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牧師になった男

作者: 三坂淳一

『 牧師になった男 』


大学の同期に、牧師になった男がいる。


佐藤邦彦は(ばん)(えつ)(どう)を走る高速バスの車窓を流れる晩秋のうら悲しい風景を眺めながら、追憶に浸っていた。


工学部の大学院修士課程を修了した男だった。

金属材料工学専攻の修士課程を修了後、機械メーカーに入社して、研究所に配属された男で、同期の仲間からは堅実で地道な研究者になると思われた男だった。

真面目な男で、いつも相手を正面に見て誠実な口調で話す朴訥(ぼくとつ)な男であった。


佐藤の頬は(ゆる)み、軽く微笑(ほほえ)んでいた。


卒業後、二十年振りに開かれた同期会の一次会の夕食の席上、近況紹介ということで、出席者が一人ずつ立って、自分の近況を紹介する時間が(もう)けられた。

カラオケ主体の二次会を充実させたいと言う幹事の意向で、一人三分という時間が割り当てられてはいたが、四十代半ばの男たちは結構我儘(わがまま)で三分以内で終わる者はほとんど居らず、中には滔滔(とうとう)と十分近く話し続ける豪の者も居り、幹事泣かせの近況紹介となった。

その男の順番となり、その男がゆっくりと立ち上がり、今、牧師をしています、と言った時は皆が驚き、あっけにとられた。

俺たちは一様にびっくりして、彼の穏やかで柔和な顔をまじまじと見詰めた。

俺も一瞬、息を呑み、冗談はよせ、と思ったくらいだった。

中には、飲みかけていたビールのグラスを危うく落としそうになった者も居たくらいだ。

あっけにとられ、なぜだ、と思ったが、同時に俺は内心忸怩(じくじ)たるものも覚えた。

正直に言うと、彼の鮮やかな転身振りに羨望(せんぼう)の念を禁じ得なかったのだ。

四十台半ばという年齢を迎え、私たちはほとんど例外なく、企業戦士となっていた。

その後、かまびすしく喧伝(けんでん)された『バブル経済』も(はじ)ける一歩手前の時代で、俺たちは右肩上がりの経済的繁栄を享受していた。

『社用族』という言葉が流行していた時代でもあり、顧客を銀座で派手に接待していた時代でもあった。

俺も社用族の恩恵に預かった一人で、お客さんを銀座で接待したり、ゴルフで接待したりしたものだった。

会社の金で遊興しているという意識は無く、お客さんに使った金はその後の取引増でお釣りがくるだろうと思っていた。

今から考えると、無邪気なものだった。

その後、あっけなく、バブルが弾けるなんて思いもよらなかった。

今思えば、あの頃が日本経済の絶頂だったかも知れない。

今からは到底想像もできないが、日経平均株価も三万円という大台を越えていた時代であった。

少し、異常だとは感じていたが、会社で毎年強気の予算を見慣れている目には現在の繁栄はほぼ永遠に続くものだと信じていた。

借金も財産のひとつだ、有利子負債には目を(つぶ)り、設備投資をもっと積極的に進めろ、もっと金を遣え、積極予算を組め、(なん)だ、こんな弱気な予算を組みやがって、と役員たちが幹部社員を叱咤(しった)激励していた時代でもあった。

今から思えば、何ともはや、阿呆らしい時代だったが。

バブルが弾けて、会社が苦境に陥っても、社長はともかく、有利子負債を膨らませたという責任を取って辞める役員なぞ皆無だった。

苦境の時こそ、全社一丸となって立ち向かうべきだ、と舌の根も乾かぬ内にしゃあしゃあと言ってのける役員ばかりだった。


しかし、そのようなバブル経済時代という背景を横目に、牧師と言う考えられない転身を図った彼は繁栄を謳歌(おうか)する社会に背を向け、敢えて、ドロップアウトをした人種としか思えなかった反面、無謀な転身を図った彼に爽やかさを覚え、祝福と賛嘆の念を送りたいという気持ちに駆られていたのだった。

正直に言えば、俺は繁栄する社会に対して、幾ばくかの精神的な飢餓の念を感じていたのかも知れない。

管理職となって、風呂敷残業とやらで、毎晩書類を社宅に持ち帰り、女房、子供から文句を言われても黙々と仕事の続きを行なう俺にも、どうも、おかしい、まともじゃないぞ、その内、どんでん返しがくるぞ、お前はこのままでいいのか、もっと違う生き方もあるんじゃないか、という(ささや)き声が心の奥から聞こえてくることもあった。

その囁き声を悪魔の囁きとして、俺は完全に無視してはいたが、ひっそりと忍び寄る心の飢餓感からはついに解放されなかった。

少なくとも、彼は俺と違って、精神的な飢餓からは既に解放されているのかも知れない。

彼に対するその時の羨望の念はそんなところから発していたのかも知れない。

俺ばかりでなく、その場に居合わした仲間たちも皆、俺と似たような感情を抱いていたのだろう。

彼を見る目が変わっていた。

それは勇気ある撤退、転身を行なった者に対する畏敬の目であった。

しかし、同時に、彼の経済状態、つまり、懐具合を懸念する声もあがった。

牧師は薄給と聞いているが、生活は大丈夫なのか、という声が宴席の方々からあがった。

ご心配は無用だよ、収入に見合った暮らしをしているから、と彼は微笑みながら答えた。


佐藤は駅のキオスクで買ったお茶のペットボトルの栓を開け、一口飲みながら、ゆっくりと過去の記憶の糸を辿った。


五年毎に開かれていた同期会は、その後、参加者のほとんどが六十歳の還暦を迎えた頃から、毎年開かれることとなった。

生存確認の集まりだよ、感謝しろ、と幹事が笑いながら毎年開催ということに至った主旨を説明した。

同期は卒業当初は百二十人ほど居たが、還暦記念の同期会では既に五人ほど亡くなっていた。

その同期会では三十人ほど出席していたが、全員で献杯をして、故人の冥福を祈った。

愛される者ほど早く死んでいくんだよな、と誰かが呟いていた。

その後も毎年のようにご逝去連絡が会の冒頭で幹事からなされ、都度、献杯をして故人を偲ぶのが恒例となった。

でも、しめやかなのは初めの内だけであり、出席した全員による近況紹介の時は、立ち上がって話す者に対するちゃちゃが常に入り、座の雰囲気は賑やかなものになっていった。

退職して、趣味の土いじりを始めた、と語る者の話には全員が笑い転げた。

僕が土いじりを始めました、と言うと、怪訝そうな顔をする人が多い、中には、お盛んですね、とにやりと笑う人も居る、と話した。

俺たちは、何で、という顔をした。

その後の彼の話が面白かった。

僕は会津の出身でみんなも分かっているように、(なまり)が強い、それで僕としては、土いじり、と話したつもりでも、聴く相手には、乳いじり、と聞こえているらしい。

この落ちを聞いて、俺たちは笑い転げてしまったのだ。


牧師となったその男も俺もまめに出席していたが、話す機会はあまり無かった。

牧師さんと何を話したらいいか、俺には皆目見当がつかなかった。

同期会では、気心の知れた同じ研究室の仲間とばかり、話していたのだ。

違う研究室だった者とも話はしたが、どうも会話が長続きしない。

一般的な会話に飽き、席上、同じ研究室の仲間を探し出すこととなった。

同じ釜の飯を食った仲間との会話は楽しかった。

同期のエピソードだけでは無く、研究室の講師、助手或いは先輩、後輩のその後の話を聴くことも楽しかったのだ。

時には、少し辛い話も聞いた。

俺たちの卒論を指導してくれた助手が定年退職後間も無く、脳梗塞になり、今は自宅でリハビリに精を出しているとかいう切ない話もあった。

この助手は温厚な人であったが、みんなで金を出して買ってくるコーヒーに関しては結構喧(やかま)しい人であった。

とりわけ、キリマンジャロが好きな人で、キリマンジャロを買わずに、モカばかりを買って来ると、怒った。

真剣な顔をして怒った。

モカが入った袋を睨みつけるようにして、怒ったのだ。

キリマンジャロは味が独特で、かなり酸っぱい。

一方、モカは味がまろやかで、酸味と苦みというか、コクのバランスが良い。

研究室の学生の好みは圧倒的に、モカの方であった。

そして、モカの豆をコリコリと挽いて、サイフォンで上手に作っても、俺は飲まないよ、といつも意地を張り、そっぽを向くのだ。

これには、仲間も閉口して、再度、街に行き、身銭を切って、キリマンジャロをその人用に買って来る羽目となった。

キリマンジャロの袋を見て嬉しそうにニヤリと笑い、いそいそと豆を挽いてコーヒーをたっぷりと作り、おい、君たちも飲まないか、と俺たちに機嫌よく声をかけるのだった。

正月の年賀状をもらってさあ、宛名の字が少しのたくっていたよ、でも、一生懸命不自由な手で書いたんだろうな、と一人の仲間が語っていた。

普段は陽気な声で話す彼の声は随分と湿っていたのを思い出す。


久し振りに、同期会に出席した男が居た。

家電メーカーに就職した男で、中国駐在がとにかく長かった。

十年以上、中国に居たという話を聞いていた。

そして、三年ほど前から、同期会に出席するようになった。

ご無沙汰しておりました、漸く帰ってきました、と彼は近況紹介の中で話し始めた。

バイクに乗って、いろんなところを旅するのが好きな男で、中国勤務中も内陸の砂漠地帯を含め、各所をバイクに乗って旅をした。

日本では考えられない中国バイク旅でのエピソードをいろいろと紹介してくれた。

話の中で、中国ビジネスはなかなか苦労が多いんです、という話も出た。

行きはよいよい、帰りは怖い、だろう、というちゃちゃが早速入った。

中国ビジネスは参入するのは簡単だが、撤退する時はスムースには行かないという中国事情を知っている者からのちゃちゃだった。

話の腰を折られた彼は苦笑いをしながら、ビジネス撤退時も然ることながら、日常のビジネス順調時もなかなか大変なんです、と語った。

「やたら、飲み会が多いんだ。接待する方は大変だよ。そうした飲み会では、何回も乾杯をする。酒は度数の強い白酒(パイチュウ)という酒で、そう、茅台酒のような蒸留酒で小さなコップには注がれるものの、乾杯の都度、一気に全部呑み干さなければならない。度数五十%という酒を十杯も呑んでごらんよ。いい加減、べろべろになってしまうよ。でも、相手は平気なんだ」

みんなが、何で、という顔をした。

彼は笑いながら、言葉を続けた。

「平気なはずさ。だって、偉い人には必ず脇に、呑み役の人が付き添っているんだ。アルコールに強い呑み役が付いているんだよ。で、乾杯の都度、その呑み役の人がその偉い人に代わって酒を呑み干すという仕掛けになっているんだ。偉い人は平気でも、律儀に全部呑み干さなければならないこちらは堪ったものではないさ。二日酔いは常態で、時には、三日酔いになったことだったある。三日酔いなんて、酒の飲み方も知らなかった学生時代以来さ。俺は剣道部だったんだが、コンパがやたら多く、今じゃ考えられないが、一気飲みをよくやらされたものだ。でも、あの頃は一気飲みが当たり前の時代だったよな」

また、一同、爆笑する次第となった。


同期会と言えば・・・。

同期会に出席する人間のパターンは決まっている。

牧師になった彼は例外だが、多くの人間はある程度、功なり名を遂げていると自分では思っている人間ばかりだ。

俺とて例外では無く、現役の頃は、自分の肩書が刷られている名刺を渡し、相手の名刺で先ず確認するのは相手の現在の役職名である。

相手が自分の役職よりも上であれば、負けたと思い、自分の役職よりも下であれば、勝ったと思う。

名刺を確認する目は俗物根性丸出しとなる。

素早い眼差しで相手の名刺に記載された役職を確認するのが常だった。

役職には男の今の値打ちが明記されている、と思っていたからだ。

そして、仲間の役職を知り、思う存分、惨めな敗北感を味わった者は段々出席しなくなるものなのだ。

この点、女はこの種の勝利感、敗北感からは解放されているのかも知れない。

男の情けなさ、あるいは、くだらなさと言ってもいいかも知れない。

女の嫉妬は知らないが、男の嫉妬は激しく、陰湿で、そして、暗いものだ。

会社の同期入社の者に対する思いも決して単純では無い。

自分と同じように昇格、昇職していく者に対してのみ、同期入社の者同士の友情、親近感は維持されるが、自分以上に早く出世していく者に対しては、要領居士め、ごますり男め、と暗い嫉妬の念を抱き、出世の遅い者に対しては同情の念と共に、軽い軽侮(けいぶ)の念をも抱くものなのだ。

かくして、同期会に出席する者はいつしか、それなりに固定されていく。

建前はともかく、これが、本音、現実なのだ。

そのような中で、世俗的な欲求を離れ、一介の牧師として超然とした存在になった彼が同期会に出席してくれていることは一服の美味いお茶を喫しているような爽涼感を俺たち俗物に与えていることは確実であった。

同期会で彼の姿を見る度に、俺は爽やかな風を感じるのが常だった。


そして、今年の同期会は宮城県の白石(しろいし)蔵王(ざおう)にある(ひな)びた旅館で開かれることとなった。

俺は、住んでいる町から、高速バスに乗って、磐越道、東北自動車道を経由して仙台に行き、仙台駅から電車に乗って、白石蔵王駅に向かうこととしていた。


自宅を出る俺に向かって、女房が笑いながら、お土産は白松(しらまつ)最中(もなか)(ささ)蒲鉾(かまぼこ)でいいわよ、と言った。

笹蒲鉾は子供たちのところにも、宅急便で送ってあげてよ、と土産を追加された。

仙台と言えば、お土産の定番はやはり、白松が最中と笹蒲鉾となる。

学生の頃、少し(へそ)曲がりだった俺は仙台味噌を買って帰省したら、お袋から、お前は案外所帯じみているのね、と言われた。

お袋も白松が最中と笹蒲鉾あたりを期待していたのかも知れない。

重い味噌袋を提げて帰省した俺はお袋の失望混じりの声に、随分とがっかりした記憶がある。

その後は、帰省の際のお土産は白松が最中と笹蒲鉾になってしまった。

今は、仙台と言えば、牛タンが有名らしい。

俺が学生の頃は、そんなものは無かった。

第一、牛の舌を食うなんて、内臓のホルモンですら苦手な俺には到底耐え難いものだ。

学生だった頃の飲み屋での定番と言えば、梅割り焼酎とホルモン焼きだった。

ホルモンをくちゃくちゃと噛みながら、梅酒で割った甘酸っぱい焼酎を飲む。

焼酎のコップはやたら分厚い頑丈なガラスのコップで間違って床に落としても、ちょっ

とやそっとでは割れなかった。

金が無い学生が腹を満たし、手軽に酔っぱらうには最適の組み合わせだった。

ビールは贅沢品ということで、学生の身分では飲まなかった。

飲まなかったというよりは、高くて飲めなかったのだ。

『とりあえず、ビール』、なんてことは、あの当時はあり得なかった。

精々、日本酒の二級をコップで飲む程度だった。

あの頃の日本酒の二級と言えば、とても不味(まず)かった。

飲んだ後、ゲップした時の息の臭さも堪らなかった。

しかし、梅割り焼酎の次に安かったことは事実だ。

安かろう、悪かろう、の典型だと当時の俺は思っていた。

今は違う。

当時と比べ、今の日本酒は本当に旨くなったものだ。

比べものにならないほど、現在の日本酒はなべて美味くなっている。

酒造りの技術の進歩も然ることながら、不味いものは価格が安くても売れない、という

時代背景があることは確かだ。

ホルモン焼きも随分と安く、金が無い学生たちにはありがたい喰い物だった。

でも、俺はホルモン焼きが苦手で、喰った後は必ず、顎がズキズキとして、痛くなった

ものだった。

数年前、同じ研究室の仲間同士だけの懇親会が東京で開かれたことがあった。

三十数年振りに開かれた会合だった。

指導教授は退官後、高専の校長となったが、大分(だいぶ)昔に亡くなっていた。

旧制一高を出た人で、温和な感じの人だった。

会合には、当時、助教授だった人が出てくれた。

八十少し前の人だったが、血色も良く、頭の髪の毛もしっかりと残っていた。

手先が器用な人で、その時も俺たちの目の前で、双子鶴という連鶴を折って見せてくれ

た。

 懐かしい話はいろいろ出たが、当時の仙台はどうだったか、という話にどうしても行きつく。

 仙台駅は現代的な建築となった今と異なり、かなり貧弱な駅舎だったとか、駅裏は野原が広がっていたとか、笹蒲鉾はどこのメーカーのものが美味しかったとかいう話で場が盛り上がった。

 牛タンの話も出た。

俺が、牛タンが今は仙台の名物となっていますね、と訊ねると、名誉教授となっている

その人は苦笑しながら、昔はゲテモノ扱いで食べなかったものだが、と言っていた。

 私は食べないが、家内と娘が好きでよく食べています、私は今、肉食女子に囲まれているのですよ、困ったものです、と笑っていた。

 何が名物になるか、分かったものではない。

 

バスの左手に、吾妻(あづま)連峰が見えていた。

二千メートル級の山々が連なっているこの連峰は紅葉の名所でもある。

特に、浄土平と一切経山は有名で、何年か前、紅葉の頃、ドライブがてら観に行ったこともある。

一切経山には頂上まで続く木と砂利で造られた階段があり、頂上まで何とか登り、ぐるりと一周して戻ってきた。

疲れたが、頂上からの眺めは素晴らしく、爽快な気分を思う存分味わった。

バスの車窓から、さざ波のような峰々がまるで一幅の水墨画のように見えていた。

初冠雪はとうに過ぎ、峰々は既に白い雪で覆われていた。

空はかなり曇っており、厚く垂れこめた雲が雪の峰々を押さえつけているように思えた。

しかし、時々は、雲の切れ間から太陽が顔を(のぞ)かせ、その光を浴びた峰の雪が眩しく銀色の鋭い光を放っていた。

バスは東北道からふいにトンネルに入った。

長いトンネルを出ると、懐かしい広瀬通(ひろせどおり)が眼に入ってきた。

 広瀬通は銀杏(いちょう)並木で有名な通りだ。

 見事に色づいた銀杏が乗客の眼を楽しませてくれた。

 完璧な黄色となった黄葉を豪勢に茂らせる銀杏の樹もあれば、不完全な黄緑の葉を持つ銀杏の樹、まだ緑のままの葉を見せる銀杏の樹、それぞれの銀杏の樹が自己を強く主張していた。

 報道に依れば、中央分離帯の銀杏並木は渋滞混雑防止のための車線拡張とやらで、その内、切り倒される運命にあるとか。

 勿体ないような気分にさせられた。

 銀杏の樹と言えば、大火に悩まされた江戸では延焼防止のため、銀杏の植樹が推奨されたと聞いている。

 銀杏の葉は燃えにくく、密集して茂らせるため、延焼防止の効果が大きいということだった。

 そのため、今の東京では神宮外苑含め、銀杏並木を持つ通りがやたら目立っている。

 でも、黄葉して落ちた銀杏の葉っぱは実に厄介な代物となる。

 腐らずに、そのままの形で長く道端の大量のごみとなって存在し続ける。

 雨に濡れた銀杏葉は地面にしがみつき、掃き掃除を困難にする。

 掃き集めても処理に困る。

 燃やそうとしても、燃えにくく、ごみとしての減量が図れない。

 また、銀杏の実、銀杏(ぎんなん)も厄介な代物である。

 落ちた銀杏は実に不愉快な悪臭を放ち、通行人を不快にさせるものだ。

 俺は広瀬通の道端に落ちた銀杏葉の厚い黄金色をした絨毯を見詰めながら、銀杏という存在の功罪を思った。

 何事にも良いことばかりでは無く、悪いこともある、というのが本当のところだ。

 長生きだって、同じことだ。

 功罪が付き纏う。

 長生きは目出度いと思う反面、国として負担する医療費、年金の増大のことを思えば、憂鬱な気分にさせられるというのも事実であろう。

 いつの間にか、高齢者の仲間入りをしてしまった自分という存在を常に意識するようになった。

 のうのうと老いたわけでは無いのだが。

 月日は人の心を知らず、のほほんとした顔で後方に過ぎ去っていくばかりだ。

 日々はひっそりと、しかし、素早く過ぎ去っていく。

 長い一日もあり、短い一日もあるが、生きて呼吸をしている分だけ、確実に過ぎ去っていく。


 バスは銀杏並木の広瀬通を過ぎて、仙台駅の東口にあるバス・ターミナルに入って停車した。

 仙台駅の東口と言えば、昔は閑散とした風景が広がる駅裏であり、言葉は悪いが、場末という感じだった。

 今は、高級マンション、高層ホテル、商業設備が建ち並ぶ賑やかなところとなっている。

 

 仙台駅の地下にあるレストランで昼食を摂って、白石蔵王駅に向かう電車に乗った。


秋もそろそろ終わりの頃で、木々の葉が色づき、まさに錦織りなすと表現しても良さそうな快い風景が車窓の視界全体に広がっていた。

紅葉の季節は良い。

華やかさと侘しさ、哀しさといったものが混在している眺めは人に安らぎを与えると共に、一抹の緊張感をも与える。

俺はその複雑な感覚を味わっていた。

でも、その複雑な感覚は、けっして悪い感覚では無かった。


車窓からの風景を見ながら、佐藤はある感慨に耽っていた。


()(めく)りの暦を逆に捲り、過去の自分に(さかのぼ)っていく。

同期会への小旅行の都度、そんな感慨に毎回囚(とら)われるのだった。

一日単位では無く、月単位でも無く、概ね、年単位という雑駁(ざっぱく)な捲りではあったが、会場に向かう電車或いはバスの中で、俺は心の中で逆日捲りをしていた。

「僕はねえ、同期会に来る前に、逆日捲りをして、昔の自分に戻ることにしているんだ」

同期会の席上、隣に座った仲間の一人に、そんなことを言ったら、彼は俺を冷やかして言った。

「じゃあ、同期会からの帰りでは、その日捲りを大急ぎで捲りなおさないといけないよ。

そうしないと、今の日常とずれてしまい、家族から奇異な目で見られてしまうぞ。立派な年寄が二十歳の若者の気分になったら、あかんのよ。年寄は年寄らしく、だよ」

そう言われ、俺は苦笑せざるを得なかった。


右手に、蔵王連峰が海の大きなうねりのように、波打って見えていた。

所々に、雪を戴いた峰々も見えていた。

時々、雲の切れ間から顔を覗かせる陽の光を浴びて、キラキラと鮮やかな輝きを放っていた。


白石蔵王駅は白色を基調とした小奇麗な感じの駅で遠くに宮城蔵王の峰々が見えていた。

麓の木々はほとんど赤茶けた色をしていた。

空は少し、晴れてきたようだった。

佐藤は駅からタクシーに乗って、その旅館に向かった。

タクシーの運転手は陽気な(たち)らしく、ここいらへんの紅葉は今が盛りですよ、良い時期に来られましたなあ、ホラ、あそこの山の中腹あたりをご覧なさい、色具合が何とも言えず素晴らしいでしょう、などと盛んに話しかけ、旅館に着くまでずっと喋っていた。

東北の人間は朴訥で無口だという評判が一般的にはあるが、中には、とんでもなくお喋りの人間も居る。

佐藤が乗ったタクシーの運転手がまさにそうだった。

宿に着いた佐藤はチェックインを済ませ、増改築で継ぎ足されて迷路のようになった通路を案内されるままに部屋に入り、片隅に荷物を置いた。

大きなガラス窓の向こうには紅葉に色づいた崖と水飛沫をあげて流れる小川が見えていた。

但し、所々に東日本大震災時の地震で崩れた箇所も見受けられた。

その崖崩れが発生した処には樹木が無く、僅かに雑草が生えているだけであった。

無残な光景と言えた。

部屋まで案内した宿の人は、下に露天風呂があります、良ければ入られたら、と窓際に立ち尽くして呆然と窓の外の風景に目を取られている佐藤に勧めた。

佐藤は少し躊躇(ためら)ったが、同期会が開かれる時間までにはかなり時間があったので、露天風呂にでも浸かって、時間を潰そうと思った。

迷路のような廊下を暫く歩き、風呂場に辿り着いた。

風呂場の硝子戸を開けた瞬間、微かな硫黄泉のにおいがした。

露天風呂は屋内の大きな風呂場の外にあった。

風呂場でざっと汗を流してから、湯気で曇った硝子戸を開け、外の露天風呂に向かった。

四畳半ほどの小さな露天風呂であったが、ふんわりと湯気が立ち上がり、その湯気の向こうに先客がいた。

丸っこい禿げた頭がお湯の上にぽっかりと浮き、こちらを見ていた。

何だか、お地蔵様に見られているような気がした。


そのお地蔵様は突然話しかけてきた。

「佐藤くん、お久し振り」

佐藤に話しかけてきたお地蔵様は実は、牧師様だった。

「ああ、矢部くん、か。早く着いたのかい」

「うん、三十分ほど前に着いた。で、暇だから、今、風呂に浸かっている」

佐藤もお湯に浸かり、手足を伸ばした。

心地よさが佐藤の全身を柔らかく包んだ。

お湯の温度は少し(ぬる)めに感じた。

「湯温、少し温めだね」

「そう、思うかい。でも、じっくりと長く浸かるには、丁度よい湯温だと思うよ」

佐藤の目の前に、モミジの葉が落ちてきた。

見事に紅く染まったモミジの葉っぱで、お湯の上にゆらゆらと浮いた。

ふと見上げると、露天風呂から少し離れたところにモミジの樹があった。

空はよく晴れていた。

刷毛(はけ)で薄く掃いたような雲がゆっくりと流れていた。

でも、季節は既に晩秋で西の空は(くれない)に染まり始めていた。

山々も大分暗さを増してきたようだった。

時々、遠慮がちに啼く小鳥のさえずりが静けさを乱していた。


「秋もそろそろ、終わりかな」

矢部が呟くように言った。

「終わりだよ。モミジも紅く染まって、散り始めているし。熟年の俺たちと同じだ。晩秋は晩年に通じている」

佐藤の言葉に笑いながら、矢部は周囲を見渡した。

風にモミジの葉が揺れていた。

「佐藤くんは、確か、地元のいわき市に住んでいたよなあ。今の暮らしはどうだい」

「まあ、夫婦二人で、のんびりと暮らしているよ。矢部くんような現役でも無いし」

「いや、僕もそろそろ現役を退こうとおもっているよ」

「でも、牧師に定年は無いんだろう」

「無さそうでも、実際はあるんだよ。牧師であることに疲れを感じたら、その時が定年だよ」

「すると、疲れを感じているのかい」

「いや、まだ、疲れは感じていないけれど。まあ、ぼちぼちといったところかなあ」

矢部はそう言って、柔和な笑みを浮かべた。

その後、暫くお互いの近況を語り合った。

矢部の教会は東日本大震災で倒壊の憂き目に遭ったらしい。

「で、今はどうなの」

佐藤の問いかけに矢部は柔和な笑みを浮かべて言った。

「何とか、信者からの寄付とか、上部組織からの助成金を戴いて、つい数ヶ月前に新築落成したよ」

「それは何より。良かったねえ」

「いろいろと心配してくれていた仲間も居てね。実は、今日、落成したばかりの教会の写真を持ってきたんだ。皆に見せて、安心してもらおうと思ってね」

そして、にやりと笑いながら付け加えた。

 「でも、別に、皆さんから寄付を仰ぐつもりは無いけどね」

 「富者の万灯より、貧者の一灯、という言葉もある。僕から幹事の方に話しておくよ」

教会の新築に当たっては、いろいろと苦労したらしい。

寄付集めでいろんなところを回り、頭も随分と下げたらしい。

 佐藤は矢部が話すさりげないエピソードの中に落成に漕ぎつけるまでの苦労を感じた。

 疲れてはいないと言ってはいたが、矢部の側頭部の髪はすっかり白くなっていた。


 佐藤は思っていた。

 矢部に是非訊ねてみたいことがあったのだ。

 過去、同期会の席上、誰かが矢部に訊ねたことがあったと思うが、座っている場所が遠く、その時はよく聴き取れなかったことだった。

 今がいい機会だと思った。

 それで、思いきって訊ねることとした。

 「矢部くん。ひとつ、訊いていいかい」

 矢部はすこし怪訝(けげん)そうな表情をしたが、いいよ、とばかり微笑んだ。

 「不躾(ぶしつけ)な質問で恐縮なんだが、君は、どうして、牧師になったんだい。前から訊こうとは思っていたんだが、どうも、いつも訊きそびれていたんだ。差支えなかったら、訳を聴かせてくれないか。金属材料学を学んだお堅い修士様が牧師様になったいきさつを前から知りたいと思っていたんだ」

 穏やかに微笑んでいた矢部の顔にすこし緊張が走ったように思えた。

 矢部は伏し目加減になった。

 暫く、(うつむ)いて湯面を見ていたが、ゆっくりと顔を上げ、佐藤の眼をじっと見詰めながら、矢部は語り始めた。

 「僕の故郷は青森なんだ。福島と違って、男女共学になるのが、随分と早くてね。高校の後輩で近所に住む女の子が、僕が二年の頃、新入生として大学に入学してきた」

 矢部の眼は遠い昔を懐かしむような眼になっていた。


 矢部の脳裏には冬の帰郷で見た故郷の風景が映っていた。

 青森駅にはいつも、夜、着いた。

 そして、いつも、寒かった。

 帰省しますと告げ、気を付けてお帰りと言う下宿のおばさんの声に送られて、門を出る。

 小さなボストンバッグをぶら下げて、駅に向かう。

 吐く息のあまりの白さに驚き、首に巻き付けたマフラーに埋もれるようにして歩く。

 夕方、青森行きの列車に乗り込む。

 懐かしい方言を話す人々の中に(まぎ)れ込む。

 車窓から過ぎ去っていく風景を見詰める。

 紅色に染まった夕陽が西の空を照らしている。

 山々が黒く沈んでいく。

 盛岡を過ぎた辺りから、窓の外の風景が変わってくる。

 段々と、白くなっていく。

 青森は雪の中にある。

 窓ガラスが曇り、指で曇りを拭う。

 曇りは露となり、指を濡らす。

 拭ったガラスの向こうに、雪が流れていく。

 流れて過ぎ去る雪がほぼ窓ガラスの全面を覆う頃、列車は青森駅に着く。

 帰郷はいつも、夜で寒かった。

 いつも、降りたくない気にさせられた。

 『北帰(ほっき)(こう)』という唄がふと、脳裏に(よぎ)る。

 冬の帰郷はいつも『北帰行』そのものだった。

 

 「高校の頃はお下げ髪で可愛い女の子だった。東大の入試が大学のごたごたで中止に追い込まれた年度で、地方大学の入試が例年より厳しくなったと言われた年度にその女の子は入学してきた」

 佐藤の脳裏に、当時の光景が(よみがえ)ってきた。

 入学後、全ての二年生までが通う教養部はバリケードで全面封鎖され、中核派、革マル派、反帝学評などのセクトの旗が校舎の屋上に翻っていた。

 アジ演説が大きなスピーカーから常時流れ、ゲバ棒を持ったセクトのデモ隊が校内を闊歩(かっぽ)していた。

異常な光景では無く、それが当時の日常的な光景、風景だった。

 教養部自治会は教養部全体集会の後、決議に基づき、授業ボイコット・無期限ストに突入していた

 当然、授業は一切開かれず、佐藤たちは個人個人、思い思いの時間を過ごしていた。

 暇を持て余して郷里に帰る者も居たし、旅行に出る者も居た。

 佐藤は一冊の文庫本と煙草を持って、喫茶店に行き、コーヒー一杯で数時間ほど過ごすという習慣が付いた。


 「教養部の構内で遭うと、先輩、と僕のことを呼んでいつも駆けるように近づいてきたものだった。高校では生物クラブに所属していて、先輩・後輩の仲だったんだよ」

 矢部の口元に微笑が浮かんだ。

 「すこし、照れくさかったが、でも、悪い気はしなくてね。苦笑いしながら、一緒に歩いたものだった。可愛い女の子だったんだ」

 矢部は更に続けた。

 「時々は、街も一緒に歩き、バロック喫茶の『無伴奏』とか、『フランシーヌ』といった洒落(しゃれ)た喫茶店にも彼女を連れて行った。彼女、結構喜んでいたよ」

 矢部の口から出た『無伴奏』とか『フランシーヌ』という喫茶店は佐藤にとっても懐かしい名前だった。

 『フランシーヌ』という名前はベトナム戦争に抗議して焼身自殺したフランスの女子学生の名前だった。

 彼女の名前は新谷(しんたに)のり子という歌手が歌った『フランシーヌの場合』という歌で有名になった。

 金持ちを親に持つ学生が大学本部に近いところにその喫茶店を開いていた。

 金は無いが、バリケード封鎖された校舎での授業は無く、若さと時間だけはうんざりするほどたっぷりある学生たちの溜まり場となっていた。

 金は払わない。

 第一、店主が誰なのか、それすら、分からなかった。

 カウンターの片隅にガラス瓶があり、その中に金を払っていく者もいたが、極めて少数だった。

 勝手に店に入り、自分でコーヒーを()れ、仲間と語らって、飽きたら店を出ていく。

 いつも混んでいたが、デモが無い時だけは()いていた。

 そんな喫茶店だった。

 でも、いつの間にか、閉店という貼り紙が貼られ、無料(ただ)でコーヒーが飲める喫茶店が無くなってしまったと、がっかりした記憶だけは残っている。

 『若いという字は苦しい字に似てるわ』

 題名は忘れてしまったが、そんな歌詞の歌が流行った時代でもあった。


 「そうかと言って、恋仲になるとかいったことは無かった。小・中・高とずっと一緒で家も近かった彼女は言わば、僕の妹分といった存在で、恋愛感情が割り込む存在では無かったんだ」

 矢部の表情が少し曇った。

 「でも、彼女はどうだったんだろう。僕に恋愛感情を抱いていたのか、単なる兄貴分として敬愛の情を持っていただけなのか。その当時は、分からなかった。・・・、今も分からないが」

 風が少し吹いてきた。

冷たい風だった。

 風の冷気にあたり、矢部の顔が少し青褪(あおざ)めたように思われた。

 「その内、彼女は学生運動に加わるようになってね」

 「全共闘かい」

 「うん、そうだよ。全共闘が教養部の自治会を握り、彼女は自治会の学級委員となったんだ。ならせられたのか、自ら進んでなったのか、分からないけれど」

 「あの頃は、党派には属しないが活動には参加するノンセクト・ラジカルという学生が多かった。彼女もその一人になったのかい」

 「党派に属していたのか、ノンセクトだったのか、僕も知らないけれど、自治会活動に熱心に取り組んでいたのは確かだった。でも、彼女は相変わらず僕を兄貴分と慕ってくれてはいたんだ。いろんなことでよく、相談されたよ。仲間との思想の違いとか、人間関係の問題とか、親との関係とか、男友達との関係とか。僕にとっては、かなり鬱陶しい内容もあったけど、僕は妹みたいな存在だった彼女に弱くてね、真剣に彼女の話を聴き、アドバイスできるところはしたものさ」

 そう言った後で、矢部は少し黙り込んだ。


 全共闘、か。

 佐藤はぼんやりとあの頃を思った。

 友達に、全共闘の活動家が居た。

 がっちりした体格で背が高く、いつも、デモ隊の先頭に立たせられていた。

 デモ隊の先頭は機動隊に捕まる確率が高い。

 国際反戦デーのデモで彼は公務執行妨害で逮捕された。

 二週間ほど、警察の留置場で過ごした。

 起訴保留で釈放された後、彼は銭湯に入り、近くの大衆食堂でカツ丼を食べた。

 よほど、カツ丼が食べたかったらしい。

 その時のカツ丼が旨すぎて、彼は食べながら泣いた。

 本当に美味かったんだ、思わず、俺は泣いたよ、と佐藤に語った。

 そんなカツ丼、俺も喰ってみたかったな、とその時、佐藤は思った。

 彼はその後、全共闘の活動から徐々に身を引いていった。

 学部を卒業し、大手メーカーに就職して、俺の前から姿を消していった。

 その後の彼がどうなったか、俺は知らない。

 俺たち同様、還暦をとうに過ぎ、孫の世話をする好々(こうこうや)になっているのかも知れない。

 時には、カツ丼を食っているかも知れない。

 食うたびに、あの当時のことを思っているのか、既に忘れ去っているのか。

 青春の残照として、まだ覚えているのか。

 確かめたい気がした。

 

 「彼女が僕の下宿に訪ねてきたことがある。その日、僕は家庭教師のアルバイトがあり、下宿を不在にしていた。夜、下宿に帰ってから、下宿のおばさんに彼女が訪ねてきたことを知った。彼女は随分と長いこと、僕の帰りを待っていた、とおばさんは言っていた」

 矢部は少し、憂鬱そうな顔をした。

 「僕が三年の頃だ。佐藤くんもそうだけれど、教養部を終えて学部に入った三年の頃は一番忙しい頃だ。勉強も然ることながら、卒論の準備にも取り掛かる頃だし、僕も卒論の実験の準備などで結構忙しい毎日を送っていた。彼女は悩んでいたと思う。当時、関わっていた全共闘という学生活動か、恋愛関係にあった活動家の男子学生か、本当のところは知るよしもないが、途方に暮れ、一人で悩んでいたことだけは間違いない。そして、僕にその悩みを打ち明け、相談したかったのかも知れない。或いは、郷里の先輩としてアドバイスを求めていたのかも知れない。しかし、その当時の僕には人の悩みを聴き、共に解決策を模索するという心の余裕が全く無かった。僕は僕で人には言えぬ悩みを抱えていた。

それは、両親の離婚といった問題だった。親父は東京の本社勤務となり、単身赴任といった事態が長く続いていた。そこで、女を作っていた。お袋はそのことを知り、ヒステリー状態となり、離婚と言う言葉を口走るようになっていた。親父、お袋共、僕にそのことを打ち明け、離婚してもいいかどうか、僕に相談してきた。そんなことを息子に相談するなんて。息子としてはどうしようもない。滑稽でもあり、悲劇的でもあった。そんな悩みを抱えている僕に、彼女の悩みを聴いて寄り添ってやる心のゆとりなんか少しも無かったのだ。僕は無意識に、近づいてくる彼女を遠ざけていた。いらいらしている心の中に、土足でずかずかと歩み寄ってくる彼女が何だか疫病(やくびょう)(がみ)のようにも思えた。僕は知らず知らず、というか、半ば意識して、彼女に冷淡な態度を取るようにしていたのかも知れない」

 

矢部は淡々と語った。

 矢部の話を聴きながら、佐藤は思った。

 その頃、俺はどのように暮らしていたのだろうか。

 青春、と言えば、俺も間違いなく青春の()只中(ただなか)に居た。

 学部にあがる前の一、二年生は教養部で二年間を過ごす。

 今はもう、教養部という制度は無くなったが、旧制高校のような制度だった。

 工学部でも教養部のカリキュラムには哲学の講座もあれば、法学、倫理学といった講座もあり、語学も第二外国語までが必修講座となっていた。

 フランス語も選択することができたが、工学部の多くの学生はドイツ語を選択していた。

 学部にあがるまでのモラトリアムとして、この教養部があった。

 受験戦争後に得られた自由な二年間だった。

 教養部には数多くのサークルがあった。

 俺は『革命的詩人同盟』というサークルに入った。

 詩人は英語では、ポエットであり、俺たちは自分たちのサークルを『革ポ同』と略して呼んでいた。

 下手な詩を書き、ガリ版で文集を作り、教養部の構内で売り歩いた。

 売れ残った文集は、街に出て、通行人に押し付けて、半ば強制的に受け取ってもらった。

 サークルの名前に革命的という言葉は使っていたが、別に、革命的な思想なんか持ち合わせていない者ばかりだった。

 その頃の風潮で、革命的という言葉がカッコいいと思って、誰かが付けた名前だった。

 ノンセクト・ラジカルとして、全共闘運動に加わることも無く、思想的には、ノンポリ学生そのものだった。

 コンパと称して、月に一度は、安い飲み屋で酒を飲み、翌日は必ず二日酔いになった。

 俺たちはただ、自分が信じる言葉で、信じられる言葉を書きつらね、胸の中に溜まった鬱屈した思いを表現したかっただけだ。

 サークルに女子学生は居らず、長髪で汚い恰好をした似た者同士が自然発生的に集まっていただけだった。

 当時、同棲ということが若者たちの間で社会現象化していた。

 『同棲時代』という漫画と『神田川』、『赤ちょうちん』という四畳半フォークに誘われて、ブームとなっていた。

 同じサークルの仲間にも同棲している男が居た。

 だが、同棲しているなんて、俺は知らなかった。

或る日の午後、暫く振りに、その男のアパートを訪ねたことがあった。

 ドアをノックしても反応が無かった。

 おい、俺だよ、佐藤だよ、と言いながら、再度、ノックしたら、中から返事があり、ドアが開いた。

 ドアの隙間から、部屋の中が見渡せた。

 真ん中に炬燵があり、その向こうに、布団が敷いてあった。

 その男は曖昧な微笑を浮かべつつ、俺を見た。

 いつもなら、入れよ、と俺に声をかける男がじっと気まずそうな顔をして俺を見ていた。

 ふと、布団の掛け布団が微かに動いた。

 誰かが蒲団の中に居る、と俺は直感した。

 男ならば、布団に潜る必要は無い。

 俺は、別に用事は無いんだ、ちょっと、立ち寄っただけだ、と言って、そこを去った。

 その後、サークルの仲間の一人から、彼は今、一つ下の女の子と同棲しているんだよ、ということを聴いた。

 その仲間は少し羨ましそうな顔をしていた。

 俺は、やっぱりな、という顔をして聴いた。

 俺はその後も、とりたてて変化の無い日々を過ごして、三年生になり、学部にあがった。

 研究室に入り、授業と卒論に明け暮れる毎日となった。

 学部を卒業し、大学院の修士課程を修了して、製造メーカーに入って、社会人となった。

 学部と比べ、教養部の二年間は空疎であり、充実して、満ち足りた日なんて、一日も無かった。

 俺はただ、何事にも苛苛していた。

 しかし、今から思うと、苛苛していた頃が俺の青春そのものだったかも知れない。

 あの空虚で馬鹿々々しく、だらだらと暮らした二年間が。

 本当は、何ものにも代えがたい二年間だったのでは無かったのか。

壮大な、人生で二度と味わえない、モラトリアムの二年間。

 ふいに、何とも言えない苦さが胃の底から込み上げてきた。

 俺には俺の青春があったが。

矢部の青春はこんな青春だったのか。

 

 矢部が呟くように言った。

 「夏の終わりに彼女が死んだ。市内を流れる川の岸辺で彼女は死んだ。睡眠薬を大量に飲んで」

 矢部はそう言って、黙り込んだ。


 矢部は思っていた。

 俺はいつしか日記をつけるようになった。

 言葉、そのものの持つ呪術のようなものを信じるようになっていたのかも知れない。

 深夜、引き出しの中から日記を取り出し、机の上に置き、その日にあった出来事を綴る。

 俺の思念から静かに紡ぎ出された言葉の数々が紙面を埋めていく時、何ものにも束縛されていない自分自身を見出すことは大きな喜びであった。

 俺は俺以外の何ものでも無く、今、ここに紛れも無い自分が居て、誰にも読まれることのない日記に紡ぎ出された言葉を綴っている。

 理解されることも無く死んだ女と、さしたる目標も無く生きている自分が日記の中で会話することもあった。

 彼女は俺に語りかけ、俺は彼女に今のありのままの自分を語る。

 ふと、窓の外を見ると、深い闇に包まれた風景がある。

 勿論、見えやしない。

 けれど、見えやしない風景は俺に想像力を掻き立てる。

 彼女が最期に見た風景はどんな風景だったのだろう。


 俺は彼女同様、自殺を考えた。

 当時の下宿の近くに、まさにお(あつら)え向きの自殺の名所があった。

 二つの山を結ぶ橋があり、橋の下は深い渓谷となっていた。

 そこから落ちたら、助からない。

 新聞にはあまり載らなかったが、毎年五、六人以上は飛び降り自殺をしていると言われていた橋だった。

 とにかく、彼女に死なれて精神的にどん底状態にあった俺はそこで自分の生を閉じてしまおうと真剣に思っていたのだ。


 月の明るい夜だった。

 冬の月は蒼白い。

 銀の月だった。

 俺は寒々とした月に照らされながら、その橋に向かって歩いていた。

 死のう、と思っていた。

 彼女に対する罪悪感に(さいな)まされて、このまま生きるよりは死んだ方がましだと思っていた。


 目の前を白いものがかすめて落ちていった。

黒く澱んだ空から落ちてきたのは白い雪だった。

 ひらひらと舞い降りてきた雪は俺の掌で融け、小さな水の粒となった。

 その時、俺の心の中に言いようのない悲しみが生まれた。


 俺の目の前を粉雪が舞っていた。

 月の光に照らされて、きらきらと輝いていた。

 それは、いわゆるダイヤモンドダストと呼ばれる現象で、雪の結晶が外気の冷たさで融けずに風に舞い飛ぶ現象だった。

 きらきらと輝き、閃きながら俺の目の前をさぁーと飛び去っていく。

 美しい眺めだった。

 風が吹いて、融けずに残った地面の雪を舞い上がらせ、ダイヤモンドダストの吹雪となったのだ。

 雪の結晶が月の光に照らされて、ダイヤモンドの切片となって空中を舞うように飛んでいく。

 まことに美しい光景だった。

 俺は人生の中でも稀にしか見ることのできないこの光景を飽かず眺めていた。

 あまりにも美しい光景の中では、人は死ねないものだ。

 結局、俺は死ねなかった。

 死ぬことができなかった。


 長い沈黙の後で、矢部はまた静かに語り始めた。

 「大学を卒業し、二年間の修士課程も終えて、僕は大手メーカーに入り、研究者となった。研究テーマを与えられ、会社の同僚と研究成果を競う合うという職場環境は結構楽しいものだった。五年ほど、自分が置かれている環境、境遇に満足し、好調な日本経済の中の一会社人として没頭し、働いた。でも、三十歳を迎えようとした時、僕の心境に或る変化が訪れた。ふいに、彼女のことが思い出されたのだ。数年忘れていた分だけ、激しく思い出すようになった」


 三十歳の頃、か。

 佐藤は心の中で呟いていた。

 俺たちは右肩上がりの経済、繁栄する社会の中で、いつしか大学時代に抱いた鬱陶しさなんて、徐々に無くしていき、企業戦士として会社に埋没していった。

 結婚し、初めての子供が生まれた頃だ。

 密集する社宅の中で、子供の泣き声を気にしながら、精一杯生きていた頃だ。

 順調に行けば、あと数年で管理職の一員となる。

 今が重要な時だ、精一杯働き、勤務査定を良くしなければならない。

 頑張れ、ここ数年が頑張り時だ。

 俺はそう思い、矢部のように悩むことも無く、日々の暮らしにただ追われていた。


 矢部が少し微笑んだ。

 「佐藤くん。君は、救われたという経験を持っているかい」

 「え、今、君は。救われたという言葉を使ったのかい」

 佐藤は矢部の顔を見た。

一瞬、冗談か、と思ったのだ。

 しかし、矢部は、そうだよ、という眼をしていた。

 救われた、という経験か。

 佐藤は戸惑っていた。

 救われた、という経験があるかどうか。

 佐藤は矢部に訊ねられていた。

 答えられなかった。

 むしろ、救われなかったという経験ならば、佐藤は即座に答えられただろう。

 ああ、何回もあるよ、と。

 片恋に終わった初恋もそうだったし、学力不足で第一志望の学部の受験を諦めた時も努力が報われなかったと思ったし、このままでは到底救われない、と思ったものだ。

 しかし、その反面、死ぬほどの努力もしなかったのというのも事実としてあった。

 何だか、中途半端ばっかりだったな、と思った。

 救われたいという瀬戸際まで、これまで行ったことは無かった、と佐藤は思っていたのだ。

 そんな経験は今までに無かったよ、という表情をしていたのだろうか。

 矢部は黙ったまま、じっと佐藤を見詰めていた。

 

 「さあ、僕には。救われたと意識した経験はこれまで無いなあ。今まで、そんな思いを

 した記憶は無い」

 「そうだろうなあ。僕もあの時まで、救われたなどと大袈裟な言葉で語れるような経験など一切無かった。しかし、あの時、僕は確かにそう思ったし、今でも、そう思っているんだ」


 矢部はぽつぽつと語り始めた。

 「丁度、三十歳を迎えた頃だった。会社にも慣れ、技術者というか、研究者というか、とにかく一人前になり始めた頃だった。ふと、死んだ彼女との思い出が蘇ってきたんだ。それまで、決して忘れていたわけでは無かったんだが、思い出しては忘れる、また、急に思い出しては忘れる、という繰り返しだったんだが、その時は、違った。忘れることが出来なくなったんだ。忘却できるということが、いかに幸せだったか。その時、痛切に味わった。忘却することで、無事平穏な日常生活に戻れる、という状態を味わうことが出来なくなった。これは、悲劇だよ。実に、悲劇的なことなんだ。僕は、言葉としては大袈裟かも知れないが、寝ても覚めても、彼女のことを思っていた。始終、彼女のことを思い出していた。気が狂いそうだった。昔のように、僕の目の前に彼女が現れ始めた。そして、僕を悲しそうな、微笑みを湛えた顔でじっと見詰めるんだ。少し、怒りを交えた眼でも見るんだ。それまで、ずっと忘れていたことを非難するような眼差(まなざ)しでもあった」


 矢部は少し、顔を上げた。

そして、徐々に暮れなずんでいく空を見上げながら、言葉を続けた。

 「僕は耐えられなくなった。或る時、退社して、やみくも無く、会社の周りを歩いたことがあった。暫く、さ迷うように歩いた。ふと、気が付くと、教会が目の前にあった。夕方だったが、教会の扉は開かれていた。僕は誘われるように、ふらふらと中に入って行った。正面に、十字架に架けられたキリストの像があり、その像を見上げるように人が立っていた。薄暗い雰囲気の中で立っていた人物は僕には一瞬、キリストのように思えた。しかし、キリストでは無く、その人は長い髪を垂らした一人の女性だった。ふらふらと、祭壇に近づいていく僕にその女性は声をかけた。不審者を咎めるような口調では無く、実に穏やかな柔らかい口調で、どうかなさいましたか、と僕に声をかけてくれたのだ」


 矢部は語り続けた。

 「その女の人は、その教会の伝道師だった。僕はその時、かなり混乱しており、とりとめのない話をそれこそとりとめもなく話した。しかし、彼女は嫌な顔をせず、静かに聴いてくれた。頷きながら、黙って僕の長い話を聴いてくれた。話している内に、僕の心はいつもの落ち着きを取り戻していった。僕の話が終わった時、彼女は一言僕に言った。今、あなたはここにいます。ここはあなたの教会です。神があなたをここにお導きになられたのです。そう、彼女は僕に語った。その時、僕はここで救われるかも知れない、と思った。心から、そう思ったんだ」


 矢部は静かに微笑んだ。

 「僕はその後、ほとんど毎日と言っていいほど、その教会に通った。そして、三ヶ月ほど経った時、僕は受洗して信徒となった。僕は救われた。その時に、感動した言葉がある。新約聖書にあるコリント人への手紙にある言葉だ。それは、このような言葉だ。『あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、逃れる道も備えて下さるのである』という一節だ。耐えられない試練なんか無い、という言葉だった」


 矢部はこの言葉を目を閉じて呟いた。

「伝道師と信者の間には、一般的には恋愛は存在しないものだが、僕と彼女は年齢も近いこともあって、いつしか、恋愛感情が芽生えた。伝道師たるものが一般信者に男女の愛を感じるとは何事だ、不謹慎極まりない、と僕はともかく、彼女はかなり批判されたらしい。でも、僕たちは周囲の反対を押し切って、一年後に結婚した」

 

矢部の顔は当時を懐かしむような顔になっていった。

 「その後、僕はプロテスタント系の大学の神学部に入り、卒業し、その教会の牧師となった。按手礼を受けて、僕は正式な牧師となった。そして、五年ほど、副牧師として勤め、その後、主任牧師としてその教会を預かるようになった。これが、僕が牧師となったいきさつだよ」

 

語り終えた矢部の顔は実に穏やかだった。

 しかし、佐藤は矢部の穏やかな顔を見詰めながら、ひそかに後悔していた。

 牧師になったいきさつなど、本当は訊かなければよかった、と思っていた。

 矢部は穏やかな表情を浮かべてはいたものの、すっかり癒えたはずの古傷を無神経な質問で引き裂いたのかも知れない、と思ったからだ。

 佐藤は穏やかな表情の裏側に隠された矢部の気持ちを推察しようとしていたが、矢部の表情からは何も読み取ることは出来なかった。

 そして、このような深刻な話題を率直な態度でさりげなく話す矢部に激しい嫉妬の念を抱いた。

 佐藤には到底出来ない相談だった。

 置いてけぼりをくったような気分だった。

 矢部が遠くの存在のように思えた。


 矢部は静かに湯面から立ち上がり、お先に、と言い残して去っていった。

 佐藤は矢部が残した湯面の揺らぎを見詰めた。

 その湯面の揺らぎは佐藤の心の揺らぎでもあった。

 そして、深い静寂が佐藤を包んだ。

 その静寂の中で、佐藤は迎えつつある晩年を思った。

 このような静かな沈黙と追憶の中で俺たちは確実に老いていき、やがて、寿命が尽き、この世からひっそりと退場していくのだ。

 その時、俺はどのように自分の人生を振り返るのだろうか。

 

 矢部が去った後も、佐藤はひとり、湯に浸かっていた。

 矢部が話した女子学生は、佐藤の昔の記憶にある、あの女の子だったかも知れない、と思っていた。

 矢部がその女子学生を連れて行ったというバロック喫茶店の『無伴奏』という店には俺も頻繁に通ったことがある。

 市内の中央通りのデパート近くの路地の一角の地下にあった。

 六坪あるかないかで十五、六人ほど入れば一杯になるような小さく殺風景な空間で、穴倉と言ってよかった。

 正面の壁には天井まである巨大なスピーカーが埋め込まれており、いつも、大音響で荘重華麗なバロック音楽が流されていた。

 列車のシートのような堅い椅子が二つずつ、三列にスピーカーを向いて並べられていた。

 言わば、教室のような配置で、骨董品のような簡素なテーブルと椅子が並べられていた。

 入口のくすんだ木製のドアを開けると、日常の空間とは隔絶された異次元の空間と音響が身を包んだ。

 当時は確か、週に一、二度程度は行っていたはずだ。

 ほとんど、常連だったと言っていいかも知れない。

 モダンジャズの喫茶店にも行っていたが、どちらかと言えば、この『無伴奏』の方が俺は好きだった。

 パイプオルガンが(かな)でる荘重さとチェンバロの(きら)めくような華麗な響きが好きだった。

 バロック音楽の中に身を委ねて、精神が浮遊する感覚を幾度となく味わった。

 心も体も浮遊し、空間に溶け込んでいく。

 このまま、溶け込んでいけたら、最高だ。

そんな感覚を味わった。

 煙草を吸いながら、本を読んで何時間か過ごした。

 今と違って、あの頃は喫煙者がかなり多かった。

 学生はほとんどが喫煙者だった。

俺たちは煙草を覚え、麻雀を覚え、酒を覚え、いろんな人との付き合い方を覚えながら、『社会』を覚えていったのかも知れない。

 モダンジャズ喫茶と同じように、『無伴奏』も店内は煙草の煙で()せ返るような有様だった。

時には、女子高校生と思われる少し幼い顔をした女の子も二、三人連れで訪れ、煙草を器用に吸いながら、荘重なバロック音楽が流れる店内で(たむろ)してお喋りに興じていた。

 全共闘の黒ヘルメットを片手にぶら下げて入って来る学生活動家も居た。


 たまに見かける女子学生で、ひとり、気になる女の子がいた。

 煙草は吸わないが、煙草の臭いはさほど気にならない様子で、いつも、前列左片隅のベンチみたいな椅子に腰を下ろして、ひっそりと本を読んでいた。

 俺はいつも、出入り口に近い後ろの席に座っていたので、彼女の顔を正面から見たことはほとんど無かったが、時折見せる横顔で、彼女がいることを確認するのが常であった。

 優しい顔をして、どこか、線の細そうな印象を与える女の子だった。

 木のテーブルには新聞のチラシを鋏で七、八センチ程度に切った紙片が十枚ほど置いてあり、リクエストしたい曲があれば、その紙に希望曲を書いて、マスターに渡す。

 そして、その曲がかかるまで、コーヒーをちびりちびりと飲みながら待つ、というのがいつもの遣り方だった。

 しかし、どういうわけか知らないが、その女の子の場合は違った。

 女の子が紙片に何か書きつけると、マスターが静かに近づいて行き、その紙片を受け取るという光景も何回か見た記憶がある。

 紙片を受け取りながら、マスターとその女の子は少し会話を交わしている様子も窺えた。

 

しかし、いつしか、その女の子は『無伴奏』に姿を見せなくなった。

 俺は相変わらず、週に一、二度はその店に通い、何本かの煙草を吸い、本を読み耽っていた。

 そんな或る日。

 モーツァルトの『レクイエム』がかかっていたことがあった。

 いつもはバッハのシャコンヌ、G線上のアリアとかビバルディの四季といった曲がかかっているのが普通で、『レクイエム』という曲がかかることは無かった。

 少なくとも、その店で、『レクイエム』を聴いたのはその日が初めてだった。

 しかも、驚いたことに、一時間ほどかかるその曲は繰り返し、かかった。

 そして、気が付くと、いつもの女の子の席に一人の男が腰を下ろしていた。

 その男は、マスターだった。

 曲が終わると、マスターはレコードプレーヤーに戻り、再度、そのレコードに針を落とし、その女の子の席に戻り、じっと項垂(うなだ)れて聴き入っていた。

 何か良くないことがその女の子の身の上に起こったのか、と思った。


 湯に浸かったまま、空を見上げた。

 暮れなずむ空が頭上に広がっていた。

 空の青さは既に失われていた。

 薄い筋雲が(あかね)色に染まった空をゆっくりと流れていった。

 静かな秋の黄昏(たそがれ)が迫っていた。

 人生の黄昏であったかも知れない。

 微かな痛みを感じた。

 悲しみという感覚を持った痛みだった。

 

 矢部が語った女子学生はかつて『無伴奏』で見たあの女の子だ。

 あの女の子に間違いない。

 佐藤はそう確信した。

 

 目の前を一枚のモミジの葉が舞い降りて来た。

 それは、佐藤のすぐ近くの湯面にそっと浮かび、湯面を微かに揺るがせた。

 紅くなりきることも無く、落ちた葉だった。

 黄色と橙色が不均一に混在している葉を佐藤は眺めた。

 ふと、青春という言葉が脳裏を()ぎった。

 懐かしい響きを持つ言葉だった。




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