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信長の庶子  作者: 壬生一郎
村井重勝編
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第七十七話・若いキツネと三十路のタヌキ

 反りの入った刀を上段に構える。目の前に立ち塞がるは青々しく伸びた竹。右手で刀の柄の根を、左手で端を持ち、小指から締めるように握る。大きく息を吸い、そして吐き、もう一度吸って口を閉じた。


 「ふっ!」


 鋭く小さく息を吐きながら竹を右上から左下、袈裟懸けに切り下ろす。振り下ろした勢いが消えないうちに今度は左から右に振る。最後に、右下から左上に切り上げた。


 竹が都合三度斬られ、バラバラと地面に落ちる。コンカン、と硬い音が地面で鳴り、その後、見学していた忠三郎の家臣達が口々に『お見事にございます』と言い手を叩いた。


 「こんなところだ、忠三郎。剣の腕前は俺の方が上。ということで良いな」

 俺より二つ年下の義弟蒲生忠三郎賦秀が、ぐうと唇を噛み、それから渋々と言った様子で頷いた。


 「まあ、悪くはなかったぞ、またいつか時間がある時に相手をして進ぜよう」


 面構えから立ち居振る舞いまで、何をどうとっても乱世の武士といった風情を持つこの義弟は父のお気に入りだ。何しろ、元は観音寺城攻めにおける敵方の武将の息子で、人質として織田家にやって来た少年であったのだ。それを一目見て只者ではないと言い、当時たった二人しかいなかった娘のうち一人を嫁にやると決めた。徳はその当時既に徳川家に嫁入りを終えており、残りの一人は勝子殿の娘相だ。当時古渡城にて共に暮らしていた俺は初めて起居を共にする妹が出来たことが嬉しく大層可愛がった。茶筅の丁度八倍可愛かった。


 「あ、義兄上! 立ち合いを、何卒一度立ち合いにての勝負をお願い致します!」


 父の眼力を俺は高く評価している。敗勢において最後まで意地を通し抵抗した父君や、或いは坂本退き口の際に華々しく討ち死にしてみせた叔父、青地茂綱殿の血統は見事に受け継がれ、武に長けて勇敢であり、家臣からも慕われている。今日何の気なしに仏教や基督教の話などを振ってみると、『南蛮渡来の基督教とはそもそも教えの根本が仏教や儒教とは異なり……』などと語って聞かせてくれた。賢くもあるようだ。ただ、現在織田家と敵対している仏教勢力の多くを嫌い、逆に織田家と協力関係を築いている基督教などを好いているなど、悪く言えば性格が短絡的ではある気がした。だがそれも、良く捉えれば一本気と言えなくはない。俺のように敵をして、彼らもまた同じ人間であるのだ。などと考えてしまうよりも楽しく自由に生きられるかもしれない。


 「何だ、もう幾つも勝負はしただろう?」

 「武士にとって勝負とは刀での打ち合いが本義にて、某最後に一度、一度だけ義兄上と勝負させて頂きとうございます」


 必死になって頼み込んでくる忠三郎。それも無理はない。無理はないというか、俺のせいだ。俺は以前より『兄上より弱い男と結婚してはならない』などと相に言って憚らなかった。そして、素直な相はその言葉通り忠三郎に聞いたらしい、兄上よりお強いのですかと。勿論強いと答えた忠三郎。だが、以前勝負した時には俺が勝った。それ以来、忠三郎は俺と再戦する機会を待ち望んでいたらしい。此度も、父の護衛や徳川家、浅井家の方々をお迎えする任務の合間を縫っての勝負だった。十八歳になった忠三郎は背が伸び、腕も足も太く、立派な青年となっていた。だが、それ以上にその眼が強いもの特有のそれであった。森家の嫡男長可も同じ目をしており、又左殿や内蔵助殿も稽古の為立ち会うとあのような据わった目をする。そんな忠三郎と再会し、その姿を見た瞬間、俺は悟った。これは勝てないと。


 勝てないことを理解した俺は本来、大人しく忠三郎に負け、相にも負けたことを報告するのが筋なのだろう。だが、俺は負けたくなかった。俺が負ければこれからずっと相は俺を見て『忠三郎よりも弱い』と思うのだろう。それだけは避けなければならない。


 こうして俺は、木刀で実践稽古をすることを危険であるからと言って避け、俺が勝てそうな方法でもってのみ忠三郎と戦うことにした。最初は、貴族の遊びとされる扇を使っての的当て。広げた扇をふわりと投げ、誰が最も的に近付けたかを競う遊びだ。母に習ってこの遊びのコツを知っていた俺は、全く未経験の忠三郎に対して勝利、俺の勝ちであると主張した。


 その後、相撲で勝負と言われ、まともなぶつかり合いでは勝てないと踏んだ俺は『指』相撲、『押し』相撲、そして通常の相撲と、相撲三番勝負で勝負することを認めさせた。手を握り合った状態で、親指を動かして相手の親指を抑えたら勝ちである指相撲は母の特技だ。これに何とか勝利した俺は次なる押し相撲でも勝利、連勝した。その後本当の相撲ではあっさり負けたが通算成績は二勝一敗。俺の勝ちだと高らかに宣言した。


 更に、業を煮やした忠三郎が直接打ち合おうと言ってきた為、たった今していたように真剣を使いどちらの剣の腕が優れているのかを見せ合った。この勝負も又、幼い頃から竹に親しんできた俺が極めて有利な内容であった。無抵抗の竹を斬るという、刀の腕前を見せるようでその実、何一つ実践とは関係のない勝負でもって三連勝を収めたということだ。


 さてこうして逃げ切ったと思ったところに、最後に一勝負と言われてしまった。どうしたことか、重ねて言うが、まともに木刀で立ち合いの勝負などしたらまず勝てない。可隆君や森一族の男達がそうなのであるが、勝負となった時の闘争心が違う人間というものは確実にいる。忠三郎もその一人だ。今俺と忠三郎との剣の腕がそこまで大差あるとは思えない。だが、大差ないからこそ加減が出来ず大怪我をする可能性が高い。そして、怪我をさせられる側は俺である可能性が大半だ。


 「仕方がない。ひと勝負しようか」

 どうにか逃げ出す方法はと思い周囲を見回していると、そこに一人、近づいて来る男の姿が見えた。かすかに足を引きずるような動きを見せるその男を見て、内心でほくそ笑む。


 「ありがたき幸せ! 誰ぞ木刀をもて!」

 俺の返事を受けてニヤリと笑った忠三郎。すぐに木刀が用意され、俺は持たされた木刀を二度三度と振るい、握りを確かめるなどしつつ時を稼ぐ。


 「伊賀守様」

 さあ勝負、という頃になり、近づいてきた男から話しかけられた。小柄で細面、少々青白い顔色をしており、一見すると不気味というか、不吉そうな容姿を持つその男はかつて俺が大和で知遇を得た男。


 「おや、これは本多殿、徳川様がお呼びですかな?」

 あたかも今気が付きましたという表情を作りながら訊くと、男、本多正信が頷いた。


 「忠三郎。すまぬが徳川三河守様から呼ばれてしまった。徳川様をお待たせするわけには参らぬ。勝負は又次の機会に」


 言うと、忠三郎が苦汁の表情を作り、しかしそれでもはいと頷いた。危ないところであった。勝負から逃げ、負けはしなかったものの本当に忠三郎は強い。相に対しては忠三郎は本当に強い男であるので、これからは兄より強いかどうかを気にせず、彼に尽くしなさいと手紙を書こう。


 俺と本多正信は城の外から城内、現在徳川様とその御家臣一同が起居している一角へと向かい、そこで此度の三者会談の主役が一人徳川三河守家康様にお会いした。


 徳川様は一見すると、小柄かつ平均的な体格で、表情を見ても容姿を見ても取り立てて特徴が無いことが特徴の、平凡な外見をしておられる。この方を見て、今川家の人質から東海二国の覇者と成り上がった人物であると見極められる者は中々いないだろう。


 「お久しぶりにございまする、徳川様」

 姿を見てすぐ、そう言って跪くと、徳川様は鷹揚に微笑んでその儀ご無用、と俺を立たせた。


 「大和では、この者が世話になり申した」

 意外にも、徳川様の一言目は自分の過去の話や父上の話ではなく、俺をここに連れて来た本多正信の話であった。


 以前、慶次郎と助右ヱ門の二人に連れられて弾正少弼殿の治めていた大和へ向かった時、この本多正信と少々会話をした。一向宗として主である徳川家康様に歯向かったが、恨みはなく寧ろ感謝しているという話であった。その当時の俺はもし再び徳川様にお会いする機会があれば貴殿の事をお伝えしておくと言っておいたのだが、それから俺が三河に出向く機会はなく、お会いすることは叶わなかった。代わりに手紙でもってこのような者がおりましたという話はしていたのだ。俺の手紙が作用したのかしていないのか分からないが、時を経て本多正信は再び徳川様の元へと戻りそして腹心の一人となった。


 「世話になったはこちらにございます。徳川様におかれましてはご健勝のご様子、お変わりなくおられることをお喜び申し上げまする」

 言いながら頭を下げると、徳川様がにこりと微笑みながらゆっくり頷いた。


 「背が伸びましたな」


 頷いた。あれはまだ永禄五年の頃の話、俺が九つの時だ。十年以上も昔になる。当時の徳川様が確か今の俺の年、今年徳川様が三十一となられた。


 「徳は、元気にしておられましょうか? 御嫡男次郎三郎様にご迷惑などお掛けしておりませぬでしょうか?」


 徳川様は父と比べれば子が少なく、男女それぞれ一人ずつしかいない。その内の一人、徳川次郎三郎信康様は徳の夫だ。幼名の竹千代も、呼び名の次郎三郎も父である徳川様と同じ。名の信康の信は当然のことながら父から一字拝領したもの。徳と信康様の縁組み織田と徳川の硬い縁を象徴するものであり、一刻も早く子がなされることを両国の誰もが期待している。


 「恙なく」


 俺の質問に対して、しかし徳川様の返事は短かった。そしてそのまま会話が途切れてしまう。徳川様は俺の事をまじまじと眺め、本多正信はそんな主を見て特に何かを言うでもなく側に控えている。俺の護衛には五右衛門一人がいるのだが、五右衛門は俺から話しかけない以上自分から口を開くことはまずない。


 「そ、某に何か話でもございましょうや?」

 沈黙に耐え切れず、そう質問してみた。徳川様は表情を変えずに小さく首を横に振る。人となりを、見たかったのですと小さく一言。


 「一局、如何でしょう?」


 その時、いつの間にか駒と盤を用意していた本多正信に言われた。ホッとする。無口な方と長く一緒にいるのは苦手なのだ。周囲が皆饒舌な方々ばかりであるからして。恭が側にいる時はどれだけ沈黙が続いても嫌な気はしないというのに不思議なものである。


 徳川様に対し、手で王将を指し示す。徳川様は軽く頭を下げて王将を自陣の中央に置いた。俺も玉を自陣中央に、続けて金、その次に銀と、暫くは両者がパチパチと音を鳴らして駒を並べる時間が続く。


 「徳川様は、尾張で何か美味いものでも召し上がられましたか?」

 「別段何も」

 「そうですか、まあ、三河と隣ですからね、余り変わり映えはしないのでしょう」

 「はい」

 「そういえば、以前母が徳川様の御領地から雪を頂戴したことがございました。あの折は母が大変お世話になりました。遅くなりましたが御礼申し上げまする」

 「お役に立てて、何より」


 序盤、俺は端から歩を突いて上がってゆき、徳川様は王を囲んで早くも長対陣の構えを見せた。

 「雪で、シビを食うたと」

 「シビ? ああ、はいその通りでございます。尾張ではいまシビをマグロと呼んでおりますが。知っての通りシビが死ぬ日に通じ縁起が悪いからでございます。獲れたマグロをすぐにしめて氷で冷やすと非常に美味なる魚となるのです」

 「良き試みを多くしますな」

 「良きと仰せになって下さるは有り難きことなれど、悪しき試みも多くござる。よく分からぬ装身具を男の胸元に付けさせようとしたり、五畜の肉を食おうとしたり、周囲の者も日々何が起こるか戦々恐々としております」

 「帯刀殿もです」

 「某ですか? 某は、大した試みをしたことはございませぬ。父や母の二番煎じばかりで、かつて行った帯刀仮名やら漢字の編纂も、母からの指導の元行ったことでござる故、実質母の手柄なのです」

 「伊賀衆の心を掴まれた」

 「伊賀衆の心、ですか?」


 言い、盤面に向けていた視線を上げた。盤上は序盤戦の所謂駒組みと呼ばれる状況が間もなく終わりを迎えようとしていた。どちらか歩を一つ進めれば、同歩同桂同銀と、一気に潰し合いが始まる。俺は、自ら殴り合いに向かう度胸がなく王周辺を固めた。


 てっきり、伊賀衆の心を掴んだという言葉について語られるのかと思い待っていたのだが、徳川様はそれ以上何か言うこともなく長考した。そして、長考しているそのさ中、徳川様の腹がぐうと鳴った。徳川様が目だけでこちらを見、気恥ずかしそうに微笑む。


 「頭を使うと腹が減りますな。如何でしょう徳川様、某が食事を用意させて頂きとうございます。温かいそばに、天ぷらなる衣をつけて油で揚げた魚介や野菜を載せたものが冬の間は人気なのですが」

 今のところ、天ぷらを不味いと言った者はいない。あれは母が行った試みの中でも有数に良い物だった。


 「ご相伴に与ります」

 言いながら、徳川様が歩を上げた。全面衝突の構えだ。


 「よし、五右衛門、天ぷらそばだ。徳川様御家中の全員にお出しする」

 「はっ」


俺がその歩を自分の歩で取りながら言うと、五右衛門が短く返事をして部屋を出て行った。すぐさま徳川様が桂馬で俺の歩を取る。そしてその桂馬を俺が銀で取る。取って取られての戦いは一気に盤上全体に燃え広がり、それから半刻程度で大局は決定した。


 「……負けました」


 大勢決してから更に半刻。粘りに粘った俺であったがついに力尽き、降伏を宣言した。優勢になった者が詰めを誤り、逆転されるということは実によくある話であるが、徳川様が詰め筋を読み間違えることはとうとうなかった。


 「敗北するのであれば、早めにしてやれば無駄に将兵を殺さずに済んだのですが、下手に抵抗してしまったせいで惨めな最期となってしまいましたな」


 壊滅状態の自陣を見ながら言う。徳川様は、良き粘りでしたと、やはり言葉少なだ。ただ、この一局を指している最中は楽しそうにしていた。それだけでも良かったと思う。


 「殿、そばの準備が出来ましてございます」


 丁度その時、というよりはその時を見計らっていたのだろうが、一局終わり、いったん休憩という段になって五右衛門が一言俺に言った。すぐに持ってくるように言う。俺達が食べなければ家臣の者らが食べられない。食い切るにせよ残すにせよ、まず一口めを食べなければ。


 「もう一局如何です?」

 徳川様に言われた。今度は囲碁盤が手にある。宜しいですよと答え、お互いにさっさと序盤の布石を置いた。徳川様が白、俺が黒。


 「行儀が悪いですが、食いながら打ちましょうか」


 母は何か物を食いながら別の事をされるのが大嫌いなので出来ないが、こうして母がいない時に多少の無作法をするくらいは良いだろう。徳川様がにっこりと笑って同意してくれた。蕎麦が運ばれてくる。大ぶりの椀にかつお節と椎茸で出汁を取り醤油で味付けした汁。麵の上にはたっぷりの葱とわかめ、そして更にその上に天ぷらが乗る。


 「少しつゆを付けて、食べてみて下さい」


 衣をつけて油で揚げる料理自体はないこともないので、説明などしなくても大丈夫な気もしたが、一応一言伝えておいた。徳川様が頷き、盤上、右上の星あたりで最初の戦いが始まる。ふむ、と考えながら徳川様が手元を見ずにかき揚げを齧る。盤上を睨み付ける徳川様の目がカッと見開き、そして


 「うみゃあ! 何だこれは!?」

 室内に響き渡るでかい声でそう叫んだ。


 その日一日、俺と徳川様は盤上にて会話をした。俺は囲碁も将棋も一局たりとも勝てなかったが、しかし徳川様との勝負は楽しかった。そして、会話少なではあったものの、この日俺は十一年ぶりに、徳川様と知遇を得ることが出来た。


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