9話 連休の予定と丁寧な挨拶の後輩
「それじゃあ、しーちゃんまた明日。おやすみ」
「気を付けてな」
正門前のバス停に着いた僕たちは、ちょうどやって来たバスを見て志保に別れの挨拶をした。
「今日はまだ乗りませんよ」
志保は「私もこの先に用があるんです」と言うと、僕と美園がこれから向かう方向に歩き出した。僕と美園は一瞬顔を見合わせたが、慌てて志保を追いかけた。
「美園の家に行くのか?」
先程美園は志保におやすみと言っているので、それは無いだろうと思いながらも横を歩く美園に尋ねてみた。
「わかりません。私もあのバスで帰ると思っていました。家に来るのは全然構わないんですけど」
「彼氏の家にでも行くのかな」
「あ、そうかもしれませんね」
「ハイハイ。二人だけの世界に入らないでくださいよー。私もいますからね」
「二人だけの世界……」
先を歩く志保が振り返って発した言葉に対し、それ流行ってるのか? と疑問に思った僕の横で、美園はその言葉を反芻して俯いてしまった。
「お前が先に行くからだろ」
呆れながら僕がそう言うと、志保と美園が意外そうな顔で僕を見ている。
「今、お前って言いました?」
「あ、悪い。つい――」
「いえいえ。全然気にしてないんですけど。マッキーさんも素が出てくるようになりましたね」
志保は笑いながらそう言うが、僕としては少しバツが悪い。後輩の前では先輩らしい口調でいようと思っていただけに――
「いいなぁ」
「「え」」
「あ……」
小さく呟くような声に僕と志保はそちらを見るが、声の主は顔を逸らしてスタスタと歩いて行ってしまった。
「何が『いいなぁ』なんだ?」
「私から言う事じゃないですね」
またも呆れたような視線を頂く事になった。「お前」と呼んだ事だろうか? 美園は粗末に扱われたい願望でもあるのだろうか。自分で考えておいてなんだがいくらなんでも無さそうだ。
「ほら、私そろそろなんで美園を止めて下さいよ。後ろからそっと抱きしめれば止まりますから」
「止めるハードル高過ぎだろ」
「ヘタレですねえ。おーい、美園ー。私この辺だから止まってー!」
志保が10メートル程先を歩く美園に声をかけると、美園は立ち止まりおずおずとこちらを振り返った。
ちょうど街灯の真下で立ち止まった彼女の、白い光に照らされた少し拗ねたような表情がとても美しい。僕の外見がもっと整っていたのなら、あそこで彼女を抱きしめればとても絵になっただろう。などと大分恥ずかしい事を思った。
「ちょうどここです」
数秒後に美園に追いついた志保の発言で辺りをよく見れば、僕にとって非常に見慣れた建物が道路と反対側に存在している。そしていくつかの疑問に合点がいった。
「ああ。成さんか……」
「正解です。もうちょっと驚いた顔が見たかったんですけどねー」
「なる、さん?」
美園が立ち止まり、志保がここだと言った場所は僕のアパートのすぐ横だ。志保はここに用がある事になる。恐らく彼氏の家だろう。
このアパートの住人で僕の知り合いは二人いる。一人は当代の副委員長、下野康太。もう一人は先代実行委員の成島航一、成さんだ。そして康太は3月に彼女と別れている。
「ここに住んでる成島航一さん。去年までいた文実の一つ上の先輩で、僕たちは成さんて呼んでる。志保の彼氏なんだろ?」
「あ。しーちゃんの彼氏さん、実行委員のOBの方だって」
「そういう事です。私は航くんて呼んでますけどね」
成さんとは担当こそ違ったが同じ出展企画で、アパートが一緒だった事もあってとてもよくしてもらった。僕の情報は志保に筒抜けだった事だろう。腹いせに今度会った時に航くんて呼んだら怒られるだろうな。
「それじゃあ私はここで。じゃあね美園。ありがとうございました、マッキーさん」
「ああ。それじゃあ」
「おやすみ、しーちゃん」
軽く手を振ると、志保はアパートの階段を軽快に上って行った。
「志保が送って行ってくれって言った理由がわかったよ」
「彼氏さんが誰なのか教えたかった、という事ですか?」
「それもあるんだろうけど。ここ、僕の家でもあるんだよ」
「え。ここが牧村先輩のお家なんですね」
「205号、あそこの部屋だよ」
別に部屋まで教える必要はなかったが、何となく自分の部屋を指差して美園に教えると、美園は笑みを浮かべた後、不思議そうな顔で口を開いた。
「部屋が4つしか無いように見えるんですけど、5号室なんですか?」
「104と204が無いんだよ。不吉だからって」
ここに限らず死をイメージさせる○○4号室が無いアパートは結構ある。
「私の部屋、204号室です……」
「……なんかごめん」
◇
「美園は連休中実家に帰るの?」
「どうしようかまだ考え中です。牧村先輩はどうですか?」
「僕は帰らないよ。バイトもあるし、実家に帰ってもすること無い」
僕の家から美園の家までの途中、すぐそこに迫った五月連休のお陰で話題には困らない。去年の経験則で言えば、この時期の1年生は実家に帰る子も多い。考え中と言っている美園も恐らくは実家に戻るだろう。
「決めました。私、こっちに残ります」
僕の予想はあっさり外れた。
「どうしてまた?」
「実家に帰ってゆっくりしようと思ったら、来週の月曜と金曜は授業休まないといけなくなります。だからどうしようかと思っていたんですけど」
五月連休の隙間の月金を自主休講してしまえば、10連休になる。実際にその選択をする学生は多い。
美園はそこで言葉を切って、上目遣いで僕を見て、もじもじとしだした。もうなんで残るかとかどうでもよくなってくるな。
「牧村先輩のアルバイトの日はいつですか?」
「…………あ、ええっと」
美園に見惚れていたのが半分、話が急に飛んだのがもう半分で、僕はとっさに反応も記憶の呼び起こしも出来ず、スマホを取り出しカレンダーを開いた。
「30と3、4にそれから7日かな」
「あの、それじゃあ……」
先週連絡先を聞かれた時の空気に似ている。違うのは今回美園が僕から目を逸らさなかった事だ。朱に染まった頬と潤んだ瞳の破壊力が高過ぎて、僕の方が目を逸らしそうになる。
「牧村先輩の都合のいい日で構いませんので、お食事をご一緒できませんか?」
「そんな事でよければ喜んで」
「本当ですか!?」
緊張の面持ちから一転し、ぱっと顔を綻ばせる美園に頷いて見せると、眩しい笑みを僕に向けてくれる。
元々何を言われても――美園の要求はきっとささやかなモノだと思っていたし――承諾するつもりでいた。こんなに可愛い後輩と食事に行けるというのはむしろ役得だろう。
「さっき言った日はちょっと都合つかないけど、それ以外ならいつでもいいから」
「はい!お昼がいいですか?お夕食がいいですか? 牧村先輩は何がお好きですか?」
やたらとハイテンションで質問してくる美園が微笑ましいが、残念ながら時間切れだ。
「あ。着いちゃいました……」
「連休までまだ時間はあるし、ゆっくり決めよう」
その落差がおかしくて、ははっと笑ってスマホを見せると、美園は笑顔で僕の名前を呼んだ。
「はい、牧村先輩。おやすみなさい」
「ああ。おやすみ、美園」
顔を合わせて「おやすみ」なんて言葉を使うのは「こんばんは」よりも久しい気がする。他の人が相手では、向うから言われてもきっと気恥ずかしくて返せない。
「こんばんは」「おやすみ」そんな言葉をこの子の前では自然と使える。そんな自分に気付いて、我ながら少し驚いたが、なんとなく心地よくもあった。