番外編 破壊の歌姫
「デートしよう」
「はい!」
授業が終わってもう夕方ではあったが、二つ返事の美園を伴って向かったのは大学近くのカラオケ店。誕生日に歌ってもらった美園の歌を聞いてから、絶対に一緒に行きたいと思っていたが、今日ついにその智貴の願いが叶う。
「智貴さんの歌が楽しみです」
夏休み中から付き合い始めたのだから当然ではあるが、思えば授業終わりのデート――自宅デートを除く――は初めての事で、繋いだ手の振り幅もいつもより少し広い気がしている。
智貴としては正直なところ、美園の歌さえ聞ければ自分は一切歌えなくても構わないのだが、それで彼女が喉を痛めでもしたら自罰では償いきれないし、美園が楽しみにしてくれている以上は歌うつもりではいる。
「私、歌は上手じゃありませんけど、歌う事は好きなんです」
少し恥ずかしそうな上目遣いでそう言った美園に、今日はたっぷりと彼女の歌を堪能できると、智貴は内心ガッツポーズをとった。
◇
「凄いです。カッコ良かったです」
まずは智貴の1曲目。友人達とたまにカラオケに来た時によく選ぶ、20年以上大人気でいるバンドのアップテンポ気味の曲をしっかり歌いきった。
隣に座る美園はずっとキラキラとした視線を智貴に向けっぱなしで、両手を大きく使って拍手をしてくれている。今までのカラオケで一番大きなリアクション、それもストレートに自分を褒めてくれるものに、智貴は「ありがとう」と言うのが精いっぱいだった。
「次は美園の番だよ」
「はいっ。この曲にします」
子どもがおもちゃを自慢するかのように見せてくれたリモコンには、甘々な事に定評のあるラブソングが表示されていた。美園の声で、あの歌い方で歌われるその曲に、智貴は内心では狂乱に近い歓喜が巻き起こっていた。
「頑張って」
「はいっ」
とは言え智貴も年上彼氏、心中の喜びの大嵐を隠しつつ、優しく微笑んで美園の手にマイクを握らせた。手が触れ合った瞬間、嬉しそうな笑みを浮かべた美園の髪をそっと撫でたところで、曲のイントロが流れてきた。
両手でマイクを握った美園はリズムをとる為に僅かに体を動かしていて、そのダークブラウンの髪も少し揺れている。
『~~~』
そして始まった歌い出し、音程はきっちりと取れているのだが、やはり歌い方がどこかたどたどしく、歌詞が全て平仮名であるかのような錯覚を覚える。
だが可愛い。甘々な歌詞とたどたどしい歌い方のマッチングはお互いの破壊力を何倍にも引上げ、それを歌う美園の綺麗な声が、甘味に塩分を加えたかのように甘さを際立たせる。
この段階で既に智貴の言語中枢は破壊されており、「ヤバい」「かわいい」という二つの言葉しか頭に浮かばなくなっている。そんな彼を、隣に座る美園が上目遣いで見つめた。何かと思っていると――
『すき』
スピーカーを通して智貴にその言葉を届けると、美園は照れながら再びディスプレイへと視線を戻した。
智貴の脳が『すき』が曲のフレーズであることを理解したのは10秒程経ってからで、顔の熱さを認識したのは更に15秒後。
その後も「好き」という歌詞がある度に、美園は同じように上目遣いで智貴を見つめて『すき』のフレーズを歌う。しかも2回目以降は照れも生まれたのか、彼女の方もはにかみながらそれを行うので、彼は脳が茹るような感覚に襲われ続けていた。
「どうですか?」
「やばいかわいい」
間奏のタイミングでのその質問に、智貴は壊れた言語中枢を酷使して辛うじて答える事が出来た。
赤い顔の恋人の返答に満足げな笑みを浮かべ、「2番も頑張りますね」と美園はわずかに首を傾けて髪を揺らした。
これ以上頑張られると死ぬかもしれない。智貴は本気でそう思う。
そうして始まった2番でも、やはり美園の歌声は智貴の脳をどんどんと破壊していく。そしてまたサビが近付いて来て――
「!?」
自分の手に触れた柔らかな感触に智貴が視線を下ろすと、マイクを片手に持ち替えた美園の右手が重ねられていた。ニコリと微笑んだ彼女はその状態のまま、彼を上目遣いで見つめる。少し暗い室内でも、頬に差した朱はわかる。
『すき』
手を握られたまま、少し照れた赤い顔の上目遣い。そして甘く蕩けるような『すき』のフレーズ。
美園が「歌う事が好き」と言っていなければ、間違いなく智貴は彼女を抱きしめて唇を奪っていた。それでも何とか必死にその衝動を押さえつけ続ける事は、彼にとって激甘で幸福な地獄だった。
◇
「今日は楽しかったです」
「うん。ありがとう」
二人で2時間程歌い、そのまま美園のアパートへと智貴は彼女を送って来た。既に日の落ちた10月の風は冷たく、彼の惚けた頭を多少は冷やしてくれた。
「また行きましょうね。歌っている智貴さん、凄くカッコ良かったです」
「ありがとう」
美園はニコニコと上機嫌で笑いながら「歌っていない時ももちろんカッコいいですけど」と付け加えるが、智貴としては次回の予定を立てるには覚悟が足りていない。
「智貴さん智貴さん」
呼びかける彼女に、いつものおやすみのちゅーかと思い智貴が僅かに身を屈めると、美園はそのまま彼の首に腕を回して抱きついた。彼女の甘い香りが、智貴に今日の甘い記憶を想起させる。
「すき」
そっと耳元で囁かれた智貴は、反射的に美園を強く抱きしめた。
「上がっていきませんか?」
「そうする」
彼の耳には「はい」と囁くような優しい声が届いた。
歌っている途中の仕草は学科の友人達の入れ知恵です。