105話 幸せの子守唄
例によって居残り作業が少しだけあったので、帰宅はやはり1時30分頃になった。女子チームの解散は日が変わってすぐの頃だったらしいので、部屋の電気こそ点いていたが、美園が寝ている可能性を念の為に考慮してそっと玄関のドアを開けた。
「おかえりなさい。智貴さん」
「ただいま、美園」
予想通りと言うべきか、美園はやはり起きて待っていて、帰宅した僕を笑顔で迎えてくれた。
「お風呂の支度は出来ていますよ」
「ありがとう」
可愛らしい寝間着の美園は、そう言って僕の鞄を預かってくれる。そんな彼女の言動に甘えて、さっさと風呂に入らせてもらおうと思う。
「寝てていいから」
「はい。ありがとうございます」
穏やかに微笑んで返す美園だが、きっとそのつもりは全くないのだろう。
◇
「ありがとう。湯船まで張ってくれて、気持ちよかったよ」
「どういたしまして。お疲れだと思いましたから」
着替えを済ませて居室部分に戻ると、眠るつもりなど一切無かったであろう様子の美園がベッドに腰掛けていた。
「ドライヤーかけたらすぐ寝るからちょっと待ってて」
「はい」
タオルで髪を拭きながらそう言うと、ニコニコと笑った美園が手に持ったドライヤーをこちらに見せてきた。
「私が乾かしますね。さあ、来てください」
「うん、ありがとう」
誘われるままにベッドに腰掛けた美園の前に座り、そのまま彼女に諸々を委ねた。
疲労もあったのだろうが、温風と優しい指使いがあまりに心地良すぎて、「終わりましたよ」と肩を揺すられるまでドライヤーの音など気にせず寝てしまったようだった。
「ごめん。やってもらっておいて寝ちゃって」
「いいんですよ。ゆっくりしてもらう為にしたんですから」
優しくそう言ってドライヤーを片付ける美園に「ありがとう」と伝えると、「本当は私がしたかっただけです」と照れたように笑った。
今度僕にも美園の髪を乾かさせてほしいなと、彼女の巻かれていないダークブラウンのそれを見て思う。声に出せなかったのは、流石に女性の髪なので繊細な扱いが必要かと思ったからだ。好きなように撫でている身としては、今更かもしれないが。
「明日は何時に起きますか?」
「そうだな……」
戻ってきて隣に座った美園の質問に、欲望丸出し寸前から思考を戻す。
現在の時刻を考えれば、9時まで寝られれば明日1日はかなり快適に過ごせると思う。ただ、僕が9時だと言えば、美園は8時前には起きるだろう。
「じゃあ10時で」
「わかりました。10時ですね」
ニコリと微笑んだ美園は、スマホを操作して目覚ましをセットした。見えなかったが9時前にセットしただろうなと思いつつ、僕の方も目覚ましをセットした。
「美園」
「はい」
そっと髪に触れると、サラサラの細い髪の手触りが気持ちいい。
そして僕に顔を向けて目を瞑った美園に、そっと触れるだけの口付けをした。
「寝ようか」
「はい」
「それじゃ電気消すから、ベッド入って」
コクリと頷いてベッドに入った美園を見送り、部屋の照明を落として僕も布団を被った。
「抱きしめてもいい?」
「もちろんです」
ふふっと笑い体を寄せてくれた美園をそのまま抱きしめると、爽やかなシャンプーの香りと、甘いクリームの匂い、柔らかな彼女の感触全てが疲れを癒してくれる気分になる。
「最高に幸せだ」
「大分お疲れですね」
「そんな事ないよ」
優しく僕の頭を撫でてくれる美園が、労わるような声で耳をくすぐる。
「そんな事ありますよ。今日の智貴さん、いつもよりずっと甘えんぼですよ? その事自体は私としては嬉しいですけど」
「美園が嬉しいならいいや」
正直今の自分と普段の自分の違いが良くわからない。
とにかく今は美園に触れる事、触れてもらえる事が堪らなく心地良い。いや、これもいつもの事な気がする。
「美園」
「はい」
腕の中の彼女にそのままキスをし、唇を離して見つめ合い、もう一度唇を重ねた。
「智貴さん」
今度は美園から僕へと口付けを。
「美園」
次は僕から。
そうやって何度も何度もお互いの名前を呼び、その度に唇を重ねる。
「智貴さん」
そう言って僅かに触れるだけのキスをした美園が、少し困ったように笑った。
「そろそろ寝ましょうか。明日に疲れが残っちゃいますから」
「……うん」
正直助かった。僕はもう歯止めが利かないギリギリの所まで来ていた自覚があった。それでもキスがやめられなかった。
名残惜しさを押し殺し、彼女の背中に回していた腕をゆっくりと引き抜いた。そんな時でさえ、腕から伝わる柔らかさが後ろ髪を引く。
「そんな顔しないでください」
優しく囁くような声とともに、美園が僕の頭に手を添えて、そっと彼女の胸元へと抱き寄せた。
「文化祭が終わったら、いっぱいいっぱいしてください」
柔らかな幸福の向こうから、少し早い鼓動が聞こえる。結局それが子守唄の代わりになったのか、僕の記憶はその辺りで無くなった。
「おやすみなさい。智貴さん」
最後に聞いたのはその優しい声。多分おやすみと返せはしなかった。
◇
「昨晩は大変な醜態をお見せしまして」
翌朝、正確に言えば就寝前から6時間30分程後の事、「おはようございます。智貴さん」「おはよう、美園」とベッドの中で挨拶を交わしてからすぐ、残っている記憶について謝った。
「可愛かったですよ」
「忘れてくれ」
「嫌です」
彼女の前では常にカッコよくありたい――出来ているかどうかはともかく—―のだが、いたずらっぽく笑う美園はどうやらそれを許してくれないらしい。
「それよりも智貴さん。どうしてもう起きているんですか? まだ9時前ですよ」
「それを言うなら美園だってそうだろ?」
「私は、お化粧やご飯の支度がありますから」
「ほらそれ。化粧はともかく食事は美園に任せっきりにするつもりはないから」
しかし美園は化粧をしていない段階でも凄く可愛い。口に出すと反応が良くないので言わないが。
「それにもう二度寝出来そうにないから、食事は作るよ」
「わかりました。お米は予約してありますので、もうじき炊き上がると思います。私はお洗濯をしますね」
「よろしく」
「はい」
◇
「「いただきます」」
二人でテーブルに着いて、軽めの朝食――13時30分が今日の作業開始なので、昼食を食べてから家を出る事になる――をとる。
僕が朝兼昼の支度をしている最中、美園は自身の化粧と並行して、洗濯と布団干し――少しの時間でも干すとの事――を済ませていた。流石に料理程ではなかったが、その辺りの家事の手際もいい。
「いよいよ準備は今日で終わりですね」
「うん。こっちは順調だけど、女子チームはどう? 作業は大変?」
「先輩方は順調だって言っています。作業は大変ですけど、文化祭が近いって思うと何だか楽しいです」
「そっか」
笑顔の美園に安心し、ご飯を口に運ぶ。
女子チームの仕事は、貸出物品の整理、整備、清掃と大学構内各所の清掃、設置物の配置などがある。
「今日は午前で授業が終わって、女子チームで大型の看板設置なんかもするから気を付けてな」
「はい。ありがとうございます」
その他にも連絡通路などの高所に、横長の紙製看板を設置したりといった作業もあるので、本当に気を付けてほしい。それを伝えると、「大丈夫ですよ」と美園は優しく微笑んだ。
「智貴さんが悲しむような事は絶対にしませんから」
「うん。美園に何かあったら泣くから」
それはもう恥も外聞も無く、みっともなく泣く事だろう。
「それじゃあ尚更怪我をする訳にはいかないですね。私以外の人にそんな智貴さんを見せてあげません」
胸元で小さく可愛らしい拳を握る美園に苦笑し、僕は小指を差し出した。
「前は僕が怪我しない事だったけど、今度は美園が怪我しない事を」
「はい。約束します」
穏やかに微笑みながら頷いた美園は、その白く細い小指を僕の小指に絡めた。
準備期間最後の日が、間も無く本格的に始まる。