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第1節

第2章です。よろしくお願いします。


 大切なものを奪われた。決して失くしてはいけないものだ。

 それは今、視線の先で風を切りながら逃走している。


 デリックは街道をひた走る。何度も通行人と接触して怒鳴られたが、謝罪している時間はない。あちらの方が足は速い。目を離した隙にあっという間に視界から消えてしまう恐れがある。

 角を曲がった見覚えのある尾を追いかけて、既知感に呆れた。何度同じ失敗を繰り返せば気が済むのか。油断していた自分が情けない。


 寂れた建物のドアを押し開けて、デリックはどかどかと大股で侵入する。家主に気を遣う必要は既にない。非があるのはあちらだ。


「スコット!」

「うわ、なんだどうした」


 怒鳴りながら中に入ると、こちらの第一声に反応したのは家主ではなく、警部のランドルだった。

 先日、家主が座っていた安楽椅子に我が物顔で座ってくつろいでいた。手には細く湯気を立ち上らせるコーヒーカップ。仕事は休みなのだろうか。


「ランドル、スコットは?」

「そっちに走って行った」


 すっと指で示された方向に足を進める。ランドルが後ろからなぜここにとかなんとか疑問をぶつけてきているが、返事は今度にしてほしい。今のデリックには、天敵と対峙しなければならない使命がある。

 デリックは初めて入るキッチンを通り抜け、水音が聞こえてくる場所のドアを開け放った。冷静な判断力というものは、残念ながら今のデリックには欠如している。


「スコット!」

「……。あなた誰?」


 そこにいたのは探し求めていた探偵犬ではなく、一人の女性だった。しかも服を着ていない。当然だ。ここは浴室で、女性はシャワーを浴びている。服は必要ない。


「これは失礼しました」


 にっこり紳士的に微笑んで、さっとドアを閉める。

 身体を半回転して、浴室に背を向け、デリックは両手で頭を抱えた。一瞬でその場に崩れ落ちる。


「ああああやってしまった! このオレが覗きのような真似を!」


 プレイボーイにあるまじき失態だ。一緒に入るつもりで行くことはよくあるが、事故でのぞいてしまったことはない。女性に対してこのような無礼を働いたことはこれまで一度だってなかったというのに。


「ちょっと。質問に答えて。あなた誰?」


 閉ざしたはずのドアが豪快に開けられ、女性が冷淡な声でデリックに話し掛けた。

 彼女はバスタオルを巻いているようで、とりあえず裸ではなくなったらしい。デリックはようやく顔を上げた。


「弁解させてくれ。いや、言い訳はしない。悪かった」

「そんなこと聞いてない。あなた誰?」


 どこからともなく取り出したアーミーナイフが、女性の手の中で妖しく光る。刃先を向けられて両手を挙げた。


「デリック・ユーイング」

「デリック……? あ! 分かった! 女の人のヒモ生活してるあのデリックだ!」

「……愛の溢れる生活をしてるデリックだ」


 くるりと器用に回されたナイフが、瞬く間にどこかへ消えた。神出鬼没だ。まるでマジックのような手際の良さに見入っていると、女性はさっと顔を近づけてデリックの頬にキスをした。挨拶のキスだが、それにしても唐突だ。誰かを彷彿とさせる唐突さである。


「私は、ライラ。探偵助手をしてる」

「よろしく。待て、助手……? それでその探偵さんはどこにいるんだ? 見かけないが」

「エリアルは寝てる」

「体調でも悪いのか?」

「いいえ。まぁ、健康ってわけでもないかも。睡眠不足で今はすっかりベッドとお友達」


 こっち、と案内してくれようとしたライラを引き止めた。不思議そうな顔でこちらを見てくるが、不思議な顔を披露したいのはデリックの方だ。

 ライラに自分の姿を思い出してほしい。


「まずは服を。身体を冷やすのはよくない」

「ああ、ありがとう」


 デリックの指摘にやっと自身の恰好を思い出したのか、なんでもない顔でバスタオルに手を掛けるライラに慌ててデリックは身体を反転させた。本日二度目の急回転だ。


「さっき見たのに?」

「あれは事故だ。もちろん男としては嬉しい事故だけど、ライラに嫌な思いにさせたことは事実だし、同じ失敗はしたくないんで」

「プレイボーイって聞いてたけど、ほんとみたい」


 ライラの着替えの音を聞きながら、デリックは本来の目的を見失ってしまったことに気づく。スコットはどこにいるのだろうか。逃げ足の速いことだ。


「終わった。行こう! こっち!」


 スコットも寝室にいると思う。

 そう続けるライラに驚く。瞠目するデリックを見て笑った彼女は、さっきスコットって叫んでたと解説してくれた。そのとおりだ。手を取られるがまま、デリックは笑顔の美しい彼女について行く。

後ろから彼女を見ると、そのスレンダーさがよく分かった。ヒールを履いてはいるが、それを抜きにしても高身長だ。細く長い脚についつい見惚れてしまう。

 そこで唐突に、彼女の動きが止まった。背中にぶつかりそうになってデリックも急停止する。この予備動作のなさは、やはりあの男を思い出させる。彼も身長が高く、細く長い脚だ。


「もしかして妹?」

「大正解!」


 にっこりと笑むライラは、目の前のドアをそっと開けた。しっと唇に人差し指を押し当てて、デリックに閉口させる。

 室内は薄暗い。

 ぱたんぱたんと僅かに何かを叩くような音が聞こえるだけで、他の音は聞こえなかった。わん、と小さな声で鳴くスコットをベッドの脇で発見したデリックは、衝動的に怒鳴りそうになったが、すぐに思いとどまる。ベッドの上でぐっすり眠るエリアルを見てしまったからだ。

 家に帰ってそのままベッドにダイブしましたと言わんばかりの乱れた服装と、床に転がる靴。その床を叩く音の正体はスコットの尾だ。


「エリアルって天才なんだけど、すっごいおバカさんだから」

「は?」

「何かに没頭するとすぐに寝るの忘れるんだって。今回もそう」

「それはおバカさんだな」


 デリックは溜息を吐いて、夢の世界に意識を置いている名探偵を眺めた。


「忘れるってどれくらい?」

「没頭している内容にもよる。今回は三日は寝てないらしいけど」

「お肌の健康にも悪いな」

「……デリックって、面白い!」


 肌は男女共に大切にしなければならないものだろう。ジョークで言ったつもりはないが、ライラの笑顔がたいへん愛らしいのでよしとしよう。

 ごそごそとシーツが動いた。一度震えた目蓋がゆっくりと持ち上がる。奥から覗く双眸に、ライラとデリックの姿が映された。

 双眸を縁取る睫毛が、瞬きの度に揺れる様子を見つめていると、下からわんという抗議の声が届いた。この抗議はデリックたちにではなく、エリアルにだろう。おそらく。


「おはよ」


 ぼんやりしたままだが、挨拶はするらしい。彼の礼儀は良くない印象だが、それは人見知りがなせる技だったのかもしれない。


「今は六時だけどな。夕方の。つまり全然おはやくない」

「じゃあ、こんばんは」

「いつから寝てたのか知らないけど、もう起きて大丈夫なのか?」

「ん、よく寝た。朝からずっと寝てたと思う」


 緩慢な動作で身を起こしたエリアルが、ふるふると頭を左右に振った。犬か。ペットは飼い主に似るというが、やはりこの家族は逆で、飼い主であるエリアルがスコットに似たようだ。

 彼が突然わんと言い出したらどうしようか。


「わん!」

「おわっ!」


 おもわず仰け反ったデリックを怪訝そうに見つめながら、スコットがもう一声、わんと鳴いた。ややこしい真似をしないでほしい。ぱたぱたと床を叩く音に遠慮がなくなっている。

 エリアルはスコットの頭を優しく撫でて、瞠目したままのデリックを不思議そうに見てくる。しばらく放っておいてほしい。


「ところでどうしてここに?」

「はっ!」


 エリアルのその言葉で、咄嗟に足元にいるスコットを捕獲しようと動いたデリックの手は、空しく宙を泳いだ。するりとデリックの手を躱して逃げ出すスコットの後ろ姿がドアの向こうに消える。相変わらず素早い。


「スコッティがまた何かしたのか」

「そうだよ!」


 怒鳴るように返したデリックの言葉と、ライラの笑い声がほとんど同時に室内に響いた。

 エリアルはまだ寝ぼけているのか、心ここにあらず、怒鳴り声にも笑い声にも反応しない。じっとドアの向こうを見つめているだけだ。


「おい、飼い主なんだからちゃんとしつけしろ!」

「ん?」

「だから」


 ぼんやりとしたままの名探偵の頭を起こそうと詰め寄った刹那、エリアルが突然立ち上がった。咄嗟に身を引いたデリックの判断は素早い。しかし、僅かにエリアルの動作が速かった。

 いつぞやのランドルとエリアルのような顎と頭の衝突は回避したものの、鼻先が彼の頭とぶつかってデリックは痛みに呻く。


「~~っ、だから! 予備動作をしろって!」

「あ~、大丈夫?」

「オレの鼻が高すぎたせいで避けきれなかっただけだ。大丈夫」


 目尻に涙が浮かぶが、ライラには笑ってみせた。女性に無駄な心配をかけるのはよくない。


「びっくり」


 瞠目したライラに、デリックはその言葉の意味を問う。双眸をきらきらさせた彼女は、笑顔のまま続ける。


「自分で言うほど高くないから」


 つん、と細い人差し指で赤くなった鼻先をつつかれた。そこらへんの男性よりは高い鼻を持っている自信はあるが、彼女の指摘どおり、自慢できるほどの高さではないかもしれない。

 それでも、デリックにとっては自慢の一つだ。


「そうかな?」

「あ、怒らないんだ。へぇ」


 にやりと笑みを返すとライラはなぜか驚いていた。どうやらリアクションを試されていたらしい。

 さすがはエリアルの助手。侮れない女性だ。


「言ったろ。彼は良い人だって」

「でもエリアル、あなたの良い人って範囲が広いから。ちゃんと自分の目で確かめたくて」

「それで? 試験の結果は? オレは合格かな?」

「ご~かく!」


 ライラの柔らかい唇が、デリックの鼻の頭に触れた。しかし、慎ましやかなリップ音とともに、その温もりは一瞬で去ってしまう。心残りだが、仕方ない。


「せっかく噂のデリックとも知り合えたことだし、一緒にディナーしよう!」


 続けられた言葉に驚くが、女性との食事ならデリックは大歓迎である。おまけでエリアルやランドルがついて来るとしても。ライラの言葉に頷いたのはデリックだけではなく、エリアルも賛成している。


 ついでに、これはスコットを捕まえる絶好のチャンスになりそうだ。




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