第九十八話・天下までの距離
織田大隅守信広。
原田備中守直政。
平手中務丞久秀。
氏家常陸介直昌。
筒井陽舜房順慶。
三淵大和守藤英。
摂津三守護池田勝正。
摂津三守護伊丹親興。
ざっと列挙してみただけで、これだけの大物が戦死している。父の名代という大役を引き受け続けて来た信広義父上や、忠実な手駒であった原田一族がいなくなったことは勿論痛恨であったが、譜代の平手家当主が討ち死にしたという事も織田家にとっての大きな痛手だろう。
かつて西美濃三人衆と呼ばれた氏家直元殿の嫡男である直昌殿の死は、長い目で言えば織田家の美濃直接支配にとって都合が良いかもしれない。だが即戦力となる武将が一人減ったという事はやはり痛い。
公方様にとっても、痛い死が続いた。筒井順慶殿は文化人であり、公家衆にも幕臣にも近しい人物であった。美濃よりも京都に近い大和人であった為、比較的父よりも公方様と親しくもあった。仮に父と公方様が表立って対立するとなった場合、筒井順慶殿は大局すら左右しうる人物となっただろう。
筒井順慶殿の死後、それまで京都で大人しくしていた松永弾正少弼殿が素早く動き、大和の混乱を纏めた。弾正少弼殿は公方様にも父にも何か言った訳ではないが、その行動をもって『後任の大和守護は自分しかいないでしょう?』と主張しているのはよく分かった。煮ても焼いても食えず、見せ場ではキッチリと出張って来る。戦国の梟雄、その面目躍如といったところであろうか。
三淵藤英殿の死が公方様にとって痛恨であることは言うに及ばずだろう。一色藤長殿や長岡と名を改めた実弟藤孝殿らと並び、公方様にとっての股肱の臣だ。個人的な評価として、三淵藤英殿と比べて弟藤孝殿は誠実ではない。悪口で言っている訳ではない。主家と共に滅びるような愚を犯す人物ではないという意味である。だが、公方様としては三淵藤英殿の方が信頼に足る人物であったことは間違いないだろう。一色藤長殿は大局観に少々劣る。そこまで深く腹を割って話したことは無いが、俺と出会ったばかりの頃の景連に近い性格であると思う。そういう人物であるからこそ公方様に信頼されているのだろうが、こちらもやはり三淵藤英殿と比べてしまえば頼りがいにおいて一歩譲る。
摂津三守護は戦いの初期の段階で敗北し、和田惟政殿以外の二人が敗死した。三人中、死亡した二人がどちらかと言えば公方様に近かった。自身が切支丹であり、彦五郎の父友照殿の主でもある和田惟政殿は父と親しい。俺と高山家の縁もあり、繋がりは強くなりつつある。古左の妻の兄、中川清秀殿は池田勝正殿の家臣であったが生き延び、織田軍に加わったとのことだ。
勿論、相手方も名のある者の死が相次いだ。
藤林長門守。
六角義賢・義治親子。
土橋守重。
北畠具教・親成親子。
三好長治。
藤林長門の戦死と六角親子の捕縛は既に述べた。此度の戦いにおいて連合軍側で最強であったと言える雑賀衆を率いた土橋守重は、撤退戦において殿を務め、大和から河内に逃げんとするところを討ち取られた。同じく河内に逃げようとしていた北畠親子は捕らえられ、身柄は即刻京都へと送られ、六角親子と共に斬首の後晒されることとなった。土橋守重や北畠親子の顛末を聞いた時、多くの者が高野山へ逃げれば安全であったのに、やはり馬鹿な者達だ。等と嘲笑ったらしい。
三好長治の死は織田家にとって僥倖な出来事であった。篠原長房という名将を自ら殺した三好長治は、この度又も家臣、香川之景や香西佳清らに謀反の嫌疑をかけ、これを攻めた。この暴挙を制止した実弟十河存保のことも疎んじ、加えて謀反の疑いをかけたところで家臣の大半が長治を見限った。長治は殺され、跡目は十河存保が継いだが、最早三好家は家臣の統率すらままならず、早くも織田家に降伏するという手紙を送って来た者もいるとのことだ。
上手く逃げ延びた者らにとっても、安住の地は少ない。まず鈴木重秀であるが、この度の戦いにおける戦果が全て翻って織田家や幕府に対しての罪となり、最早畿内にいられる場所はなくなった。三好家は頼りにならず、逃げるとしたら九州や中国地方、或いは北陸や関東といった遠方以外ないのではと言われている。
悲惨な目に遭ったのは斎藤竜興や七里頼周らの、高野山に逃げ込んだ者らだった。聖域たる高野山であれば安全であると考えて逃げ込んだ彼らは間もなく高野聖達に捕縛された。今高野山は、和議そして高野山の存続を求め父と交渉をしている。父は織田家と戦った全員を引き渡したら考えると言っているが、引き渡したらそのまま全軍で攻撃するであろうことは、俺にとっては火を見るより明らかだ。大勢が決した戦で、共に戦った仲間を売って生き延びようとする。父が最も唾棄するところだろう。
林秀貞がどうなったのかは分からない。西に逃げたという話も聞かず、かといってどこかで戦うという話も聞かなかった。
などという話を、俺は岐阜城で横たわりながら聞いた。岐阜城に入ってより、俺に出兵の命令は来ず、代わりに父や弟達から手紙が毎日のように届いた。彦右衛門殿と共に紀伊を南下した三介は熊野速玉を再奪還し、更に南へは九鬼水軍が沿岸を攻撃しつつ、南部へと侵入してゆくとのことだ。北の伊賀からは三七郎が攻撃し、柏原城までを取り返した後、大和南部へと兵を入れ、そして高野山への圧力を強めているらしい。どうも、俺が籠城する前に伊賀衆に金銭を支払っていたことはそれなり以上の効果をあげていたようで、兵糧の遮断やら後方のかく乱やらもしてくれていたらしい。百地丹波を通じ忠節に感謝すると礼の手紙を出すと、『我々は支払われた金銭分の恩を返しただけにて、忠節などという高尚なものではございませぬ』と、何とも控えめな返答が来た。『恩を返す為、戦場にて苦戦する主を助ける。そういう者どもを世は忠義者と呼ぶのだ』と更に返事をしておいた。それに対しての返事はまだ帰ってきていない。
勘九郎からの手紙には、俺に体は大丈夫かと心配する内容の他には簡単な現状報告だけが書かれていた。どうしたら良いだろうかとか、兄上はどう思うかとか、そのような相談や愚痴じみた話は一つもして来ない。そんな勘九郎に対して、俺からも余計なことは聞かなかった。
勘九郎が戻ってきたら、此度一連の戦いでの勘九郎の動きについて、自身がどう思っているのかを問おうとは思っている。俺の勘九郎に対しての評価は決まっている。故に、本人の自己評価を聞いておきたい。もし勘九郎が自信を無くしていて『跡目は兄上に』といいだすようであれば、その足で父の元へ行き、織田に復姓することを頼もうと思う。そうでなく、織田家の当主としての覚悟を固めているようであれば俺は原田家を復興させ、村井家の跡取りを育て、織田信広系津田家を興してゆこうと思う。
父からの手紙はこれまで以上に天下統一を急ごうという気持ちがありありと分かる物が多かった。気持ちは分かる。俺もそうだったが父も死にかけたのだ。自分の目が黒いうちに決着を付けたいのだろう。
父の手紙には紀伊よりももしかすると四国の方が先に制圧出来るかもしれないと書かれていた。理由は二つ。一つは三好家の分裂だ。父はどう転がったとしても三好家を許すつもりはない。降伏すら許さないだろう。そのほうが織田家の直轄地は増える。家臣連中を裏切らせ、一気に攻め落とす。
二つ目の理由を長宗我部元親という。間違いなく今四国で最も戦が強く、或いは西国でも一番であるかもしれないという男だ。
戦に強い。たったこれ一つの理由でもって当主となる人間がいる。我が父信長もそうだろう。今でこそ内政・外交に辣腕を振るう父だが若い頃には虚けと呼ばれており、同腹の弟信勝との戦いにおいては敵方の半分しか味方を集められなかった。父は決して、人望で当主に登り詰めたわけではないのだ。
近江の浅井長政もまたそれに近い。彼は若い頃から優秀な人物であったそうだが、幼い頃には六角家の人質とされていたこともあり、必ずしも当主となることが決定づけられていた訳ではない。そして長宗我部元親も又、戦の強さによって当主としての地位を固めた男の一人である。
長宗我部家は元々宗我部氏を名乗っていた。その中でも土佐国香美郡にいた一族が香宗我部を名乗り、長岡郡にいた一族が長宗我部を名乗った。その後、応仁の乱以降の動乱期において勢力を伸ばしたのは全国津々浦々の群雄と同じくだ。
やがて長宗我部氏は本山氏と長岡郡を二分し、土佐郡にも進出するまでの勢力に成長し、『土佐七族』の一つに数えられるようになる。そこから更に天竺氏・山田氏・秦泉寺氏といった豪族達を撃ち破り土佐国中央に勢力を伸ばしていった戦巧者こそが長宗我部元親その人、ではなく、その父国親であった。
着々と勢力を伸ばす長宗我部国親。その長宗我部家と、同じく勢力を伸ばしていた本山氏が雌雄を決しなければならないことは歴史の必然であっただろう。両者は土佐浦戸湾に程近い長浜城を巡って戦うこととなる。ここは尾張でいうところの津島のようなもので、土佐における物資の出入り口、重要な拠点であった。そんな重要拠点を巡る戦いにて長宗我部元親は初陣を飾った。この時二十二歳。
通常、初陣は元服直後の十五歳から十六歳で行われる。どのような事情があったにせよ当主の嫡男としては随分と遅い。
加えて、元親は家臣から『姫若子』と渾名されていた。姫のように可愛らしい、という意味ではなく、男らしくないであるとか軟弱なという意味が多分に含まれた、明らかな侮りの言葉だ。
誰も期待していなかった初陣。だがしかし、元親は見事な武働きを見せ、戦を勝利に導いている。その場で槍の突き方を教わったであるとか、そもそも槍を持つのが初めてであったとかいう話までが本当であるかは疑わしいが、ともあれこの武功によって元親の名は土佐に轟き、姫若子という嘲笑は鳴りを潜める。この年永禄三年は、父織田信長が桶狭間で今川義元を討ち取り、浅井長政が野良田の戦いで味方に倍する六角氏を打ち破った年だ。
この戦いの後本山氏は勢いを失い以降長宗我部氏に対し敗北を重ねる。この戦いの直後に父国親が病気に倒れ、同年六月には没しているという事実から鑑みるに、元親はたった一度しかない功名をあげ家臣に自分を認めさせる機会を、最大限活かしたという事になる。長宗我部氏の家督を元親が継ぐにあたって、異論の声あったという話は聞いたことがない。
長浜表の戦いの後、元親は同じく長浜表で初陣を果たした実弟親貞らと共に勢力を拡大させ、永禄十一年には本山氏を、翌元亀元年には安芸氏を滅ぼす。
現在の長宗我部家は、戦国三国司と呼ばれるうちの一つ、土佐一条家からの独立を計っている。残りの二つのうち一つは伊勢の北畠家で、もう一つは飛騨の姉小路家だが、姉小路家は実質既に滅んでいる。父の狙いはこの戦国三国司土佐一条家だ。三好家を滅ぼし、そのまま一条家を乗っ取り、三七郎に跡目を継がせようとしている。既に長曾我部元親に対しては三好討伐の際の協力と、土佐一条家に対しての調略を条件に四国統一後の土佐一国領有を約しているという。残りの讃岐と阿波、そして伊予は一条家、即ち三七郎が受け持つ。三国を併せれば石高は伊勢志摩を領有する三介とそう変わらなくなる。
そうして、そこまでの動きが成功裏に終われば、恐らく天下はほぼ固まる。天下の総石高を、多く見積もったとして二千万石。父が紀伊までを、そして四国までを征したならば織田家の石高は四百万石を超え、五百万石に近付く。徳川・浅井を加えれば更に百万石増える。そこまでくれば、毛利・武田・上杉と同時に戦うことも出来よう。
一日中寝てばかりで、運動といえば精々ゆっくり歩く程度の事しかさせて貰えない俺は、治療を受けながらつらつらとそのようなことを考えていた。何もせず、ゆっくりしていろとは父からの指示であったが、何もしないことを堪能できたのは最初の数日だけだった。後はただただ暇が苦痛で仕方がない。ともあれ元亀五年は既に九月の半ばに入っている。
「さてさて、ほっほっほ、大分よろしくなっておりますなあ。そろそろ運動をしても宜しい頃かと」
そんな何もしないという拷問を受けているさ中に大柄な老人が部屋へと入って来た。
「誠ですか?」
頷く代わりにほっほっほ、と笑って答える老人は甲斐から松姫殿が来た際に一緒にやって来た医者で、永田徳本という。俺よりも背が高く肉付きも良い。見事な禿頭と、好対照に繁茂した白髭が特徴で、武田信玄の主治医を務めていたらしい。大きな体を大きな荷車に乗せ、大きな牛に牽かせて移動する不思議な名医だ。此度美濃に運ばれた俺の様子を見て、『処置を誤れば死ぬ』と言い、直ちに俺を拘束した。以来俺は彼の指示に従った生活を余儀なくされている。
「誠ですとも。ゆっくり外をお歩きになられれば宜しい」
「ゆっくり歩くのには飽きたのですが」
俺は出来れば早く走りたい。刀の稽古などをしたい。ここの所恭とはずっと一緒にいられて、その為に恭は機嫌が良い。妊娠初期に多くの精神的苦痛を与えてしまっただけに、この時期を安らかに過ごさせてやれることは良かったと思っている。
「お客様が来られておると、蘭丸君が」
永田先生が、俺を見下ろし、にっこりと笑いながら言った。客? と首を傾げると斉天大聖孫悟空様ですぞ、と言われた。羽柴殿が? いつの間に美濃へと帰還していたのだろうか。
すぐに向かうと言い、実際にすぐ歩き出した。体に痛みはもうさほどはない。だが、体からごっそりと体力を奪われてしまい何とも歩き辛い。
「羽柴……秀吉が今更俺に何を?」
この時の俺は、正直に言うと羽柴殿に会うことが少々怖かった。思えば羽柴殿はこれまでどこでどう戦っても負けらしい負けをしておらず、此度の戦いにおいても京都・美濃・伊賀の中心にて敵を寄せ付けず、最後には野戦に持ち込んで大将首を挙げた。その手腕の見事さに敬意を抱きつつも警戒と恐れを持たずにはいられなかったのだ。
俺は成長した。間違いなく成長した。だが、成長すればするほど羽柴殿の大きさもよく分かってしまう。そろそろその大きさに潰されてしまいそうな気がしていた。
そんな風に考え、何を言われても慌てないようにと思いながら羽柴殿が待つ中庭に向かう。そこに、赤子を抱える羽柴殿の姿があった。
「お久しゅうございまする名刀様。その後、お加減は如何でございますか」
赤子を抱えたままの羽柴殿は、子供の頃の渾名で俺を呼び、満面の笑みで近づいてきた。
「その……子は?」
「拙者の子でございます」
言いながら、その顔が俺に見えるようにする羽柴殿。言われてみてみると、似ている、ような気がする。赤ん坊の顔など見分けが付けられないが。
「つい先日産まれましてな。名刀様のお陰で生まれた後継ぎでございます。真っ先にお見せしたいと考えまして、やって参りました」
「せめて首が座ってからにしようと言ったのですが」
真横から小一郎殿の声が聞こえて、ハッとした。そういえば最初からいたような気がする。羽柴殿ほどの立場の人間が赤子を抱えて一人でやって来る筈もないのに。
「良ければ抱いてやって下さいませ」
言われて、首を支えながら腕に乗せた。小さい。まだ何一つ自分の力では行動出来ない命が、俺に身をゆだねてすやすやと眠っている。
「俺の、拙者のお陰とは何です?」
「名刀様の有難きお説教を頂戴してより、半兵衛が健康に気遣うようになり申した。その結果、この猿めも女遊びを出来なくなり、結果無駄撃ちをせず撃った種が当たったのでございます。これ即ち名刀様の切れ味鋭き弁舌のお陰かと」
言われて、何とも言えない気持ちになった。当時竹中半兵衛に対して行ったのは説教ではなく罵倒か批判と呼ぶべきものだ。明確な敵意をもって竹中半兵衛を傷つけようとした。それが何故か感謝される日が来るとは。
「……そうか」
不意に、ポツリと赤子の頬に水が垂れた。俺の涙だった。慌てて赤子の頬を拭き、自分の涙を止めようとして、出来ずに顔を袖で覆う羽目になった。
「ど、どうなされました?」
「……生きているな」
抱き上げた赤ん坊は軽く、そして温かかった。後継と言っていたのであるから男子であろう。羽柴秀吉の後継。決して楽な道ではなかろうが、実りの多い人生でもありそうだ。
「少々、身近な人間の死を見過ぎてな」
困惑している二人にそう答えた。目の前で零れ落ちてゆく命を毎日見ていた。人の死に心を揺らさぬよう努め、氷のように、感情を凍らしてしまいたいと考えていた俺には、この命は余りにも温かすぎる。
「赤子を、見せる為に会いに来て下さったのか?」
流れた涙を拭い、答えた。二人がはいと頷き、俺は笑う。先程までの不安や恐れがふわりとほどけてゆく。
「それは忝い。積もる話もあることと存ずる故、お二人とも今日は拙者の散歩に付き合っては下さらぬか?」
俺の提案に二人は頷き、俺達はこの日男三人で三刻程も過ごした。俺は少し歩いてはすぐに疲れて休んでしまうを繰り返したが、話す内容はいつまでも尽きなかった。




