくちゃいけないかと思って、泣きそうでしたよ」
にも係わらず自身の化粧よりも僕の食事の支度を優先しようとしてくれたという事だろうか。愛おしくて仕方ない。
「頭を撫でてくれてもダメですよ。……どうしてそんなに嬉しそうなんですか?」
「美園が僕の事を大事に思ってくれてるのがわかるからかな」
髪を撫でながらそう言うと、顔を赤くした美園が「ずるいです」と口を尖らせた。
そんな美園に「それじゃあ行こうか」と手を差し出すと、朱に染まった頬はそのままに、彼女はこくりと頷いた。
「そう言えば美園も同じ事したよな」
僕の場合は予定よりも2時間30分も多く眠ったが。あの時は中々焦ったと記憶している。そう考えると少し申し訳なくなり、もっとスマートな方法があったかもしれないと反省する。
「そう言えばそうでしたね」
あの日の事を思い出してか、美園が苦笑する。
「お気遣いありがとうございます。智貴さん」
「うん。僕の方こそありがとう。美園が食事の支度や洗濯をしてくれるから、ほんとに助かってる」
「置いてもらっているんだから当然です」
「置いてない時もやってくれただろ?」
顔を見合わせると、「そうですね」と笑った美園が絡めた指を解き、僕の腕に抱きついた。
「美園」
「はい」
「今すぐは無理だけど、美園が卒業したら、一緒に暮らさないか?」
腕は絡めたままだが、少し顔を離した美園が目をぱちくりとさせている。
「いやほら、お互い一人暮らしするよりもちょっと広めのとこ借りた方が家賃的にもお得だし僕も美園も家事ができるから分担すれば二人でそれぞれこなすよりも時短になると思うし二人の時間もたくさん作れると思うんだよ」
いいタイミングだったと思ったのだが、美園の反応に少し早まったかもしれないと感じ、一生懸命まくし立てた。付け足した理屈の上では間違っていないはずだ。
「それに――」
「智貴さん」
大きく息を吸って再び開こうとした僕の唇に、美園の人差し指が触れた。
ふふっと笑った美園は、僕の代わりかのように口を開いた。
「あの日、将来のお話をした時から、そのつもりでしたよ?智貴さんは違ったんですか?」
軽く首を傾げ、「だとしたらショックですよ?」といたずらっぽく笑った美園に、「うん」と頷いた。
「僕もそうだったよ」
そう返すと、美園は満足げに頷いた。
「どんなお部屋にしましょうか?」
「気が早いよ」
目をキラキラさせる美園に苦笑し、「まずは卒業と就職しないと」と言えば、美園の方も「そうでしたね」と苦笑する。
「それに何より」
「はい」
二人で顔を見合わせ同時に口を開く。
「「文化祭」ですね」
声をかけ合った訳でもないのにピタリと合ったタイミングがこそばゆい。
「頑張りましょうね」
「ああ」