第八十三話・当代無双の者
形勢逆転、という言葉がぴったりと嵌まる。それは見事なまでの形勢逆転だった。
敵にも味方にも気が付かれないまま、戦闘の渦中へと躍り込んだその男は、刀一振りごとに必ず一人を屍に変えてゆく。重心がどこにあるのか、視線がどこに向いているのか分からない不思議な構えで、舞うように人の間を縫い、ゆったりとした動きで僅かに身体をずらせば、絶妙な間合いで相手の攻撃をかわした。いつの間にか、俺は戦うことを止め、倒れた仲間達を介抱し、そうしながら視線はその動きを追い続けた。
「…………このようなことです」
たった一人で十四、五人程を切り伏せ、残った者達が逃げ出した後、息一つ乱すことなく俺に近付いてきた。最初に言った言葉はそれだった。彼の性格を知らない人間であれば、何の事だと当惑しただろう。構えが悪い、という言葉からの、模範演武であったのだと俺は理解出来た。だがこれ程の修羅場があった直後の一言としては適当であるのかどうかには疑問符を付けざるを得ない。
「久しぶりですね、疋田殿」
剣聖・上泉信綱の一番弟子にして免許皆伝者である男、疋田景兼。最早教えることがないと言われ、本人すらもはや自分より強いものなどいないと達観し、強さを求めることなく、ただただ個人の武において最強である男。
「積もる話もありますが、今手が離せない。話は丸山城ででも良いですかね?」
「元より、伊賀守様を無事丸山城まで連れてゆくことを目的としておりまする。これよりの道行きはどうぞご安心下さい」
俺の質問に、疋田殿は泰然とした態度で答えた。俺との会話中であるが視線は俺に向けられておらず、かと言ってそっぽを向いているようでもない。強いて言えば周囲全体を広範に見据えるような体勢での会話だった。無礼とは言えないだろう。まだ他に刺客がいるかもしれないのだ。疋田景兼ただ一人の存在をもって安心している俺達がいる。ならばその本人は全員分の警戒をする必要があろう。
完全に敵の気配が消え、最早安全と判断したのだろう。暫く周囲を見回していた疋田殿が、懐紙で軽く刀を拭いてから鞘に納めた。普通、刀というものは四人か五人を切ればそれで切れ味など失うものだ。刀の問題ではなく、人間の身体に血が通っているからそうなる。血糊という言葉があるように血とは粘り気があり、油分が多い。普通、十五人も切ればとっくに刀が血で覆われるか、さもなくばひん曲がったり下手をすれば折れたりする。剣豪というものはそのような常識をもひっくり返すのだろうか。
刺客の手によって倒れた五人のうち、四人はその場で介錯をした。遺体は近くの村にて一時預かってもらい、後日連れ帰ると決めた。ただ一人、彦五郎だけは介錯に対し、首を横に振って答えた。首筋に刃を受けているのだ。太い血の管が切断されているだろう。そうなって死なない人間を俺は知らない。疋田殿ですら、苦しむだけと言っていた。だが、それでも彦五郎は朦朧とした意識の中で、ゆっくりと首を横に振り死を拒んだ。
止血をし、薬を塗り、そして安静とすべく遺体を預けたのと同じ村で介抱して欲しいと頼んだ。死んだとしても咎めはない。先に銭を払い、次来た時に又支払うと伝え、村を出た。
今回彦五郎を含めた五人が死んだのは間違いなく俺のせいだ。仮にも十万石、一国を収める人間が身軽であるからといって供をたった十名にまで減らして人気のない道を往来するなど危険極まりない。五十人連れて来ていれば、そもそも襲われることもなくよって誰一人死ぬことは無かっただろう。
反省と共に丸山城に戻り、事の次第を主だった家臣達に直接伝えた。景連に怒られるかと思ったが逆に謝られた。無理やりにでも護衛を付けなかった自分の責任であると。
「古左も、大和との街道筋で襲われ、足を負傷したとの由にございます」
謝る必要まではないと言いかけた俺に景連が言った。突如切りつけられ足を負傷した古左は戦うことなく馬で逃げ、今は大和の筒井順慶殿の世話になっているらしい。俺も古左も命に別状はない。だが、古左が逃げる際、街道を切り拓く為に雇った民が十名程死んだ。そのような職場で働きたいと思う者はいないだろう。故に、少なくとも伊賀村井家としては暫く国境の街道整備は棚上げにせざるを得ない。
「やはり顕如でしょうか?」
嘉兵衛が言う。斃した者達の衣服は当然調べた。服の刺繍には金成瓢箪の馬印、更に木下家、竹中家の家紋などが見つかった。それを見て驚いたのは蘭丸ただ一人で、それ以外の者達は皆成程という表情を作った。
「顕如であると見せかけての全く別の勢力という事も考えられる。熊野三山も高野山も、なりふり構わなくなりつつあるのは変わらないでな」
重々しく、前田蔵人利久が言った。犯人探しになど意味はないでしょう。と慶次郎が言ったので、確かになと皆が納得しともあれ俺が無事であったことが良かった。今後は警護を厳重に、という話し合いが成された。
「あの……羽柴様ではありませんので?」
誰一人として説明をすることなく話が進んでしまったので、ただ一人理解が追い付いていない蘭丸が言った。その蘭丸を見て、少々ささくれ立っていた皆が微笑むように笑う。
「あの羽柴殿が人を暗殺する際に己の家の馬印や家紋を使う訳があるまい」
恐らく、俺と竹中半兵衛が不仲であるという話を聞きつけてこのようなやり方をしたのだろう。首尾よく俺を殺せればそれが一番良し。もし失敗しても俺と羽柴殿が対立するようになればそれはそれで良し。
「疋田殿も、計ったかのように現れ、助けて下さった。御礼申し上げますぞ」
少しだけ空気が和んだ時に、助右ヱ門が微笑みながら言った。笑顔でもあるし、事実本当に感謝しているのだろうが、感謝の中に質問が隠れていた。『偶然にしては出来過ぎていないか?』と。
「実は、後を付けておりまして」
あっさりと、疋田殿は問題発言とも取れる一言を言い放った。どういう事だと誰かから聞かれるより先に続ける。
「原田直子様から頼まれました」
場が騒めく、母上が俺の後を付けろと言ったのですかと問うと、いいえと言われた。どういう事だ?
「後ろから追うとは、羽柴様が」
また場が騒めいた。ならば、母上と羽柴殿が何か話をしていたのですかと問うとそれにもいいえと答えられた。
「前田、又左衛門様が」
「又左衛門が?」
弟の名が出て来て、蔵人がいぶかしげな表情を作った。確かに母上とも羽柴殿とも仲が良いが、一体どういった風の吹き回しであろうか。
「帯刀様は、賢いが時折油断をと」
「又左殿が言ったのですか?」
「いえ、それは直子様が」
もう訳が分からなくなり、一から丁寧に話を聞いた。以下回答。まず母が手紙で疋田殿を呼び、これから物騒になるかもしれないので公開討論が終るまで護衛をしてくれないかと頼んだ。それに応じて古渡城に出向くと、たまたまそこにいた又左殿に気に入られ、美濃関ヶ原辺りまで送ってくれた。そこで、羽柴殿に対して紹介状のようなものを又左殿から貰い、羽柴殿に会いに行った。羽柴殿は俺が伊賀と京とを頻繁に往来していることを知っており、その危険性にも気が付いていた。折しも間もなく俺が京から伊賀へと戻るという情報が入った。そこで、合流するよりもむしろ後ろをつけ刺客を返り討ちにすれば今後の帯刀殿が安全となるのではないかと言われそのようにした。ここまでの理解をするのにざっと半刻かかった。
「後ろに疋田殿がいたこと、気が付いたか?」
俺が問うと、五右衛門が悔しそうに首を横に振った。疋田殿はその五右衛門を見て、貴殿がいたので苦労したと答えた。本当はもっと近くで尾行するつもりだったらしい。五右衛門がいるからかなり遠くからの尾行となり、結果助けに入るのが遅れたそうだ。
「お陰で無用の人死にが」
そんな風にして頭を下げられたので、とんでもないと言って頭を上げて貰い、この日は一旦解散となった。疋田殿はしばらく我が家の客人兼剣術指南として過ごすことになり、翌日、何が食べたいかを聞くとピザと言ってきたので早速ピザ作りをすることにした。漸く試作品としてできたばかりの醍醐を一日二日で全て使うことになるが構いはしない。
「相変わらず、香しい」
「疋田殿の食べ物の趣味は正直よく分かりませんね」
ピザ用の窯を作れる程の生産力はまだなくパン用の窯でピザを焼く。パンを膨らませ、膨らませたパンを手で回して平べったく伸ばし、それから具材を乗せ、チーズをかけ、窯に入れるまで全ての作業は疋田殿が自ら行った。あれから折に触れピザの作り方を空想していたらしい。こんなに強いのだから、出来れば最強の剣術とは何ぞや? というようなところで頭を使って欲しい。
「直子様が、あの子を助けてくれたらその回数と同じだけの枚数ピザを食べて良いと」
「報酬が安い」
即ち俺の命、安い。
窯に入れたピザが焼けるまでの間、俺達は窯の前で稽古をした。出来れば足場の悪い山中や草木の深い場所での訓練をと頼んだのだけれど、疋田殿がここが良いと言うものだからそうなってしまった。疋田殿は『師匠が作った』という短い説明の後、俺に竹刀なる稽古用の剣を渡した。竹を割り、革を被せて筒状に縫い合わせ、保護したもので、その形から袋竹刀と新陰流では言っているらしい。思いのほか使い勝手が良く、肩や脚などを打ち込まれても少々痛い程度だった。刀であれば身が切れるし、刃引きをした刀や木刀でも骨が砕ける。だがこれならば多少の会話をしながらでも稽古が出来る。『構えが悪うございます』と言われて体の至る所をピシピシと叩かれるのは昔通りだ。
この日、三つの報せがあった。まず東から大きな報せ。公開討論から逃げたことで京童よりの嘲笑を一身に浴びていた覚恕法親王が帰洛し、京にて公開討論の場に出る意向を固めたという報せ。武田信玄の後援を得、そして美濃を通る際に覚恕法親王殿下は道中岐阜城に一泊する。途中立ち寄る岩村城にて出迎えの準備をする母からの報せだった。天台座主の意地を見せると息巻いているらしい。多数の論客を引き連れ、自分の代わりに論陣を張らせる腹積もりのようだが、それでも舞台に上がるだけ潔い。
たっぷりと醍醐がかかったピザが焼け、一時稽古は中断となった。俺は炭酸水を用意し、ピザと共に疋田殿に勧めた。目が飛び出るのではと思えるくらいに見開いた疋田殿はそのまま全身を戦慄かせていたが、そんな『おいしい』の反応があるものかねと、俺は心密かに引いていた。素晴らしい取り合わせの食事を教えてくれた礼にと、面白い芸を一つ見せてくれた。窯の上に置かれたピザの前に立ち、刀を一振り。場所を変え、もうひと振り。四振りするとピザが綺麗に八等分されているという芸当だ。とんでもなく凄いと思う。だが、才能を無駄に使っているとも思う。疋田殿は、折角帯刀様から頂戴した刀が美味しくなってしまいましたと言って拭いていた。
ピザを食い終わった後に来た二つ目の報せは西から。怪我した脚に包帯を巻き、大急ぎで戻って来た古左は襲撃のあらましを俺に伝え、討ち取った敵兵の身の回り品から葵紋が見つかったと言った。葵と言えば三河徳川家の紋だ。
その報告を聞いて、改めて羽柴殿が敵ではないと確信出来た。恐らく別の織田家武将が襲われた場合、俺が暗殺の下手人なのではと思える証拠が見つかるのだろう。勘九郎を襲った者達の黒幕が俺で、目的は織田家の家督を得る事。辻褄としては合致する。
すぐに父に対して手紙を書いた。事のあらましと、こちらは織田家の家臣・同盟者を疑うような真似はしていない。逆にこちらを疑うような者がいたら宜しく言って欲しい。という内容だ。
仕掛けて来ているのは織田内部に不和を生じさせようとしている顕如。というところは当然考えた。更に、事が露見しても全て責任を顕如に押し付けてしまおうと考えている毛利・武田・上杉そして公方様。というところまでも考えはした。まさかそんな馬鹿正直な真似はするまいと思わせておいて本当は本当に羽柴殿や徳川様が下手人。というところまでは考えないようにした。そこまで周りを信じずに考えてしまうと、最早父や母まで疑うことになってしまう。
三つ目の報は単なる奇跡だった。襲撃者にやられ、首筋を深々と斬られた彦五郎が、何と回復しつつあるとのこと。稽古を再開させた疋田殿が驚きに目を見開いた。ピザ関係以外で初めて驚いた顔を見た。ピザ凄い。じゃなくて、彦五郎良かった。
「そろそろ日が暮れますな。夕餉にピザでも」
「いや好きすぎるでしょ」
ああいった面白いけれど体に良いとは言えない食べ物は一日に一食までと我が家では決めているので、日が暮れる前に丸山城へと戻った。不満そうな顔をされたので明日又作りましょうと言うと納得してくれた。但し醍醐は間もなく尽きる。
「そういえば、あれはどのようにしたのですか?」
帰りの道中、ふと思い出して質問した。刺客を返り討ちにした際の事だ。一本の刀で十数名を斬っていた。
「血糊で駄目になるでしょう?」
昨日城に戻ってから砥石はかけていたようだが、それでも切り合いの途中にかけたわけではない。どうやったら十名以上の人間を一本の刀で斬れるのか聞きたかった。
「戦いながら拭き、砥ぎます」
疋田殿は何でもない事のようにそう言った。拭く、砥ぐとは? と訊くと俺の肩口に手刀を軽く当てた。
「斬りながら、このように」
「相手の、服で、拭く。という事ですか?」
俺の質問に疋田殿が頷く。嘘だろ? 斬りながら?
「研ぐというのは? 服は砥石のように固くはありませぬ」
「敵の刀、鎧甲冑、それに骨」
絶句した。それらを使って、戦いながら研ぎ、血糊を拭いていた。どういう才能を持っていたらそんなことが出来るのか。
「相手が皆、武の心得があって助かりました。素人の動きには合わせられませぬ故」
それを運の良さと人は呼ばない気がするが、しかし疋田殿は本気で言っているようだった。
「もし出来るようになりたいのでしたら」
ふと、話しかけている疋田殿の声が止まった。いえ結構ですと答えようとしていた俺の動きも止まる。暫く停止していた疋田殿が、おもむろに自分の懐に手を伸ばす。そうして、取り出したる手紙一通を俺に手渡した。
「直子様からです」
そう、疋田殿が言ったのとほぼ同時に、街道沿いの道から一人の男が姿を現した。
無双の剣。俺が百度立ち合いをして百度負けると言い切れる人物が疋田景兼殿であるのならば、同様に百度論戦を行って百度負けると言い切れる男。
受け取った手紙には、その者来たる戦いにおいて良き助言者となるでしょう。と、一言書かれていた。
「受けた御恩を返しに参った」
元比叡山の僧、随風がそこにいた。




