第七十四話・清洲三国同盟
犬姫様即ち、父信長の妹であり、浅井長政殿に嫁いだ市姉さんの妹でもある。俺から叔母上と言われることを嫌い犬姉さんと呼ばせる織田家の狂犬だ。
「それは……宜しいので?」
普段であれば文句は言わない。母がこうして口に出したということは恐らく父に対しての根回しは終わっているのだろうし、暇をさせておくよりも何かやらせておけというのが父の考えでもある。だが、犬姉さんが夫佐治信方を失ったのは他ならぬ長島一向宗との戦いが理由だ。犬姉さんにとっては忌まわしい地であろう。
「ご本人はむしろ乗り気でありました。彼の地から一向宗の匂いを全て取り払ってくれると」
何とも犬姉さんが言いそうなことである。
「私としても、織田軍十万、一揆軍十万、合計二十万人の来場者を収容して尚余裕がある長島のキャパに満足しております」
「一応全員必死で戦ったんだからさ、来場者って表現するの止めてくんない?」
貴女の腹心の夫が戦死したのですよ?
「コミケの予行えんしゅ、いえ、平和への地ならしは終わりました」
「今完全に予行演習と言っておりましたが」
何となく釈然としない最後ではあったが、こうして長島三者会談は終わり、お開きとなった。俺と違い、今もって戦いが継続している彦右衛門殿は取り急ぎ紀伊へと取って返し、俺は伊賀へは戻らず、船を使って美濃方面へと向かった。
「ですから、このように敵を、或いは敵の着ている服のみを切り裂いた後、斬鉄剣をしまいながらこう呟くのです『また、詰まらぬものを斬ってしまった』」
「またつまらぬものを切ってしまった?」
「? ではありません。もっと余韻をもって、重々しく、それでいて爽やかにです」
「直子様、拙者は服のみを切り裂くという芸当は出来ませぬが」
「物の例えです。宝箱でも良いですし分厚い鉄板でもよいです。敵同士の絆とかでも良いですよ?」
「ど、どれも切ったことがございませんが」
会合を終えた後、俺は母が岐阜城に帰る為に用意した船に乗り、川を遡上した。母は蘭丸とは既に仲良しで、甘い菓子で手懐け、五右衛門に対しては何だかよく分からない指導を行っていた。
「刀をしまう時も、腰元でしまうよりも顔の前でしまった方が良いですよ。自分の顔がアップでカメラに写っているのを意識して、それからパーンされて次のシーンに」
「五右衛門、何一つ真面目に聞く必要はない。適当に聞き流しておけ」
母に捕まってしまった五右衛門はそのままに、俺は蘭丸と囲碁などに興じていた。俺と蘭丸が一緒にいるところや、俺が何か蘭丸に教えているところを見ると、母は恍惚とした表情で微笑むので何だか気持ちが悪い。
「全く、昔っから帯刀殿はいけずで、母がしたいことをちっともわかってくれませんね」
「ちっともわかりませんが、それでも母上の事を他の誰よりも理解はしているつもりですよ」
母の事を理解出来ないのは俺の理解力不足のせいではない。偏に母の行動が誰にも分らない程度には常軌を逸しているからだ。
「何です? 柄にもなく緊張しているのですか?」
素っ気ない対応を繰り返し、言葉少なになっていると母から問われた。
「それは多少の緊張はしていますよ。そろそろ三者会談が終わる頃合いですからね」
「三者会談など我々もしたではないですか」
「三者が持つ身代の大きさが全く違います」
岐阜城を最終目的地としているこの船であるが、この船が途中必ず寄らねばならない城が一つある。織田徳川の同盟が結ばれた城、清洲城だ。現在彼の地にて父信長が賓客を遇し、会合を開いている。
二年前、北条氏康が死んだ。甲相駿三国同盟を締結した三人の英雄のうち、その二人目が死んだ。死に際し、北条氏康は上杉との同盟を破棄し、武田と再び同盟を結べと言ったという。だが、この遺言が成されるよりも先に、戦国の世に恐ろしい同盟が締結されることとなる。即ち、上杉謙信と武田信玄の同盟、越甲同盟である。
調略や外交の上手さにおいて信玄に一歩譲る謙信と、謙信以外が相手であればほぼ負けなしの信玄。両者は結び、謙信は北陸を、信玄は関東を征そうとした。
この動きに対し、慌てたのは公方義昭様。大名家としての今川が滅んだ東海の戦において、公方様は仲介役を担いその中で北条家の関東管領職就任を認めてしまったからだ。もしも上杉家が北陸を征し、そのまま京へと攻めのぼって来たとしたならば、公方様もただでは済まないことは火を見るより明らか。慌てた公方様は直ちに上杉謙信の関東管領就任を認める。既に十年以上前に認められていた関東管領職を再度追認しただけの事であるが、軍神の機嫌を取ろうと必死であったのだと見える。上杉謙信とまともに戦って勝てるとは露ほども思っていない父も又、様々な贈り物を届け、もし不識庵殿が京に登られるのであれば自分が案内をすると遜った手紙を送った。
武田信玄は父が比叡山から追い、責任を追及した天台座主、覚恕法親王を領地に迎え入れ、権僧正という高位を得ている。こちらはいつ織田家に対して宣戦布告することも出来る状況であるということであり、それがいつであろうと、織田家にとって看過できない事である。父は正月は勿論の事、桃の節句、端午の節句、七夕に重陽と、事あるごとに武田信玄の機嫌を伺う為の贈り物などをしている。その武田信玄は関東へ攻め入り、既に上野を席巻しつつある。
龍虎手を携え東西へ侵攻する。最強同士の同盟は戦国の勢力図を早々に変えつつあり、そしてこの両国の伸張を止める為に織田・浅井・徳川の三者会談が開かれていた。
「内容など分かり切っておりますよ。三河様に対しては遠江の守りを固めるように。その為の援助は惜しまぬと言っているのです。越前様に対しては上杉家が能登に攻め入るよりも先に加賀へと攻め入り、対抗せよと言っているのです」
「……まるで、知っているかのように話しますね」
俺もそのような予想は立てていたが、随分と自信満々に言うものだ。
「殿から直接聞いたことですので」
何か、尻尾でも出さぬものかと思い少々際どい聞き方をしてみたのだが、母はふふんと笑いながら言った。成程、それならば間違いない。知っていて当然だ。
「越甲同盟の東、相模の新しき主はこの同盟に対抗できますか?」
「少なくとも無為無策に敗れるようなことはありません。家を滅ぼす暗愚とも成り得ますし、天下を掴む英雄とも成り得る御仁です」
「そうですか、今のところ上野を難なく奪われてしまったような印象を受けますが」
問うてみた。それに対して母は動じることなく答える。
「あの土地は長らく北条と上杉の綱引きが続いておりましたからね。どちらに付くのもこりごりという国人衆が多くいたのです。となれば調略において東国無双の武田信玄が有利です。北条の四代目、氏政殿は相模や武蔵には武田を寄せつけもしませんし、海を欲している武田信玄を相手に駿河を塞ぎ、守り抜いているではないですか」
そうですねと頷いた。その通りだ。俺が調べたものと同じ程度の情報を母は得ている。天下にその名を轟かせる伊賀忍者を配下に入れた俺と同程度か、或いはそれ以上の情報を。
「次々と、小勢力が淘汰されてゆきます」
「時が早まっておりますか?」
聞くと、ええと頷かれた。母にとってはそれが最もいい結果なのだろう。極論として、その天下が例え織田の物でなかったとしても。
「けれど、清洲会談に帯刀殿が向かって何をするのですか? 今清洲城には殿と、三河様、それと浅井久政様がおられるはずですが」
「呼ばれたのですよ」
言うと、ああ成程という表情で、母が笑った。
「殿に呼ばれましたか、殿もよくよく、子煩悩な方ですね」
「全員にです」
「はい?」
母の理解、いや誤解に対して修正を入れた。確かに俺は父にも呼ばれている。共に夕餉をとも言われているし、母も入れて三人で会話することを父は求めているのだろう。だが、それだけではない。
「三河殿と浅井宮内少輔殿、お二人からも会って話がしたいと、指名を受けております」
緊張している理由が少しは分かって下さいましたかと言うと、母は目を丸くしながら何度か小さく頷いた。
「又左殿」
「お久しゅうございます」
清洲城に着くと、出迎えの中に又左殿の姿があった。相変わらずすらりと背が高く、右目の下の傷が勇ましい。赤母衣衆筆頭として今日という日は大いに見せ場だろう。すぐ横に、黒母衣衆筆頭佐々内蔵助成政殿の姿もあった。又左殿と比べるとずんぐりむっくりしており、しかしそれが黒母衣とよく似あっている。精悍な顔付きの熊を見ているようだ。
「弾正大弼様は?」
「昨日の内に話し合いは合意となり、織田が南と西へ、浅井が北へ、徳川が東へ、これにて三国同盟は纏まり申した」
「それは重畳至極」
「現在は鷹狩に興じておるようです。三河様が腕の良い鷹匠を連れてこられたそうで」
「左様ですか」
「帯刀殿、お犬殿、お話し中申し訳ありませんが、わらわは先に行かせて頂きます」
いつも鷹揚としている母が珍しく先を急いだ。どうしたことかと首を傾げていると又左殿がこれは申し訳ありませぬと頭を下げた。
「御坊丸様も、藤姫様も、直子様のお帰りをお待ちしておりまする。こちらへ」
「ああ、大丈夫ですよ、場所は分かっておりますからね、その代り帯刀殿、蘭丸殿をお貸しして頂けますか?」
「……変な遊びを教えたりしないでしょうな?」
「失礼ですね、母を疑っておいでですか?」
「寧ろ信用される要素が見当たらないではないですか」
言うと、キッと睨みつけられた。視線を逸らし、心配だからお前も付いて行けと五右衛門を行かせた。五右衛門は俺を置いてゆくことに少々引け目を感じているようだったが、俺は又左殿の肩をポンポンと叩く。
「又左殿程頼りになる方はいない。心配するな」
「……畏まりました」
そして、五右衛門は又左殿に深く一礼をしてから母の後ろを追った。
「慕われておりますな」
「頑張りましたので」
そんな事を言っていると一陣、冷たい風が吹いた。俺達は寒い寒いと言い合いながら城へ入り、俺は又左殿に言われるままに清洲城の一室へ入った。
「ここで待っていろと殿が仰せでしたので、何か飲み食いしながら待ちましょう」
通された一室は畳敷きで、広さは八畳。二人で話をする分には広いが、城主を待つ部屋として適しているとは思えない。恐らく父がこの部屋が良いと言ったのだろうから気にはしないが。
一度外に出て、それから温かい茶と餅を持ってきた又左殿。何か食いたいものはあるかと言われ、伊賀では魚が食えないと言うとすぐに刺身が出て来た。俺は茶で、又左殿は濁り酒で乾杯をした。
「兄上や慶次郎は元気ですか?」
「元気ですよ。慶次郎は、少々元気過ぎますが」
「藤吉郎が悔しがっていました。自分が伊賀を獲るつもりだったのにまんまと出し抜かれたと」
「漸く羽柴殿から一本取れました。これまでは出し抜かれたり驚かされたりするばかりでしたから」
「遅くなりましたが、伊賀守就任おめでとうございます」
「ありがとうございます。石高が上がって、寧ろ暮らしは貧乏になってしまいましたが」
そんな話をつらつらとすること一刻。そう言えば母が長島でまたおかしなことをと俺が言うと又左殿が楽しそうに笑った。
「本当に、直子様はいつになっても楽しそうなことなさいますな。某は直子様に恩義がある故、悪ふざけには全て協力致しますが」
かつて織田家を出奔していた又左殿が金に困っていた頃、生活の面倒を見ていたのが母だ。それ以来又左殿は母のやることなすこと全て賛成する。同様に金銭を援助し、その後も仲良くしている羽柴殿に対しても常に味方をしている。こうやって言うと単に誰とでも仲良くなれる人物に聞こえかねないが、たとえ目上の人物であろうと犬だとか又左だとかうかつに呼べば次の瞬間には拳か、悪ければ槍が伸びて来る。誇り高い犬なのだ、又左殿は。
「犬姉さんまでも味方に付けているとは、我が織田家家中の名犬は皆狐の尾に絡め捕られたか」
「はははは! 公の場で言ったら問題になるお言葉だ!」
「だから又左殿の前でだけ言っているのです。母が描く衆道本に又左殿もいつ描かれるか分かったものではないのです。嫌なら嫌と言うべきですよ」
「別に嫌ではありませんからなあ。衆道は武家の習いですし、直子様が描く幼い娘の絵は中々良いですぞ」
天日に干して乾かしたイカを噛みながら又左殿が答える。そう言えばそうだった。この人はかつて父の小姓をしていた時にその寵愛を一身に受けていたという話である。どこまでをもって『寵愛』とするかは聞けないが。それだけでなく、女性の趣味も広い。何しろ十二で嫁いできた妻のまつ殿を、翌年には孕ませてしまうのだから。まつ殿は確か今四人目を身ごもっているところである。
昼も夜も一騎当千、槍の又左の存在に改めて慄いていると、外からタカタカと元気に走る足音が聞こえて来た。
「にーに!」
襖を開き、現れたのは今年で五歳になる妹藤だ。俺の姿を見つけるなり体当たりするかのような勢いで胸に飛び込んできた。
「おお、また大きくなったな。元気いっぱいだ」
「お帰りにーに! 犬ちゃんも!」
俺にしがみ付きながら、正面に座る又左殿に言う。又左殿は慶次郎を彷彿とさせるニヤリとした笑みを浮かべ、おうと言った。
「俺は出かけてたわけじゃない。お帰りって言うのは違うぞ」
「良いの! 私の所に帰って来たからお帰り!」
「はっはっは、自分が中心か、流石に、殿の娘なだけはある」
先程は藤に対して藤姫様と敬称を付けて呼んでいた又左殿が、気取らないざっくばらんな口調になっている。普段はこういう感じなのだろうか。最近一緒にいられることが少ないので分からない。
「あのねえにーに、私ねえ、お願いがあるの!」
語尾に全て ! が付きそうな音量で藤が言う。わかったわかったと言いつつ、取り敢えずひょいと持ち上げ傍らに置く。藤が開け放したままの襖の向こうから、母の手を引く弟御坊丸がやって来た。
「久しぶりだね御坊丸」
俺が言うと、無口な弟御坊丸は顔全体をくしゃくしゃにするような満面の笑みを見せてくれた。双子の姉である藤が起きている間ずっと話をしているような子供であるのに対し、御坊丸は周囲が心配するほど喋らない。だが、表情は豊かで、聞き上手だ。どんな話でも楽しそうに聞いてくれるので皆が御坊丸に話をしたがると古渡ではもっぱらの噂であった。
「あら、殿はまだいらっしゃらないのですか?」
御坊丸に手を引かれて入室した母が意外そうに言った。母の言葉を聞いて、俺の肩にしがみ付くようにしていた藤が御坊丸に向き直る。
「どうなの!?」
藤に言われ、御坊丸は笑いながら首をふるふると横に振った。
「もうすぐ来るって!」
それだけの仕草で全てを理解した藤は俺達に言う。そしてその予言違わず、それから間もなく、『殿がお戻りになられた!』という声がそこかしこから聞こえた。
「何で分かった?」
驚いて俺が訊くと、御坊丸は少し恥ずかしそうに微笑みながら地面を踏みしめた。てしてしてし、と自分の口で音を鳴らしている。
「足音とかで分かったって!」
藤が言う。それを聞いて御坊丸が左の拳を握り、親指だけを立てて伸ばす。それに対し、藤が右手で同じことをし、親指同士をグッと合わせた。母がやらせそうな仕草だ。母も又左殿も驚いてない。いつもこのような感じなのだろう。
「さて、殿は『俺が来るまで待っていろ』と仰せでしたが如何したらよいか。家族団らんを邪魔するのも申し訳ございません故」
「良いではないですか、お犬殿ならば身内でしょう」
「そう、犬ちゃんならば! ね!?」
言われた御坊丸がこっくりと頷き、そして、父が襖を開けた。
「お帰りなさいませ」
言いながら窺った父の顔色は、上機嫌に見えた。




