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たゆたう契約  作者: 絢斗
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たゆたう契約

 このままでも問題なく読めますが、縦書きにされて読まれることを推奨致します。〝ケータイ小説〟ではなく〝携帯小説〟です。

 また頻繁に推敲し、加筆修正など繰り返していますので、すでに書いた描写などに変化があるかもです。またここが変だよ、とか脱字誤字などございましたら教えていただければ幸いです。

 また章などで小分けにせず、一気に書くつもりですが、こちらのサイトの上手な使い方をまだよくわかっていないので長くて読みにくいかもしれません。その場合対応したいと思います。要するにとりあえず書いてみた状態です。宜しくお願い致します。




 1


 彼女が――彼女が上に乗っていた。


 彼女の腰の動きは藍田を激しく求めていた。ただ性欲に委ねた動きではない。もっと本能的で何かを切実に追求するかのよう。雰囲気が妖しくて、まるで異質だった。身体だけじゃない。心すら奪いたいんだ、と強く訴えられている気がした。もっと――あなたのすべてが欲しい。言葉ではすべてを正しく表せない。だから彼女の身体が有らん限りに伝播させようとどこか痛切に、けれど力強く、あらゆる手段を使ってでも伝えたい。そのようにあたかも叫んでいるかのようだった。藍田としてはそれは嬉しいことだった。けれど彼自身はすでに彼女に支配されているも同然のつもりだった。彼女の為ならどんな要望にも嫌だと思うことはあるまい。彼は、彼女の存在そのものを肯定していた。自分のすべてを彼女に捧げ、尽くしたい。それこそが彼の本懐だ。だからその心配は要らないよと彼は胸の内で沈黙に呟いた。口にしなかったのは、このセックスで、言葉よりもなお鮮明に身体で伝えられるはずだからだ。

 藍田は、二人きりのときにだけ覗かせる彼女のその素顔に強い愛おしさを感じていた。普段は仕事に真面目で、穿った思考をしていて付け入る隙などまるでない。彼女を籠絡することは困難だし、近付くことさえこれまでに果たして何人が可能としただろうか。世渡り上手で、人間関係を上手く操り、社会をしたたかに過ごしているようだった。要するにガードが堅く、口説き落とすのは簡単ではない。

 だが実際のところ、彼女は甘えん坊だった。独占欲が強くて、嫉妬もしてくれた。藍田はそんなギャップに感嘆とさえしていた。それは愛情というより、強いて表現すれば優越感に近いものだった。誰にも簡単に深い関係を持つことのないこの人が、自分なんかに心を開いてくれていることに強い想いをいだいた。どうして自分なんかを想ってくれるのだろうか、と何度も何度も疑問に思ったこともある。自分に彼女は相応しくないという気持ちは決して謙遜ではなく、それこそが厳然たる事実であるはずなのに。

 明かりを落とした昏い部屋の中で、アイアンベッドがぎしぎしと響く。白い壁に彼女の影が映っていた。藍田の上に乗り、果てを求めて乱舞していた。彼女の長い髪が舞い、乳房が揺れていた。視線を彼女に戻す。一糸纏わぬ彼女のその姿は、蠱惑的なくびれを曝け出し、柔和で温かな白い肌が美しかった。彼女に抱かれる度に彼は願う。

 時よ止まれ。

 この瞬間が永遠に続けば良い。それは祈りにも近かった。

 彼女が動きを止めて、口付けを交わしてきた。舌と唾液が絡み合う、淫靡なそれ。それを皮切りに、藍田は彼女を抱き抱えたまま起き上がり、そのままの勢いで彼女を下に押し倒した。今度は彼が上になる番だった。彼女はそれに従い、むしろ歓迎するようだった。甘美な雰囲気に蕩けるようで、早く早く、と焦がれているような恍惚としたかんばせが藍田をより興奮させた。

 彼にとって彼女とするセックスは、自分の快楽より、彼女を満足させることが優先だった。エクスタシーに導くという意味ではなく、いかに自分の気持ちを彼女に認識させ、納得させるかというものだった。

「愛して、る?」

 彼女は息も絶え絶えに問いかけてきた。危うく聞き逃してしまいそうなほどにか細くて儚い声色だった。だが、その一言はどんな諫言よりも彼の耳に鋭く侵入してきた。ともすればいまにも果ててしまいそうなほどに弱々しくどこまでも無防備な表情なのに、その瞳だけは、藍田を、彼のどんな表情の機微さえ見逃すまいとしっかり捕らえていた。

 その彼女の表情かおに彼は一瞬たじろいだ。あまりにも美しいと感じたからだった。誰にも見せない、自分だけに見せるそれなのだと理解した。彼の全身にはげしくも心地良い痺れが迸った。

 答えはもちろん決まっている。藍田は彼女を愛している、誰よりも。だが、彼はその言葉を口に出すことに辟易していた。それを口にした途端に意味そのものまでが言葉と共に出ていってしまいそうな気がした。

「う、ん」

 だから彼は頷くだけだった。

 恐らく彼女が満足いく態度ではなかっただろう。しっかりと彼の口から言葉で聴きたかったのだと思う。そうとわかっていながら、それでも口にすることはできなかった。だからその代わりに、彼は身体の動きをより激しく、より力強くした。気持ちよくなるためではなく、本心をその身に刻み込もうとするかのように。

 おもむろに彼女は腕を伸ばし、藍田の首に絡めてきた。彼は引き寄せられるかのように、顔を彼女の顔の側に下ろした。彼女の甘美な吐息が漏れ出ているのがわかる。

「悠……ゆう……」

 耳元のすぐ傍で、藍田の名前を囁いている。聴き慣れた声であるはずなのに、いま初めてそれを聴いたかのようだった。同時に、彼の中で衝動めいたものが迸った。慟哭のように強く切なくて、けれど温かみを感じる。これは、愛情――だろうか。

 幸福に満ち足りたいまこの瞬間が、まるで世界から別次元へ切り離されてしまった気がする。身体で感じ、頭で思考でき得る概念そのものがとうに乖離されていた。いま二人はただ共にあるということだけの事実そのものさえ感じられていられれば、ただそれだけですべては事足りていた。それ以外は必要ではないのだ。時も、意味も、思考も、命でさえ。

 何があろうとも、彼女は藍田の愛する人だった。

 この二人だけの空間が、二人だけの時間が、永遠に続けばいいのに。


 2


 月曜日とは何とも気怠いのだろうか。藍田悠は高校生だった。だから、いまは学校へ向かっている最中だった。もう何年も学生という職業を全うしているが、朝が得意になることはなぜかない。特に月曜日のこの億劫さはいつまで経っても拭えないばかりだ。ただ幸いなのは、今日の天気が晴天だということ。穏やかに晴れ、爽やかに吹く風が心地良い。もし雨だったなら、尽く気が滅入ってしまっていたはずだ。傘を持っている場面を想像するだけで気が沈みそうだ。人はつくづく天候に影響され易い生き物である。

 藍田は道中、携帯電話を取り出した。そこにはいつも通り『今日も頑張ろうね』といった内容のメッセージが入っていた。相手は彼が最も想う女性ひとからだ。

 『うん。梨乃ちゃんもね!』と彼女の名前を入れて返事を返す。梨乃ちゃんというのが、藍田が彼女に対する呼び方だった。

 この連絡のやり取りはすでに日常的に化していた。送るタイミングも、その内容も、大した違いはないこそすれ、一日一日を過ごす上で欠かせないものであった。どこへ行くにも二人は意思疎通をする。逆にメッセージが来なければ不安になるし、すぐに押し潰されそうになる。藍田は独占欲が強かった。しかしこんなにも強い独占欲をはっきり感じたのは彼女が初めてのことだった。些細なことだとわかってはいても、強い焦燥に陥り、余裕をなくしてしまうことに、最初は他でもない自分自身が当惑した。過去に女性関係がなかったわけではない。今時の高校生ともなれば、既に恋愛の一つや二つは経験している。藍田は理解力があり、女性からのわがままも愛情の一つと捉えることができる寛容で優しい性格をしている。これまでのガールフレンドにも、そういった対応をしていた。だが、この梨乃ちゃんとの関係が始まって以来、いままでの自分とはまるで違う性格に変貌してしまったかのようだった。いまでは自身の貪婪さにしょっちゅう戸惑っている。認めてもらいたい、解ってもらいたい、愛されたい――それらの感情がすべてを破滅させる原因にさえなり兼ねないとわかってはいる。わかってはいても、だけどそれでも気持ちを抑えられなくて、日に日に留められなくなっている。そしてそれを少なからず吐き出してしまっていることに恐怖すら覚えている。要するに甘えているのだ。無理なことを言い続ければ、いずれ見限られてしまうのではないかと、ここ最近の彼は常に葛藤することが目立つようになっていた。梨乃ちゃんと出逢うまでにはなかったことだ。

 家にいようが学校にいようが、藍田はどこにいてもこのような懊悩を抱えていた。

 もっと、さっぱりした人間になりたい。具体的には、迷惑もかけず、勇ましく凛々しく振る舞いたい。自分が彼女を支えたいし導いてあげたい。それが藍田が考える梨乃ちゃんに対する理想的な立ち居振る舞い。しかし、現実は明らかに程遠いものだった。理想と現実の差は簡単に彼を絶望させてしまう。もっと彼女に相応しい人間で在りたいと思えば思うほど、皮肉な程に諦観がよぎってしまうのだ。

 その現実とは、まだ十代の少年が背負うには、あまりにも重すぎる。

 梨乃ちゃんには、家庭があった。人妻だった。そう、つまりは所詮は不倫――どれだけ悩み考えようとも、自分はそもそもお門違いな存在なのだと自覚するに至る。その致命的な現実が、彼を戦慄させる。だから、藍田には、彼女に自分という存在は相応しくないのだと考えてしまう。それは覚悟の上で選んだことのはずなのに、それでも未だにきっぱり割り切れない自分が甚だ情け無いかった。

「おい、悠。何やってんだよ」

 寝耳に水とはまさにこのことか。不意に訪れた声に、藍田はたじろいだ。

 手に持っていた携帯電話を仕舞いながら、声がした方へ振り向く。そこにはしかめっ面をした佐藤潤がいた。藍田より背が高く、すらりとしたスタイルの良さは女子も放っておけないだろう。

 藍田はいまのいままで考えていた苦悩を封じ、平静を装うことに努めた。

「佐藤か。おはよう」

「うぃーす」

 淡々とした一言だった。冷たいが、しかしこの際そんなことはどうでもいい。藍田の狼狽をどうやら彼には気付かれていないらしい。安心した。そこまで目立った反応をしたわけではなかったようだ。

 佐藤は藍田との悪友だった。藍田らはいま二年生でクラスは別々なのだが、一年生の頃はクラスメイトでその時に仲良くなった。その頃から彼は常に気怠い気配を漂わせていて、やる気というものが感じられない。実際比喩でもなんでもなく、学校に行くことに熱心にはなれないのだろう。

 佐藤の出現は、正直有り難かった。息苦しい考えに囚われつつあった藍田にとって、なかなかどうして気晴らしにちょうどいい。

 佐藤が藍田の隣に並んだところで、改めて学校へと向かい歩き出す。

「相変わらず眠そうだな」

「そりゃ眠いっての。いま何時だよ」

「八時だ」

 学生が登校するには然るべき時間帯だ。しかし佐藤はそれが不満なのだろう。どうせ一〇時過ぎまで寝ていたいと考えているに違いない。

「鬱だわ」

「そりゃ打つ手なしだな」

「……上手いこと言ったつもりか?」

 佐藤にこの冗句は通用しなかったようだ。なかなか手厳しい。

「あー、ところで佐藤さんよ。今日も学校の後はクラブなんだろ?」

「まあな。お前も部活だろ?」

「うん」

 二人はサッカーをしていた。それがきっかけで関係が縮まったことは懐かしい思い出だ。藍田は昔からクラブ活動だったが、佐藤は然るべき公式のクラブチームに所属し、将来はプロになることをすでに想定している。普段は飄々としているが、実際は熱いものをしっかり秘めていることを藍田は認めていた。

「お互い頑張ろうぜ」

 佐藤の頬が緩んだ。将来一緒にプレーしようぜと言いたいのだろう。

 藍田も真面目にサッカーに打ち込んでいた。佐藤と同じく、彼も将来はサッカーをし続けていたいと考えている。部活メンバーの中では、誰よりも長くリフティングができるし、フリーキックが得意でセットプレーを任されていた。公式試合で結果を残してレギュラーとしてすでに定着しつつある。サッカーに惜しみない努力をして、少しでも上達しようと一生懸命だ。佐藤とサッカーがしたいのは、藍田とて同じ気持ちなのだ。

「そうだな。僕も負けられないわ」

 藍田も微笑で返した。それは本音だった。実際いま佐藤と勝負をしたとして、彼の実力に匹敵するかどうかは訝しい。佐藤が自分よりも劣っているなどとは油断できない、間違っても。侮ることはできない。ああ見えても、彼はレベルの高い選手なのだ。

 藍田の態度に満足したのか、佐藤はもう一度、微笑む気配があった。彼は常日頃、ほとんど怠そうに無表情で、表情かおから感情を読み取ることは難しい。藍田が彼の些細な機微に気付けるようになったのも、初めて出逢ってからかなりの時間を要した。

「にしても、今日は眠いな」

 佐藤は欠伸をしながら言った。相変わらずではあるが、まるで気怠さの権化のようだと思った。この男はサッカー以外に集中できることはないのだろうか。いや、寝ることか、と藍田は心のなかで皮肉をひっそりぼやいた。ただ、その気持ち自体には同情はするので言いはしない。

「ほれ、もうすぐ学校に着くぜ。今日も乗り切ろう――ていうか、まあどうせ授業中は寝るんだろ?」

 藍田は鼻で笑った。佐藤が机に突っ伏して寝息を立ている光景は容易に想像できる。というより、幾度となくその光景を実際に目撃している。

「眠かったらな」

「さっきからもう眠いって言ってるじゃねえか」

「そん時だよそん時」

「はいはい、そうですか」佐藤との会話が成立した試しがあっただろうかと振り返る。彼はいつもこんな調子で、どこ吹く風だ。「なあ、佐藤」

「ん?」

「お前得意の教科ってあるのか?」

 藍田は不意に訊きたくなった。そういえば、佐藤は勉強が得意なのかどうなのか、その類の情報は一切窺い知らなかった。

「何だよ急に。んー、そうだな……」

 佐藤は考え込み、そしてしばらくの沈黙が降りた。通学路にはすでに他の登校生たちがいて、周りの喧騒さが藍田の耳を刺激する。煩わしいのは苦手である。

 佐藤のその様子は、何よりの回答よりはっきりしていた。もはやすでに答えを聞くまでもない。

「ないってことだな」

「そもそも学校自体だりいよ」

 言葉こそ抑揚がなく、おそらく真剣に答えているのだろう。だがその佐藤の答えに、藍田は思わず吹き出した。そうだった、彼は実に素直な男だったと今更ながらに実感した。

「聞いた僕が悪かったよ」

「何笑ってやがる。お前はどうなんだ?」

「そうだな……」藍田は少し悩んだ。「美術かな」

「はあ、美術だと?」思わぬ回答と言わんばかりに、佐藤は珍しく瞠目していた。「五教科すらねえぞ」

「得意な教科ひとつもない奴に言われたくはないぜ」

「っるせ。それで、なんで美術?」

「こう見えて絵を描くのは得意なんだよ」

 得意、という表現は実際正しくはないのかもしれない。ただ単純に好きだということだけに過ぎない。自分の絵が上手いかどうかはわからないし、いつも描いているわけでもない。飽く迄も趣味な部類か。プリントの裏に落書きする程度のもので、大層な意味はない。

「体育は?」

「暑苦しいのは苦手だ」

 藍田らは何の忌憚もなく答えた。事実だったからだ。しかし佐藤は納得できない面持ちになった。

「待て待て。サッカーこそ暑苦しいんじゃねえのか?」

 言われてみれば確かにそうだ。声を掛け合い、チームプレーが必要不可欠なサッカーは、確かに暑苦しいと表現でき得るのかもしれない。

「いやサッカーは戦略的だろ。なんかそこが好きなんだよ」

「意味わからん奴」

 佐藤は呆れた口調になった。

 藍田からしてみれば、それは別の問題だった。サッカーは常に状況判断を強いられる。あらゆる場面を頭の中で想定しながら、常に最適な選択を選ばなければならない。ただボールを蹴るだけではゴールは生まれない。それができなければ忽ちにゲームを支配され、勝利することなど到底できない。

 藍田はそう言った、戦略性が試されるものが好きだった。サッカーはそれを満たしている。だから続けられている。辞める気も毛頭ない。そもそも身体を動かすことが嫌いというわけでもない。

 ただ――ただ〝授業〟という名目が、素直に認めることを阻む何かがある。強制させられている、ということに嫌気を差しているのだろう。

「まあこっちの事情だ、気にすんな」

「気にするように見えるか?」

 佐藤はそんな細かいことを気にするような男ではない。それよりも、授業中にいかにして快適に眠れるかを思案しているに違いあるまい。

「いや、全く見えないな」

 他愛もない話をしているうちに学校へと到着していた。通学路で佐藤と出会うのは珍しいことだったが、有意義な時間だと思った。これなら月曜日の朝もまだ悪くない。

 先生たちが挨拶をして生徒らを出迎えているのを尻目に、二人は学校の中へと進んでいく。クラスが別々なので、途中で別れることになった。

「んじゃーな」

 佐藤が掌をひらひらさせて去っていった。モデルのような体型をしている分、その気障な仕草も、だが様になっているのだから腹立たしくもあった。

「ああ」

 再び一人になり、自分の教室まで歩く途中で、藍田は後ろめたさのようなものを感じていたことを反芻する。サッカーには、もちろん手を抜いた覚えはない。しかし、本当にこのままで輝かしい将来が待っているのだろうか。

 サッカーを含めた高校生活だけを満足に集中できない理由が藍田にはある。

 ひとりになったところで、その隙を付け入るように彼の悩みの種が頭のなかに流れ込んできた。

 梨乃ちゃん。その人の顔がすぐさまに脳裏に蘇る。

 徐に携帯電話を取り出して画面を確認する。梨乃ちゃんからの返信はまだ来ていなかった。


 3


 授業は滞りなく終わり、昼休みへと突入した。藍田は適当に菓子パンとジュースを購入し、中庭へ移動した。正門奥に誂えられた中庭は、数種類の花が咲いていて、綺麗に管理されているようだ。また更には鯉が泳ぐ小さな池のようなものまである。

 いつもは教室で食事を済ませるのだが、今日はせっかく気持ち良く晴れた日ということで、この中庭で昼食を摂っても悪くないかと思った。いつもより気分も変わるし、外は空気が澄んでいて、清々しかった。それに花を眺めるのも風情があってまた悪くない。機会を見て、藍田は時々ここに訪れるようにしている。

 傍らに備え付けられたベンチに腰を下ろし、ポケットから携帯電話を取り出した。画面には、『今日は何食べるのー?』と梨乃ちゃんからメッセージが入っていた。

 『適当にパンでも食べます。梨乃ちゃんは?』と返した。パンを包むビニール袋を破ったところで、梨乃ちゃんからすぐに返信が来た。『弁当だよ』と可愛らしい顔文字と一緒に送られて来た内容に、弁当の中身を映した写真が添えられていた。小さな弁当箱の中に、だし巻き玉子に、一口サイズの唐揚げに、ウィンナーに小さなサラダと豊富な料理が隙間なく飾り付けられていた。どれも定番メニューだったが美味しそうだ。色も鮮やかでバランスが良く、綺麗な盛り付けだった。

 『これは美味しそうだ、羨ましい!』と大袈裟な様子で返事を出した。だが事実としてパン一つの自分とは大違いである。

 そのパンにようやく齧り付く。味わい慣れたものでもう特に大した感動もないが、馴染みのある味に不満はない。

 静かだった。瀟洒な中庭にも関わらず、いまこの場にいるのは藍田だけで、他の生徒たちはまるでいなかった。なぜならこの中庭を進んだ先に更に広々とした広場があるからだ。そこには細やかではあるが緑の植物を施されたテラスがあり、生徒たちが座ることのできる噴水があり、更にその隣には食堂があった。つまりそちらの方が生徒たちには要衝となっており、この中庭は名ばかりで、実際のところはそこまでに辿り着く為のひとつの通り道と化しているのが実状だ。

 だが彼は入学して間もない頃からここに一目を置いていた。静かで、なんとなくそこだけの空間が他の場所よりも澄んでいるような気がした。さすがにこんなところをひとりで座り込むのは勇気が要り、気取っているような気がして最初はここに来ることを躊躇っていたのだが、しかし実際来てみれば、気にしていたことは瑣末な杞憂に過ぎなかった。人の目も、その実、気にするほどの人も通らない。喧騒から忘れ去られたかのように穏やかで、有意義だった。常に姦しい学校のただなかに、こんな場所が存在していたことをもっと早く思い知るべきだった。騒がしいよりもこうして静かに過ごす方が彼は好きだった。彼の目に狂いはなかったのだ。

「お休み中のところ申し訳ない」

 唐突だった。更には聞いたことのない声だったので、最初は自分に掛けられているそれだとはまったく気が付かなかった。しかし近くに自分以外の人らしきものはいなかったので、それは自分に向けられたものではないかとようやく疑うまでに数瞬の時間がかかった。

「はい?」

 顔を向けた先にはひとりの女生徒がいた。流れるような黒の長髪が陽の光を反射させ麗しさが強調されている。きりっとした美しい顔立ちはすでに大人の魅力を宿しつつある。制服を着ているから同じ生徒であることは一目瞭然だった。言葉遣いから察していたが、凛然とした佇まいは雅な気配を湛えている。藍田は思わず絶句した。自分に何の用かと懐疑するよりも、見惚れてしまったという事実に辟易した。

 彼女の制服の襟元に、青色のバッヂが着けられていた。すなわち三年生という意味だ。つまり自分より一つ上の先輩になる。この学校では、二年生は緑色、一年生は赤色のバッヂから学年が判別できるようになっている。丁寧な言葉遣いではあるものの敬語ではないのは、彼女と同様に藍田も襟元に身に着けている緑色のバッヂから、彼が下級生であると了解したのだろう。

「申し訳ない。隣に座らせていただいても良いだろうか」

 決して広くはない中庭に用意されたベンチは生憎ひとつしかない。せいぜい三人も座ればぎゅうぎゅうになってしまうだろうが、藍田ひとりで占拠するには余りある広さはある。

「あ、ああ、こちらこそ。我が物顔ですいません。どうぞ」

 そう言いながら、両手にパンと携帯電話を持ちながら、彼は横へ少しずれて彼女が座るスペースを確保してあげた。

「ありがとう」

 爽やかに相好を崩し、彼女は悠然たる仕草でベンチに腰を下ろした。その時、華やかで爽やかな香りが藍田の鼻を優しく撫でた。

 何とも言い難いただならぬ緊張感を覚えた。顔見知りというならまだわかる。だが、藍田と彼女はそうではない。なぜ彼女の見知らぬ人物が鎮座しているのに、わざわざここに座りたがるのか怪訝を禁じ得なかった。パンを齧ることさえ逡巡してしまう。

 それからしばらく、会話らしき会話はなかった。藍田は時折携帯電話を確認して、梨乃ちゃんからのメッセージを待った。しかし昼食に集中しているのか返事はまだ来ない。これ以上待っていても仕方がないのでポケットの中に押し込んだ。

 隣に座った彼女は手にしていたランチマットを解き、弁当を膝の上に広げて黙々と食べていた。

 自分は稀にしかここには来ないが、その間にこの人と会わなかったのはただ単にタイミングが悪かっただけで、彼女は普段からここで昼食を食べるのが日課なのかもしれない。そう考えると、自分という異質な存在がいつまでも居座るのは悪い気がした。

 そんな藍田の葛藤に察したのか、彼女がこちらを見てきた。目が合っただけで心臓が脈動した。

「パン、食べないのか?」

 手に持ったままのパンを箸で指しながら言ってきた。

「い、いや、食べます」

「うん、それが良い。昼休みなんかあっという間に終わるぞ」

 諭すように言いながら、彼女は再び自身の弁当に視線を戻し、ご飯を箸で掴んで静かに口へ運んだ。

「は、はい……あの、僕は迷惑ではないですか?」

 訥々と尋ねた。どうもさっきから調子が狂ってしまっている。まともに言葉を紡げていないのがわかる。

 彼女はもう一度、こちらを検めるように視認してきた。生まれて初めてその言葉を聞いたかのようなきょとんとした表情をしていた。

「迷惑、なぜだ? 君は何も迷惑をかけてはいないだろう」

「いやでも、その、見知らぬ奴がいて、なんていうか……気不味くはないですか?」

 慎重に言葉を選びながら言葉を作った。たぶん自分の表情は強張ってしまっているのだろう、と全く関係ないことを想像した。

 だが彼女は少し寂しそうな表情に変化したのを、藍田は見逃さなかった。

「そんなことはないが、いやすまないな。どうやら私が君の邪魔をしてしまっているようだ」

 言い終えるが先か、まだ食べ掛けの弁当を片付けようとする気配があった。ダメだ、立ち去られる、そう直感した藍田はなぜか、それは嫌だ、もっと一緒にいたい、そういった本能的な反応に襲われた。

「いやいや! そんなことはないですよ! むしろ居てくれた方が嬉しいというか、いやその……」

 思わず素っ頓狂な声を出してしまったことに激しい恥ずかしさを覚えた。もはや憐れさえ感じる。呼び止めた内容も文法がめちゃくちゃで、言い終える時は消え入りそうなか細い声になってしまっていた。そして、なぜそこまで必死になってまで彼女を呼び止めてしまったのか、他ならない自分自身に困惑した。なぜその行為に至ったのか、自分でもまるでわからない。

 しかし彼女は笑顔を零してくれた。それは藍田にとっては救いだった。端から見れば不審者も同然だろうに、彼女は気を悪くした様子はなかった。それが有り難かった。

「ではここに居させてもらうよ。ありがとう」

「い、いやそんなお礼には及ばんです」

「フフ、君は面白いな。早くパンを食べたらどうだ?」

 そこでようやく、自分がパンを持っていることを思い出した。まだ一口しか齧っていないのに、なぜかお腹は満たされた感覚だった。だが無論そうとは言えず、黙ってもう一口齧った。さっき味わったばかりの味なのに、いまはなぜかその味がぼんやりとしていて判然としない。急に自分の五感が鈍くなったような気がした。その代わり、身体全身で、隣にいる彼女を感じようとしている。神経がすべて彼女に簒奪されているようだった。さっきから自分は何をやっているんだと心の中で舌打ちした。

 会話もそこそこに、二人は食事を済ませた。黙々と箸を動かす彼女は、嫌な顔をせず、時にこちらを見て微笑みかけてくれた。この空間を楽しんでくれているのだと信じたい。

「あの、ひとついいですか」

 勇気を出して尋ねてみた。さっきからどうしても気掛かりだったことがある。

「うん?」

「先輩はいつもここにいるんですか?」

 すると彼女は突然噴き出した。思ってもいなかった反応に藍田は些か困惑した。

「いやすまない。先輩とそう呼ばれることに何か違和感があってな」

「し、失礼でしたかね……すみません」

 ここで初めて藍田はさっきから自分の中で渦巻いていたひとつの正体に気付いた。どうやら、彼女の機嫌や態度をいちいち気にして言動をしているようだった。常に緊張しているのはその為だ。それは初対面や歳上だから、という理由だけではない。

「謝ることじゃないよ。私は藤崎千織。宜しくな」

「藤崎さん、ですかね」

 そのように呼べばいいのだろうか、という問いだった。

「まあ先輩よりかは有り難いかな」

 微笑みながら言ってくれた。藤崎の笑顔はあたかも魔法でもかけられているかのように、簡単に吸い寄せられてしまう。

 まさかたまたまの気紛れで訪れた場所でこんな出会いがあるとは思いもしなかったので、藍田はまだ混乱していた。梨乃ちゃん以外に他の女性と距離を縮めるつもりはなかったし、考えたこともない。だが実際、いま藤崎を目の前にして、自分は彼女に明らかに惹かれ、虜になりつつある自覚をいだいていた。その事実が致命的に藍田を動揺させた。喜びたい気持ちと、後ろめたい気持ちが混淆して自分を見失いつつあった。

「それで、その、ふじさきさんは、いつもここにいるんですか?」

 まだ彼女の名前を呼び慣れておらず、片言のような抑揚のない言い方になってしまった。

「まあ、たまにだよ。偶然今日は暇だったんだ」

「今日は?」

 藍田は藤崎の答えに引っ掛かった。つまり普段は暇ではないということなのか。

「いつもは仕事があるのでな」

「仕事って?」

「ああ、私は生徒会長を任されているんだ」

 思いもよらない回答だった。藍田はその言葉を反芻した。生徒会長――アニメや漫画でよくありがちな設定だという風に連想した。その単語を耳にしたことがある程度で、この高校生活で、いや自分の人生に於いて、そんなものとは無縁だと思っていた。もはや決めきっていた。

「やっぱり忙しいんですか」

 純粋に浮かんだ素朴な疑問だった。実際どんなことをしているのか全く予想できない藍田は上手く理解することができなかった。とある一室で書類の整理に追われているイメージがある。それも何らかの作品から培われた先入観でしかない。

「そこまで働いているわけじゃないさ。やり甲斐は感じているけれど」

「正直、ちょっとイメージがあまり湧かなくて」

 本音だった。実際はいったいどこで何をやっているのか詳しくは知らないし、気にしたこともないのが実情だった。

「そうだな。まあ簡単に言えば、学校の不備を発見して、改善できる方法を先生方に提案するのが我々の務め、と説明すれば良いだろうか。例えばロッカー」

「ロッカー?」

 生徒たちが登校してきた際、上履きに履き替える為の場所がある。そのことを指しているのだろう。

「ああ。あのロッカーも新しくした方が良いと我々が先生方に直談判し、それが認められたんだ。新調されているのはその為だよ」

 そういえば去年の夏休みが終わってから登校すると、錆びてすっかり古びたロッカーが、鍵付きの新しいものに変わっていたことを思い出した。自分の好きな番号を設定してクローズするだけでロックが掛かる簡単なものではあるが、それでも安心感はかなり違う。

「そうだったんですか」

「うん。まあ、そんな感じかな」

 藍田は藤崎がきょろきょろしながら校内を歩き回る姿を想像した。実際はそんなことはないのだろうが、彼女は些細な変化に配慮しながら巡察しているのかと考えると大変そうだな素直に感心した。自分は廊下を歩く時も何も気にしたことはないのに。

「それは凄いや。尊敬しちゃいます」

 藍田は何の衒いもなく言った。自分とはまた違う人種なんだと実感した気がした。

「大袈裟だな。しかし嬉しいよ、ありがとう」

「それこそ大袈裟です」

 謙遜したが、その仕草に藤崎は満足したのか歯を見せて笑ってくれた。

「それにしても、今日は天気が良いな」

「はい、僕もそう思います」

 だからこの場所で食事をしても悪くないかと思った。普段なら今頃、クラスメイトと駄弁っているか、もしくは昼寝をしているだろう。藍田にとって僅かだとしても睡眠時間は貴重だった。

「君は普段は何をしているんだ?」

「恥ずかしながら寝てますかね」

 少し考えてから、しかし他に上手い良い訳が思い浮かばず、結局苦笑混じりに白状した。

「そういうものだと思うよ。昼休みは短いようで長く感じる時もある」

「でも、藤崎さんはその間も何かやっている訳ですよね」

「私は自ら望んでやっていることだ。君とそんな大差はないよ」

 藤崎は藍田を一瞥した。その眼差しは何かを見透かしているような光がある。藍田は釈然としなかった。

「そう、でしょうか」

「そうさ。君は何かしていないのか? 部活とか」

「サッカー部です。サッカーをしています」

「ふむ、素晴らしいな。私はスポーツが苦手だ。部活も何も所属していない。所謂いわゆる帰宅部というやつだな」

「でもそれは、生徒会長だから」

「生徒会長でもクラブ活動はできるさ。他校では生徒会長と吹奏楽部での活動を両立している生徒もいると聞くよ。私の場合は、クラブよりも生徒会の任務に魅力を感じただけに過ぎない。内容はどうあれ、望んでやっているということに関しては君と同じだよ。ただそれに集中したいだけだ。それに、私だって休みの日は寝て過ごすことも多い。人間睡眠が大事だし、何よりも至福ではないか」

 藤崎の話は理解できる内容だった。藍田もできることならサッカーだけに集中していたい。更に上手くなりたいと思っているし、その為には練習が必要だ。授業を受けている時間すら惜しく感じるときだってある。だがそれとは裏腹に睡眠も大切にしたい気持ちもある。学校もサッカーも休みの日は、一日中家で寝て過ごす時だってある。睡眠は何よりも至福。確かにその通りかもしれない。

 だが、藤崎が授業中に机の上で寝る姿を想像しようとしたが、それは困難だった。彼女が教師の目も憚らず寝ているとは到底思えなかった。背筋を伸ばして、黒板の文字をきちんとノートに写す姿の方がしっくりきた。

「その通りですね。あんまり藤崎さんが寝ているところは想像できないですけど」

 藍田は微笑混じりに言った。

「おいおい、人を何だと思っている。私だってか弱い人間だよ。眠たくもなるし、お腹も空くさ」

 藤崎もまた微笑を浮かべながら答えた。藍田は彼女に対するある種の印象が芽生えていた。どこにいても冷静に対処するその立ち居振る舞いは優雅にして流麗。それこそ、アニメや漫画なんかに出て来そうな完璧な立ち回りを披露する彼女の姿が彼の頭の中ですでに根強いものになっていた。

「すいません。そりゃそうですよね」

 藍田はもう一度、今度は静かな笑い声を出して破顔した。冗談にも清々しく返してくれる藤崎は、藍田のことを悪く思っていないのかもしれない。それが彼の心を躍らせた。

「まったくだ。君は冗談が上手いな」

「それは、褒め言葉として捉えていいのでしょうか」

「そのつもりで言ったんだよ」

 藤崎は藍田を見つめて言った。どうやら虚偽でも揶揄でもないらしい。藍田は静かに頷いたが、鼓動が大きく高鳴っていた。

「ありがとうございます。藤崎さんと話をするのは楽しいです」

「私もだよ」

 本音であると信じたい。

 その時、藍田のポケットから振動が伝わった。たぶん梨乃ちゃんからの返信が到着したのだと直感した。いつもならいますぐ内容を確認したい衝動に駆られるのだが、今回彼はタイミングが悪いという感想を懐いた。その直後、なぜそんなことを思ってしまったのか違和感を覚えた。梨乃ちゃんに対していままでに感じ得なかった感情にの正体に内心で愕然とした。まさか自分が梨乃ちゃんに対してそんなことを思うなんて信じられなかった。

「どうした?」

 思案の渦に沈もうとしていた藍田を、藤崎の声によって現実に引き戻された。

「い、いえ」藍田は藤崎に視線を送った後、周りを見回した。すぐ側に時計台があり、誰に見られるとも知らず常に時間を報せている。その時刻は一ニ時四五分を過ぎようとしている。「ああ、もうすぐ昼休みも終わりますね」

 話を逸らす為に慌てて呟いた言葉は、しかしそれは違う意味を孕んでいることに、言い終えた直後に気付き、そして忽ちにひどい後悔に苛まれた。

「本当にあっという間だな」

 消え入りそうな儚い声は、誰に発したというものではないようだった。そこはかとなく寂しさのような漂っているような気がしたが、それは藍田が都合良く生み出した解釈なのかもしれない。

「す、すいません」

 なぜその言葉を口に出してしまったの彼自身にもかわからない。或いは他に気の利いた言葉が思い浮かばなかった。

 藍田は自分から別れを促すような言葉を発してしまったことに舌打ちしたい気分だった。しかし、実際昼休みが終わってしまうのは事実だった。後一〇分もすれば五限目が始まるチャイムが鳴ることだろう。いずれにせよ、延々とここに居るわけにはいかないのだ。

「なぜ謝る」藤崎は寂しそうに笑い、弁当箱を包んだランチマットを持って立ち上がった。「授業がある。仕方ないよ」

 藍田を見つめる彼女の眼差しから名残惜しさを感じた。しかし実際それを最も感じているのは藍田の方だった。共に過ごした時間は、僅かなものだったのかもしれない。けれど少なくとも藍田にとってもはやはかけがえのない価値あるものになっていた。だが藤崎が本当のところ何をどう思っているのかはわからない。すべては藍田の解釈によるものでしかない。

「そうですね」藍田も立ち上がった。「楽しかったです」

「私もだよ。では行くよ。また会おう」

「は、はい。是非とも」

 にこりと笑ったあと、藤崎は歩き去って行った。その背中を見ながら、本当にまた会えるだろうかと、それを実現させる為の根拠を懸命に探している自分がいた。明日もここに来れば良いだろうか。また会いたい、それがひとえの正直な気持ちだった。

 いつも待ち望んでいる最も愛している人からメッセージが来ていることを、藍田はこのときすっかり失念していた。


 4


 空は陽が傾きつつある。昼下がりになろうかという時間のなかで、学校はすでに五限目へ突入していた。

 この時間は英語の授業だった。藍田はどちらかと言えば英語は苦手ではなかったが、今日は黒板を直視することもなく、先生の話に耳を向けることもなく、半ば上の空になっていた。頭の中に藤崎千織のことが離れずにあった。愉しくもあり、だが後ろめたさのようなものも感じていた。自分には、梨乃ちゃんがいる。彼女のことが好き、それは変わらない。にも関わらず、彼は確かに藤崎のことを強く意識している自分がいることを正しく理解していた。はっきり芽生えた彼女への想いが藍田を複雑な気持ちにさせている。自分は梨乃ちゃんを裏切るような真似はしたくはない。最も愛している人、それは梨乃ちゃんに他ならない。それに変わりはない。けれど、所詮は不倫。清廉潔白とは程遠く、誰にも許されない過ち。なればこそ、自分にとって本当に正しいのは藤崎への想いに従うことのはずだ。そこまで了解しておきながら、彼はがえんずることができなかった。

「あーいーだーくんっ!」

 ぼんやり感慨に耽っていると、前から快活な声が水を差した。声の主は藍田にはすでに馴染みがあり知っている。

「何だよ葛城」

 葛城景子。ショートヘアの天真爛漫なキャラクターが持ち味の彼女。大きな瞳が愛嬌の良さを引き立てている。一年生の頃からのクラスメイトで他愛のない会話に花を咲かせることもしばしばあった。

「何ぼーっとしてんのさ」

 大きな瞳で覗き込むように、藍田の表情を窺ってきた。葛城はなぜかそういう些細なことによく察知しては気にかけてくる。迷惑だとは感じたことはない。声を掛けてくるだけで余計な詮索はしてこないからだ。

「色々あんだよ。後ろ向いてないで授業に集中しろよ」

「それ、藍田くんが言っても説得力がないよ」

 反論できなかった。その証拠に、机の上で開かれた藍田のノートは、そのまま放置されてまだ何も書き込まれていない。

「うるせえ」

 その代わりに苦し紛れの文句を呟いた。葛城は明るくお調子者ではあるが、不思議と口では勝てず憎めない人物だった。

「でも珍しいなあと思ったの。なんか気配がなかったんだもん」

「気配?」

「うんうん。雰囲気? よくわかんないけどノート書いてる感じも全然なかったし」

 葛城はこういう些細な変化によく勘が働く。確かに藍田がノートも取らず、ペンすら握らず無防備な状態を曝け出しているのはあまり見せたことがない姿だったかもしれない。

「心配すんな。何でもないさ」

「別に心配してるわけじゃないけどさ」

 それだけを言い残すと、葛城は前に向き直した。きっと、おそらく嘘だと思った。ただ心配していないにせよ、気掛かりなことになっていることには変わりないのだろう。藍田は内心でしっかりしろ、と気を取り直した。もやもやと悩んでいる場合ではないのだ。いまはとにかく授業に集中しなければ後々にテストに響く。

 彼はようやくペンを握り、黒板に書かれた英語の例文を書き写していった。


 それからはしっかり授業の内容を把握することができた。まだ胸の内にある蟠りが完全に消えたわけではないが、少なくとも自分らしさを取り戻すことはできた。葛城の一言に救われたのだと思う。感謝しなければいけないかもしれない。

 五限目が終わり、一〇分ほどの休憩時間を挟んでそのまま六限目へと突入していった。六限目はホームルームだった。どうやらこれから行われる学校行事について話し合うらしい。藍田にとっては興味のあるものではなかった。むしろ遠慮したいくらいの面持ちだった。

「来週、球技大会があるのをご存知ですね?」

 教壇に立つ先生が生徒たちを見回しながら言った。

 球技大会、その単語に藍田はうんざりしそうになった。なぜこの学校は体育祭――つまりは運動会――とは別に球技大会なるものも行おうとするのだろうか。スポーツの名門校というわけでもないのに。

 話の内容はそのチーム分けらしい。学年同士で争われるトーナメント式で優勝を目指そうということだった。今年の球技大会は男子はサッカーを、女子はバドミントンに決定した。去年は男女共にバレーだった。

 実はこのクラスにはサッカー部である生徒が藍田を含めて四人もいる。だから当然、彼らの出場は必要不可欠になっていた。

 しかし一口にサッカーとはいえ、十一対十一できっちりとした試合をするのではなく、一チーム五人ほどで行われるミニゲーム程度のものだった。一年生から三年生まで、すべてのクラスが学年毎に順番に行うので、一つのコートを丸々使用しての試合は終わるまでに控え目に算段しても数日は要してしまうだろう。

「こんなもん勝ったも同然じゃねえか」

 クラスメイトの男子が言い放った。ムードメーカーの大田だ。賑やかになるきっかけは必ずと言って良いほど、彼からの発言だ。それを皮切りに、彼に同調するような声が一気に教室を喧騒へと変えていく。

「藍田くん、頑張ってね!」

 前に座る葛城が、身体をこちらに向けてエールを送ってきた。

「ああ、頑張るよ」

「テンション低いなー。藍田くんお得意のサッカーなのに」

 無論ボールを蹴ることは楽しみでもある。やるからには勝つことを目指すつもりではあるし、むしろ現役のサッカー部を四人も率いて負けるなど許されはしない。それくらいの了解はしていた。だが、このまるでお祭りのような出来事は、正直言って苦手だった。

「藍田はこう言う奴なんよ、葛城」

 今度は藍田の隣に座る人物が話しかけてきた。河野春樹。さっぱりした髪型は爽やかで切れ長の目が特徴だった。彼も藍田と同じサッカー部だった。

「あはは、知ってる知ってる! 藍田くんっていつもこう、むすっとしてるよね。クールというかなんというか!」

「そうそう。藍田は喜怒哀楽もない冷たい奴なんだよ」

「お前ら俺に失礼だろ」

 本人を目の前にして良くもペラペラと喋れるものだ。葛城も河野も気を許せる藍田の友人で、彼は気を悪くしたわけではなかった。二人もそれをわかっていて敢えて軽口を叩いていることがわかる。これが彼らなりのコミュニケーションなのだ。

「細かいことは気にすんなよ藍田」

「そうだよ藍田くん」

 河野に葛城がここぞとばかりに同調してきた。全く調子の良い奴らだと藍田は笑みを溢した。

「弄ってもらえて嬉しいくせによ」

 河野が更に藍田を揶揄ってきた。

「何言ってやがる」

 否定こそしたが本当のところは図星だった。嬉しいという表現に納得はできないが、少なくとも彼らと話していて楽しいと感じる気持ちに偽りはない。ただ照れ臭さが肯定することを阻ませるのだ。しかし、藍田の表情を見て、河野は心の内を見透かしたように鼻で笑った。おそらく満更でもない表情をしてしまっていたのだろう。

「藍田くんは嘘つくの下手なんだから」

 葛城もまたバレバレだと言わんばかりの態度だった。

 実際、嘘をつくのは苦手だった。藍田自身それを実感している。誤魔化すことが下手くそだし、上手い言い訳もすぐに思い付けない。事実、彼は何も反論出来ず、遂には押し黙ってしまう有様だった。

「まあ、藍田は素直だよな。わかりやすいんだよ」

「あんまり褒められてる気がしないなあ」

 河野がどういう意図で発言したのか、藍田は訝しんだ。

「顔にすぐ出るってことだよ。なあ、葛城?」

 振られた葛城は「その通り!」と即座に首肯した。

 藍田の性格を、少なくともこの二人には、どうやら正しく理解されてしまっているようだった。これでは頻繁に弄ばれてしまうのも頷けてしまう。半分嬉しくもあり、悔しくもあった。簡単に言えば手懐けられているようなものではないか。

「参ったな」

 藍田はお手上げ状態だった。おそらく口で負かすのは不可能だろうと諦観を禁じ得なかった。

「悪い意味じゃないから気にすんなって」

「わかってるよ、さんきゅ」

 教室に私語が余りにも飛び交っていたので、それを鎮める先生の一声が降りた。その効果は覿面で、姦しい教室はすぐに静かになった。河野も葛城も仕方ないという風に前に向き直した。ホームルームとはいえ授業中に変わりはないのだ。

 チームは藍田や河野たちのサッカー部の四人と、残り一人を誰にするかという話が深刻化しそうになった。やはりサッカー部に囲まれて、一人だけ素人同然の者が加わるには抵抗があるのだろう。しかし、バスケットボール部である上田が中でも適任ではないかという話になり、彼がそれを承諾して間もなく決定した。おそらく最強の布陣ではないかと藍田は思った。上田がボールを蹴ったことがあるのかどうかはわからないが、動きはしなやかで申し分ない。バスケをしているということが証明になるだろう。更に体育での授業でもそれはすでに知り得ている。藍田たちに遜色ない動きを見せてくれるに違いない。勝てる、という自信だけがあった。球技大会を毛嫌いしていたが、参加するならばやはり、どうせなら勝ちたいという気分だった。

 ちなみに女子のバドミントンだが、葛城も参加するらしい。藍田は彼女に「頑張れよ」としっかりエールを送った。それに対して彼女は「ありがとう」と笑顔を返してくれた。やる気があるようで藍田は安堵した。葛城がどれだけ運動ができるのかわからないが、同じクラスでもあるし、是非とも健闘して欲しかった。男女共に好成績を残せれば気分が良いものになるのは間違いないだろう。


 授業を終える鐘が鳴り、放課後になった。緊縛されていたかのような硬い空気から解放され、瞬く間に校内全体に賑やかさが蘇った。走って急いで帰ろうとする者さえいた。そんなに焦って一体何が待ち受けているのだろうか。

 荷物を纏めて帰宅する準備をする者が多い中で、藍田は無論これから部活があるのでまだ帰ることはできない。

 机の中を一通り整理し終えようかというところで、葛城がこちらに振り向いて声をかけてきた。

「ねえねえ藍田くん」

 その声の響きに、藍田は幾許かの違和感を覚えた。いつもの快活さだったが、そこはかとなく深くて低いそれのような気がした。

「どうした?」

「あのさ、お昼休み何してたの?」

 思いもしなかった質問に、藍田は虚を突かれた。彼は逡巡しながらも応えることができなかった。昼休みは、生徒会長なる先輩の女性と食事をしながら談笑していた。しかし、それをどう答えれば良いのかわからなかった。何か上手い言い訳が、と考えていたところで、その思考自体に彼は僅かばかり愕然とした。なぜ言い訳をしなくてはならないのだろうか。特別に疚しいことは何もしていないのに、なぜ隠すような真似をしようとしているのだろう。

「いや、昼休みは――」

 二人の間に生じた僅かな沈黙は、葛城の猜疑心を煽るものだったに違いない。藍田は動揺していた。徐に訊かれたという事実そのものと、それに対して正直になれない自分自身に。

「誰かと一緒にいたの?」

 葛城は重ねて尋ねてきた。

 藍田は心臓が一瞬跳ねた。思わず、彼は葛城から目を逸らした。まるで見透かしているような口調だった。いや、藍田が勝手にそう解釈したに過ぎない。或いはどちらでも構わない。藍田が〝あの人〟と一緒にいたことが一体何の問題があるというのだ。

「まあそんなところだ」

 誤魔化しているのはわかっている。けれど嘘ではない。藍田はそう回答するのが精一杯だった。

「ふうん」

「な、なんだよ」

「ううん。いきなり変なこと訊いちゃってごめんね」

 葛城はにこりと微笑んだ。しかしいつもの明るさはないように感じた。おそらく言葉ではそう言いながら、実際は真意を気にしているのだろう。

「いや、別に構わないけれど」

 さらりと流した。早くこの話題を終えたかった。藍田にとってはそこはかとなく、心地の良いそれではなかった。

「部活頑張ってね!」

「お、おう。さんきゅな」

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