番外編 頼りない弟
「マッキー今日の夜空いてるでしょ? 美園には許可取ってるから」
「何故どいつもこいつも僕に聞かない」
文化祭まで2週間を切った土曜、実務の最中に島内香は同じ担当の牧村に声をかけた。彼は不満こそこぼしたものの、諦めたように息を吐いて頷いた。
「じゃあマッキーの家で」
「了解」
牧村もわかっているだろうが、恐らく今回がサシ飲みに関しては最後の機会になる。文化祭が終わってしまえば会う機会も減るし、何より同じ担当の同級生という口実は無くなる。お互いに恋人がいる以上、やましい部分など全く無いにせよ、そうそう何度も二人きりで酒を飲むという事は出来ない。
「飯はどうする? 何か作っとくか?」
「ジン君と食べてから行くからいいよ、ありがと」
「わかったよ」
こんな流れで買い出しや時間を決め、そのままお互いの仕事に戻った。
◇
香が牧村に抱いた最初の印象は「取っつきにくそう」だった。
その印象のまま特に話す事も無く同じ担当になった後に抱いた印象は「頼りなさそう」だった。
その後一緒に仕事をこなす中で、「しっかりしている」という印象を抱くまでに時間はさほどかからなかったが、「頼りなさそう」という印象はずっと持ったままだった。
そんな二人の距離が近付いたのは、周囲のほぼ全員から「香」と呼ばれているにも関わらず、いつまで経っても「島内さん」と呼び続ける牧村に痺れを切らし、「マッキーって呼ぶから香と呼べ」と言い放ったのが始まりだった。
因みに、元から「マキ」と呼んでいた彼の友人二人は、「何で後から付けられたあだ名に合わせないといけないんだ」と呼び名を変える事は無かった。
「自分でも頼り甲斐があるとはとても言えないからな」
そんな思い出話をしたところで、牧村が苦笑しながら口を開いた。
「でも僕は香の事をずっと頼り甲斐あるなあって思ってたけど」
「そう。ありがと」
それに関しては最初はあまり言ってほしくない言葉だったが、今は慣れた。と言うよりもその言葉に裏が無い事がわかってからは少し誇らしくなった。
「でも早いよなあ。もう去年の文化祭から1年だろ?」
「そうだね。またあの準備期間があると思うとちょっと憂鬱だわ」
「まあなあ……」
懐かしむような調子だった牧村の笑みが引き攣った。作業時間的には女子チームと男子チームに大差は無いが、使う体力は――男の方が体力的に優れている事を差し引いても――大分開きがある。
しかも今年の牧村は第2ステージ建設の指揮も執らねばならないのだから、その分の緊張もあるだろう。
「ステージ造りは大丈夫そう?」
「この間のレジュメ通り、問題無いよ。段取りも頭にも入れてる」
ステージ建設を簡単に言ってしまえば、広場に足場材を使って土台を作り、木製の板を敷き詰めて基本部分は終わり。それに同じく足場材を使ってステージ袖とステージバックに看板を取り付ける部分を作って取り付ける。
因みに、第2ステージ袖用の演目表の文字は全て美園が書いた。
「それなら安心」
何でもそつ無くこなす(対人関係を除く)牧村がこう言う以上、何の問題も無いのだろう。
「雄一は大丈夫そう?」
来年指揮を執らなければならない後輩を思い浮かべ、香は少し不安になった。
「多分、大丈夫じゃないかな。あいつ別に物覚えが悪い訳じゃないから」
「確かに最初は大丈夫かと思ったけど、最近頑張ってるね」
牧村は苦笑しながら「あいつはやれば出来る奴だから」と、まるでダメな弟の話をする兄のような態度を取った。
香からすれば頼りないと思っていた弟が、下に弟が出来て張り切っているようで面白く、酒が進む。そして牧村が作った――美園から教わったと言う――つまみも美味くて余計に酒が進む。
「どうかしたか?」
「ん? なんかマッキーが年上の余裕みたいなのを出してるから面白くて」
「何だよそれ」
「さあね?」
含み笑いで返せば、ばつの悪そうな顔の牧村はそれを隠すようにビールを呷る。
「いつの間にか後輩に手出してるし」
タイミングはワザとだったが、面白いくらいに牧村がむせた。げほげほと咳をする彼は「おま、タイミング」と口にしてまたげほげほと咳を繰り返した。
「人聞きの悪い言い方するなよ」
「他に人いないんだから良くない?」
「そう言う問題じゃ……」
「じゃあどう言う問題? 手出された方?」
「いやまあ……そうじゃないけど……」
歯切れの悪い牧村の様子と、美園から彼への呼び名が下の名前に変わった事を合わせて考えると、何やら面白い話になりそうな気がしてきた。
「今日は下ネタは受け付けないからな」
「えー」
だと言うのに牧村が先に釘を刺して来た。香は文句こそ言ったものの、流石に素直に引き下がり、ウィスキーを呷った。
「大体、多分最後のサシ飲みだってのに」
「まあいいでしょ。しんみりするのは打ち上げか追いコンでやればいいし」
「……それもそうか。と言うかしんみりする話とか無かったな」
「でしょ?」
「だな」
お互いにこの1年半の実行委員の活動を思い返して苦笑する。大変な事は多かったし、その分楽しい事も多かった。
一番大変なのはこれからで、一番楽しいのもこれからだと香は思う。恐らく2年生は皆同じ考えだろう。
そして何となく、どちらからともなくグラスを合わせ、思い出話に花を咲かせた。
◇
「じゃあそろそろ帰るね。長居しても美園に悪いし」
「僕には悪くないのか?」
「あんまり?」
そう言って香が笑うと、牧村は「仕方ない」とでも言いたげにため息を吐いた。
「送ってくよ。ジンの家でいいだろ?」
「そうだけど、別に一人で帰れるって」
「はいはい。散歩がてらだよ」
「ありがと、マッキー」
牧村は照れくさそうに手をぱたぱたと振って立ち上がった。
「忘れ物は無いか?」
「大丈夫」
そんなやり取りをしつつ玄関を出て階段を下りる。部屋に入れてもらう時も思ったが、牧村の動作が以前よりこなれている。今の階段も手こそ取られなかったものの、位置取りが良かった。
「マッキー、美園をたくさんエスコートして慣れたでしょ? なんか色々自然」
「どうだろうな。あんま自覚無いかも」
「美園はマッキーに色々してもらって凄い嬉しそうだから、やり甲斐あるでしょ?」
「そう、だな。あの笑顔見るだけでもっと頑張ろうって思えるよ。まあそうじゃなくても色々してあげたいんだけど」
相変わらず美園を褒められる(と本人が認識する)と、牧村は饒舌になる。アルコールのせいもあってかまだ無自覚に惚気ている。
香はそれを「はいはい」と聞き流し、空を見上げた。
「どうかしたか」
「ん。泣いても笑ってもあと2週間だなと思って」
実際は惚気を聞くのが面倒になっただけだが、口にした誤魔化しは先程避けたしんみりとした雰囲気を醸し出した。
「そうだな。でも泣かすような結果にはしないさ」
同じように空を見上げた牧村は、しっかりとした声でそう言った。
「マッキーってさ。意外と恥ずかしい事平気で言う人だよね?」
呆れたような目を向ける香に、牧村は「心外だ」と言わんばかりの顔をしている。美園はまだまだ苦労しそうだと、香は内心苦笑した。