第九十七話・外界のひと月
丸山城が敵を撃退した、或いは味方に救出された日は八月の六日であった。七月の頭より、丸山城に援軍が来たるまでの一月強の話を、俺は手当てを受けながら聞いた。
七月初頭、天下の誰もが不可思議だと思える行動をとったのは武田家。一旦は兵を引いた筈の東美濃に一万。そして駿河戦線に一万という大軍をもって押し寄せ、織田、北条両家に対して好戦的な構えを見せた。関東はこれに先んじて軍神上杉謙信が猛威を振るい、上野と下野はほぼ制圧し、関東国人らは小領主の常として、今勢いのある上杉謙信に降伏。相模の小田原城へと押し寄せた。その隙を突いて武田が行った駿河侵攻は流石軍神であった。小田原を上杉武田の連合軍が取り囲むという、北条家にとっては悪夢以外の何物でもない状況も目前となりつつあった。
だが、その状況になって美濃・駿河の武田軍は動きを止めた。それはまるで何かを待っているかのようでもあり、織田家は美濃方面に軍を張り付けておかざるを得なくなった。駿河方面には、徳川家が全兵力をもって出撃、北条家の駿河担当である北条氏規と協力の構えを取った。
西、京都戦線ではその頃、連合軍に重大な間違いが生じた。抵抗を続ける野田城の惟任日向守十兵衛殿を討伐しようとしていた連合軍は石山本願寺勢力を味方に組み込もうと画策。延暦寺・根来寺・粉河寺の僧らが連署し、今織田家と戦おうとしない仏教徒は織田家と同じ仏敵であり、いずれその全てを焼き払う。という手紙を送った。
これは、反織田派も多い石山本願寺に圧力をかけ味方に引き込もうという脅しであり、方法として必ずしも間違っていたとは言えない。だが、この時に限って言えば大悪手であった。下間頼廉始め、精強なる下間一族を抱え、かつて織田弾正忠に対し屈辱的な講和を強いることに成功した法主顕如が率いる石山本願寺。彼らの答えは『やれるものならやってみろ』であった。
それまで、反織田か親織田かで別れていたが為、いつ敵に回るか分からない不安定な中立勢力であった石山本願寺は、この手紙により連合軍には絶対に味方しない安定した中立勢力へと変わった。それ以降も、現在に至るまで、顕如を中心とする石山本願寺は専守防衛の構えを崩していない。
七月十日、連合軍が分裂する。兼ねてより、京都を総攻撃し、織田勢力を駆逐した後近江まで進軍するべしと主張していた鈴木重秀が大津へと進軍。京都攻撃を許さず、野田城攻撃を優先させようとしていた延暦寺・根来寺・粉河寺の兵らから離反した。鈴木重秀らは京都を攻撃出来ないならば東進して観音寺を目指し、同城攻略の後には美濃尾張を攻めるべしと進言し、実際に自らの手勢のみで大津を制圧することに成功した。この動きに賛意を示した三好家当主三好長治も攻撃に参加しようとするが、僧兵達はそれを認めず、野田城攻めに戻るようにと伝えられた。
この指示を受けた三好長治は怒り、三好勢を撤兵させ阿波へと帰還する。これを付け入る隙と見た公方様は七月二十日、勅命講和に向けて動き始める。この講和はどちらの勢力にとっても好手か悪手かの判断が付き辛いものであった。というのも、南の戦線で今もって二つの激闘が繰り広げられていたからだ。一つは丸山城。一つは大河内城。丸山城は連合軍側優勢で、いつ落城するかというところであったが、大河内城は逆に、いつ織田家が連合軍を破るかというところであった。丸山城が先に落ちれば近江と伊勢に大軍が流れ出す。そうなれば連合軍側に講和をする理由などなくなる。逆に大河内城が連合軍を打ち破れば即座に長野城を奪還し、そのまま丸山城へと援軍に向かうことは火を見るより明らかであった。そうなれば織田家は講和せず、戦いを継続するだろう。
結局、勅命講和は纏まらず、七月二十九日、眠っていた魔王が蘇る。
これまでの事情を聞きとるまでに一日を使った父は、翌七月三十日に岐阜を出立。西ではなく、東美濃へと出陣し、東美濃の戦場大将であった武田勝頼と話し合いの場を設ける。武田家には赤備えの名将にして武田家最強の呼び声高き山県昌景、そして鬼美濃馬場信春の姿があったという。父は勘九郎と、筆頭家老の権六殿を連れていた。
いざ決戦か、と両家の誰もが息を呑んだが、その二日後、八月一日に事態は急展開を見せる。武田家は勘九郎の許嫁として長らく婚姻関係にあった松姫を甲斐より呼び寄せて正式に織田家に対して引き渡した。そして、織田家は当主弾正忠の六男、御坊丸を武田信玄の養子として送った。電撃的なこのやり取りによって両家は強固な同盟を結び、織田は西へ、武田は東へという協定が結ばれる。強硬姿勢を見せていた武田家がどうしてこれほどまで簡単に掌を返したのか、誰もが首を傾げたが、ただ一人父だけは『であろうな』と笑っていたそうだ。
『あれは、強硬姿勢ではなく強がりだ』
父からの説明を受けていた時、俺もなぜこのようなことが起こり得るのかと首を傾げていた。だが、分かっていない相手に対して偉そうに説教を垂れるのが大好きな父の一言によって謎が氷解した。まさかとは思う。しかし、考えてみればそれ以外には答えが無いことも分かる。武田家の動きは織田徳川北条と、三方に敵を作るようなやり方であったのだ。武田信玄がやっているからこそ、何らかの深謀遠慮がと思うが、十把一絡げの大名が行ったのであれば単なる暴挙である。そして、その行動は正しく暴挙であったのだ。
『武田信玄、死にましたか』
俺が答えると、もう少し勿体ぶりたかった父はあからさまにつまらなさそうな表情を作った。どの時点で死んだのかは分からない。だが、武田信玄にとっても不測の死であったのだろう。恐らく東美濃へと進軍した時にはまだ生きていた。母に先手を取られ、ならば上杉謙信に乗って駿河一国を切り取り、あわよくば伊豆か、或いは徳川領、という時に急死したのではないかと俺は予想する。その辺りで死んだのであれば、その後の武田家の不可解な動きが理解出来る。散々暴れる準備をしたところで当人が死に、誰もが混乱しながら事態を収めんとしていた。そんなところであろう。父からの提案に飛びついたのもよく分かる。織田弾正忠相手に対等な同盟を結んだ。周囲から弱腰とは思われないであろうし、当主交代の為の時も稼げる。内心大喜びであった筈だ。
こうして、東側に貼り付けていた軍を全て引き上げることに成功した父はそれらの軍を纏めて帰還。八月二日には一万五千を率いて今度は美濃から西へ。
織田信長復活の報を受け、西部南部の反織田勢力は慌てた。大半の指導者達は野田城と丸山城を一刻も早く落城させようとし、皮肉にもそのお陰で丸山城への攻撃は強くなった。たった一人、防備を纏めるのではなくまだ戦力が纏まる前の織田本隊を叩くべきだと考えたのは雑賀衆を率いる鈴木重秀であった。鈴木重秀は父が東美濃へと向かった七月三十日には諸将に手紙を書き、戦線を近江まで引き上げるべしと伝えた。自らは大津を放棄し、羽柴秀吉と戦う六角義賢や藤林長門の連合軍に合流、国人衆や、自らに従う者らを糾合し一万八千の軍を編成する。
後から結果だけ見てしまえば、此度の戦役敵軍において最も鋭い戦術眼を発揮したのは鈴木重秀その人であった。織田諸将を釘付けにしておき、京都を制圧し、尾張美濃へと攻め入る。後からどうこうと言うのは簡単であるし、そこで間違っていた者らを愚か者というのは卑怯な行為であるとすら俺は思う。確かに言えることは鈴木重秀が良き将であるというただそれ一点だけだ。
だが、その良将である鈴木重秀も、この戦役において孫悟空の踏み台とされる。
羽柴秀吉は七千の兵を率いていたが抗し切れぬと、観音寺城を放棄、そのまま美濃関ヶ原を抜け岐阜へ逃げようと動いた。鈴木重秀はこれを打ち破り、織田本隊と合流するよりも先に各個撃破することを目指した。鈴木重秀らは近江佐和山付近で羽柴軍に追いつき、五千に減った羽柴軍を攻撃する。そして攻撃を開始した直後、横合いから、浅井長政率いる浅井軍の攻撃を食らう。
先鋒に磯野員昌殿や藤堂高虎といった将を配した浅井軍は、十段に構えた連合軍の陣を全て突き破り、藤林長門を討ち取る。僅か一刻程度の戦いで総崩れとなった連合軍は、船にて後方に回った竹中半兵衛の部隊二千に退路をふさがれ、六角義賢・義治の親子は相次いで捕縛される。鈴木重秀自身の姿は杳として知れないままだが、父が美濃を発し西へと進軍を始めた八月二日、羽柴殿は織田家の近江支配を最後まで危うくさせ続けていた原因の除去に成功したのだった。
八月四日早朝、観音寺城付近で合流した父と羽柴殿の軍は二万五千を超し、父はそのうちの二万を勘九郎に預け京都へ向かわせた。自身は五千を纏め南下。五日には伊賀へと入り、そして八月六日、丸山城に『第六天魔王』の旗印が翻ることとなった。
「勘九郎には権六もサルも付いておる。次は十兵衛を救う番よ。若狭の五郎左も良くやった。三介は、まあ、彦右衛門の助けがあったからこそではあるが、腹を据えて城に籠り、それなりに戦って見せたな。貴様には劣るが」
長く寝ていたせいで多少ふらつくことがあるからと、杖を片手に持つようになった父ではあったが、話しぶりや表情などは以前と変わらなかった。逆に父は俺の顔を見て暫く絶句していたから、俺の形相は随分とみすぼらしいものになってしまったのだろう。
「貴様はこれより美濃へ返す。後の事は心配せずに寝ておるがよい。今まで寝ていた俺の代わりだ。今度は貴様が寝る番だ」
父が笑いながら言ったが、俺は一緒になって笑いはしなかった。
「母はどうなりました?」
「御坊丸に付いて行きよったな。無体には扱われぬという確信があったようだ。貴様に対しては、心配する必要はないと言っておった。もっとも、心配するなと言うよりも先に直子の方が貴様の事を心配してどうにかなりそうな様子であったがな」
そうですか、と、力の入らない体で答えた。安心して、どっと身体から力が抜けた。丸山城の戦いにおいて、全身至る所に傷を負った。安心したせいでそれらの傷がやたら痛み、体から力が抜けてしまった。
「父上は、病み上がり故御無理をなさらぬ方が」
「宇佐山の勝利と丸山を守り切ったことで大勢は決した。調略も仕掛けてある。三好は近く自潰する。寺社勢力の纏まりの悪さも露見した。畿内全域もひと月かからずに取り返せよう。後は、倅を苦しめてくれた礼を坊主共相手にするだけだ」
最後の一言だけ、父の声が低かった。その父に一つ俺は頼もうと上体を起こした。
「石山本願寺は、此度敵に回らずにおりました。彼らの立場を思えば非常に困難な事と」
「帯刀」
言葉を遮られ、俺は頷く。優しく肩を叩かれ、大丈夫だと言われた。
「貴様にとっても悪いようにはせぬ。今は後の事を忘れ、岐阜城で療養せよ。皆待っておるし、直子に手紙を書けば安心しよう」
頷いた。兵達の弔いや、論功行賞、戦場の片付けなどしなければならないことは幾らでもあったが、父は全てを任せろと言ってくれた。その言葉を信用し、眠った。何度となく、まだ戦いが終っておらず今正に敵の槍が俺の腹に伸びて来るというような夢を見た。うなされる度に起こされ、そしてまた眠る。それを繰り返しながら、三日後、俺は横たわることの出来るように特注した籠に乗せられて北へと向かった。
何も考えないようにとは父に言われていたし、自分自身でもそうしようと思ってはいたのだが、帰りの道中に様々な話が入って来ることで俺は嫌でも今後の事について考えてしまった。
信広義父上が死んだ。そして、直政伯父上も死んだ。原田家はほぼ壊滅状態であるらしい。もう一つ、その戦において何と村井の親父殿も手傷を負ったらしい。戦場の後方にて、偶然弾が腕に当たったそうだ。幸い甲冑越しであった故に大事には至っていない。
信広系織田家と原田家、俺はこの二家について一人で何とかしなければならなくなった。村井の親父殿はハルが産む俺の男子を村井家の跡目にと考えているので、併せて三つの家について考える必要がある。信広系織田家は恭に男子を産んでもらい、跡を継がせる以外に手はない。名前も、織田ではなく津田を使うか、或いは惟住や惟任の如く、由緒正しい姓を頂戴することにしよう。原田家は出来れば母の腹から産まれた子が継ぐのが望ましい。だが御坊丸は母と一緒に甲斐にいる。藤に夫を迎えてその夫に原田家をというやり方もあるが時間がかかる。俺の体調が回復したら実質俺が率いるしかないだろう。今度は原田の姓を名乗る羽目になるのだろうか。
「死んじまったな……」
人が死ぬ。死んだ者にとってはそれで終わりかもしれないが、その周囲にとってはそこがまた一つの始まりだ。体一つを失ったところで、その者の人生が消えて無くなるわけもなし。生き残った者は、埋めがたい穴を何とか埋め立て、忘れられない思い出を後生大事に抱えて生きてゆく。
「景連、おししょうさま」
そうやって考えているうちに、俺は移動の最中ずっと、死んだ者達について考え続ける羽目になってしまった。大宮景連という、今の世に合っていない昔気質で生きるのが下手な男。前田慶次郎という、面倒見がよく優しく、そして派手好きな男。幼い頃に出会い、意味も分からぬ子供に対しておししょうさまと呼べ。と言って来た。その傍にいればいつでも楽しく、その後ろにいればどこでも安心出来た。二人はもういない。
輿は六日程時をかけて、ゆっくりと俺を美濃まで運んだ。途中入って来た報は、彦右衛門殿が敵を押し返し熊野速玉を再び攻撃しているとか、河内と和泉をそれぞれ権六殿と羽柴殿が奪還したとか、十兵衛殿が籠城戦を戦い切り、摂津での戦いが終わったとか、ひと段落したら大和・紀伊攻めが始まるとか、概ね織田家優勢を伝えるものだった。
かつて、初めて失った家臣松下長則について考えてみたりもしつつ、美濃に帰り付いた日は蝉時雨が降り注ぐ暑い日だった。先ぶれは出ていたのだろう。俺を迎えるにあたり多くの者達が外に出てきている。
「出迎え大義である。今もって弾正忠様や御家臣の方々は戦のさ中にあるゆえ、派手な歓迎などはせずとも良い。暫く、療養の為に居座る」
そのようなことを手短に伝えると、その話を聞いていた人垣がスッと割れた。後ろから出て来たのは我が妻、恭であった。
「恭……」
「ご無事で何よりでございます」
その姿を見て、俺は固まった。見慣れている顔だ。とりたてて肥った訳でも痩せたわけでもない。今となっては俺にとり誰よりも愛しい顔ではあるが、市姉さんや犬姉さんのような美女という事でもない。それでも、その恭の姿に俺は言葉を失い、そして立ち竦んだ。
「御家臣の皆様の事は、お辛かった事と存じまする」
炎天下において、そこだけ気温が失われたのかと思う程の涼やかな空気が流れていた。侍女が日傘を差し、付人達は皆気づかわしげにその左右を固めている。
「けれど、お辛いことばかりではございませんわ」
慈愛に満ちた表情で俺に近付き、そのまま身を寄せた恭。その体を、俺はおっかなびっくり支える。
「失う命があれば、必ず、産まれ出ずる命もございます。殿、この子に名前を」
恭の腹が、膨らんでいた。




