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信長の庶子  作者: 壬生一郎
村井重勝編
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第七十話・伊賀から石山へ

丸山城の築城につき、墨俣一夜城のような特別な方法を取ることは無かった。伊賀甲賀の忍びや国人、あるいは惣と呼ばれる者達は皆北を見ており、百地丹波の手引きにより古渡勢が丸山に入った段階では俺達が再度伊賀に侵入したことに気が付いてもいなかった。


二週間、山中にて築城作業を行った。人足は誰一人雇わず、まるで山賊が隠し砦を建築しているかのようであった。気持ちの上では、赤坂城に立て籠もる楠木正成公であったけれど。


最初は山の最高所に天守を建てた。勿論、それは名ばかりのもので天守などと呼べば笑われてしまうような代物であったが。だが山の頂に置かれ、本丸の更に中心を陣取るそれは確かに天守であったと俺は思う。


それを中心に石垣を積み曲輪を設け、七月の半ばには六百の兵が籠って戦うことが出来るまでになった。その段階で、漸く俺は周囲の村落に住む住民を雇い、普請の手伝いをさせることが出来た。集められたのは前回の戦いで弥介が逃がした者らだ。彼らも又、ひと月前に築城手伝いをしたばかりであり、動きは前回と比べて格段に良かった。


俺が再び築城していると気が付いた伊賀衆。大々的に村井家の家臣となったことを表明した百地家。百地丹波は一族郎党三百名程を連れて普請の手伝いを行い、伊賀衆甲賀衆の全員に降伏の勧告を行った。今であれば領土は保てると。


八月、羽柴勢との戦いから伊賀衆が撤退。取って返して丸山城を目指した。その頃には、丸山城は西・南・北の尾根と丘陵斜面などの地形を利用し、大小の平坦地を設けた一端の城郭となっていた。本丸周辺は防御を強く意識して縄張りを行い、大小の曲輪は既に十を超えていた。特に南側では二段からなる帯曲輪を設けた。残る三方は川が走っており、この段階で、俺としては六百の古渡勢と三百の百地兵があれば、四千程度の敵を相手に十分な籠城戦が出来るという自信があった。


「敵兵、二千」


四郎からの報告があった八月三日、俺は既に大勢が決したことを悟った。前回のように、伊賀衆全員がなりふり構わず全力でかかって来たのであればまだ丸山城陥落の可能性はあったのだ。勿論その場合でも俺は勝算のある手を打ってはいた。だが、二千であれば最早手を打つ必要もない。


「囲まなかったのは誰だ?」

丸山を囲もうとする者ではなく、それに従わなかった者達について俺は聞いた。二千しか集まらなかったということは、いずれかの者が兵の招集を拒否したということだ。


「百地家と、それに従う南部伊賀国人衆・忍者衆は皆出兵を拒否、殿に忠誠を誓ってございまする。伊賀上忍千賀地服部家の姿も見えませぬ」

となると、大将は当然三上忍筆頭の藤林長門。思っていた以上に人が集まっていないようだ。


「分かった。百地丹波には戦後褒美を与える。領土は与えられぬが金銭と物で購おう。これは雇い主として払う給金ではないぞ。主としての褒美だ。此度、百地家の要請に応えて出兵を拒否した者らに対しては、織田家に仕えることを許し、所領安堵」


四郎に対し言い、その場で書状を作った。百地家以外の者らをよく知らないので、百地丹波の存念次第と一筆したためる。四郎は満足そうにし、忝うございますと頭を下げていた。


この四郎、百地丹波の弟子であり手の者という認識をしていたが少々違った。勿論弟子でもあり手の者という認識でも間違ってはいないのだが、腹心でもあり右腕でもあり、一つ年下の弟分でもある。父にとっての信広義父上のようなものだ。前回の戦いにおいて、旗指物を立てて偽兵の計略を行ったのもこの四郎の独断であり、それが認められている。


「お主に対してもいずれ褒美を下す」

四郎の去り際にそう伝えると、幾らか驚いていたようだった。


百地丹波に対して書状を送ったのと同日、俺はそれ以外の伊賀衆に対しても手紙を送った。藤林長門に対しては、今すぐに降伏すれば所領の没収のみで許すというもの。服部ら、城を囲みもせず、織田家に味方もしていない者らに対しては今すぐ降伏すれば所領は安堵するというもの。およそ囲まれている側が書く手紙とは思えないような居丈高な手紙であったが、効果はあった。丸山を囲んだ敵兵からの攻撃が一切なくなったのだ。対織田家強硬派の者達ですら、このような有様だ。既に伊賀の纏まりは無きに等しい。


それから二日後、丸山を取り囲む藤林長門らの兵は引き上げていった。理由は二つ。一つは俺からの要請を受けた伊勢北畠家の軍勢三千が伊賀国境に現れたからだ。大将は津田一安と滝川雄利。津田一安は織田一門、滝川雄利は伊勢国人の出で、共に三介の重臣だ。


もう一つの理由は甲賀衆の敗北。伊賀衆が撤退したからと言って羽柴勢が休んでくれるはずもない。寧ろ攻勢を強め、数を減らした敵軍を打ち破った。


この状況を見て、千賀地服部家とそれに従った伊賀衆が降伏を受け入れ、人質を連れて丸山城へとやって来た。俺は、手紙を書いた時点での『今すぐの降伏』になっておらず領地を没収すると言い、それを百地丹波が止め、服部らの所領については一時棚上げとなった。翌日、俺は丸山城普請、街道整備などを服部家に命じた。当然費用は服部家の持ち出しだ。所領は安堵するが、服部家の倉は暫く空になるだろう。


 最早抗することも出来ないと理解した藤林長門とその一党は伊賀を脱出、同じく甲賀から逃げ出した六角義賢・義治親子と共に石山へと逃げた。俺は追撃することなく逃げ出した藤林らの旧領を接収、これにて伊賀は織田家の領地となった。百地家とそれに従った者達を除き、伊賀衆に対しては丸山城普請と街道整備を命じた。街道は近江路や伊勢路にも作らせた。道幅は広く馬がすれ違ってもまだ余裕があるように。完成すれば、最早伊賀が再び挙兵したとしてもそう簡単に守ることは出来なくなる。


 丸山城普請については、父が三層の天守を作り、壮大な拵えをしろと命じて来た。伊賀忍達を始めとした国人を心服させるために必要という理由も勿論あるが、石山本願寺や高野山に対しての圧力としても使うつもりらしい。織田本家と北畠家から資金が援助され、建築は俺が思っていた以上の速度で行われた。


 天守台の広さは六間四尺(約12m)四方の広さがあり、加えて南と北には一段低い方形の張り出しを加えた。天守台の斜面に石垣を築き、これでもって天守閣が完成した。その天守閣を戴く本丸は東西幅最大で約三十三間(約59.4m)南北幅最大で約三十九間(約70.2m)の歪な平坦地の上に建てられた。天守閣が建てられたのはその西部分で本丸周辺には高低差約二間半(約4.5m)の帯曲輪が巡り、前述した南方の帯曲輪も大いに強化された。本丸の出入り口、即ち虎口は東側で、その周辺には二条の土塁と横堀によって防御された武者隠しがあり、侵入経路を所々屈折させ横矢が効くようにさせた。本丸の北側にも虎口があり、これは裏口のようなものである。その先には堀切と土橋からなる馬出し状の大曲輪を作り、更に北側には小曲輪と、本丸の構えは正に鉄壁だ。


 本丸の西には二の丸を、南には三の丸を作り、そこまでの山道は九十九折と呼ぶに相応しい道が出来上がった。更に、比自岐川の対岸には城を二つ作った。西側の城には前田蔵人城と名を付け、城主に前田利久を、東側の城には大宮大之丞城と名を付け、城主に大宮景連を指名した。二の丸は百地丸、三の丸は古田丸とした。嘉兵衛は筆頭家老でもあり城代としていて貰わねばならない。試しに本丸を松下丸にするかと聞いてみると、大いに笑い、有難きお言葉と平伏した後、固辞された。


 当然の事であるがこれらを取り囲む土塁や堀の類は数多く、秋口から雪深くなる直前まで伊賀衆は働き詰めだった。俺は働き手達の食事と寝床だけは用意した。二食ではなく三食、野宿ではなく雨を凌げる建物、別に優しさを見せたわけではない。そうした方が結果として効率が良くなるから行ったのだ。


 城下に家臣が住める場が出来ると、恭とハルとが二人とも引っ越してきた。妻二人の間では話し合いが成されたらしく、仲は悪くない。俺は古渡から伊賀に領地替えされるらしく、その内正式に国替えとのことだ。母は古渡に残った。遠山景任殿が八月十二日に亡くなったとのことだ。それに伴って御坊丸が岩村城へ行く日が近づいた。母は勝子殿と子供らを引き連れ岐阜城へ入った。領地替えその他諸々の雑事は任せておけとの話であったので本当に丸投げすることにした。


 元亀四年十一月十一日、俺は父からの手紙で、正式に伊賀一国を与えられた。手紙には俺のこれまでの武功が長々と書かれ、それに対しての感状が添えられ、そしてこれからも織田家に対して忠義を尽くすように、というようなことが書かれていた。いつか俺に古渡を預けた時に書かれた手紙とはずいぶん違っていた。そして末尾に、お鍋の方がまた妊娠したと控えめに加えられていた。これで十三人目だ。父上も元気なことである。


 伊賀一国を石高に直せば、ほぼ十万石と見てよい。これまでの知行地と比べれば三倍だ。大出世だろう。呼び名の伊賀守も正式なものとなった。今までの文章博士はかなり恥ずかしかったのでその辺りも含めて良かったと思う。


 街道はともかく、城の普請があらかた終了した十一月十五日、俺は家臣一同と、降伏した伊賀衆を集めた。普請に参加した者達にねぎらいの言葉を述べ、今年は税を取らないことを発表した。驚いた伊賀衆の表情が面白かった。何故? と思っているのだろう。何故も何も、この上でさらに年貢を徴収したら農民が飢えで死ぬ。誰が自分の所の領民を好き好んで殺すものだろうか。


 来年一年間は伊賀から近江、伊賀から伊勢への街道整備を積極的に執り行うことを発表し、服部達には人質を全員返した。その方らの働きを見て、二心なきことは分かった。以後は織田家に忠誠を尽くすようにという言葉を添えておいた。これで恩義に感じてくれればいいが、そこまで単純には中々いかないだろう。


 そして、石山本願寺や高野山に逃げた伊賀忍と親戚縁者がいる者には、帰参はいつでも許すと伝えるように言った。没収した領地も、手柄次第では返す。これにも伊賀衆は驚いていた。逆に昔からの家臣達は皆そうだろうなという表情をしていた。何か、腹を読まれているようであまり面白くはなかった。


 「宜しかったのですか?」

 伊賀の仕置きを終えた翌日、四郎がやってきた。四郎が良かったのかと聞く時は、その後ろの百地丹波も又同じことを思っているのだ。つまり伊賀忍には俺の腹は読めていない。


 「何について聞かれているのかはよくわからんが、まずいことをしたとは思っておらん。牙は抜いた。後は俺がどう飼いならしてゆくかだ。必要以上に虐めてやるつもりはない」

 そんなことよりも、と、俺は四郎に向き直った。伊賀攻めを始めてより、この男には随分と動いて貰ったものだ。まず懐より金を出し、お前の分だと言って渡した。


 「それと、何か褒美を与えたいと思っていたのだ。四郎、お前姓はあるのか?」

 「ありませぬ。捨て子故」

 「では出身地も分からんのか? どこの村の出であるのかも?」

 「石川村という村の、貧しい農民の倅です」

 「四郎という名は?」

 「四人目の子であるから四郎、家を出される時、お前は最早死んだと思うことにすると親から言われました」

 「それは何とも、気の毒な話だ」


 暑苦しいくらいに愛情を注いでくる両親の子として育った身としては正直それがどういう気分であるのかよく分からない。


 「では、俺が名前を付けて進ぜよう」

 出身地を姓とするのは珍しいことではない。不破光治殿の不破などもそうであるし、伊勢平氏や甲斐源氏など、地名を頭に付ける呼び名は数多い。


 「今日よりお主の姓は石川だ。石川の家を興し、栄えさせると良い」

 「石川、でございますか? 拙者が」

 「俺に仕える百地家の優秀な家臣であろう。姓の一つくらい持っていた方が良い。名前も変えるぞ。四郎は死んだと言われたのだからお主は五人目だ」


 頭の中で、五を使った名を考える。五郎ではひねりがない。忍びの者として大成するような名前が良い。我が織田家で優秀な忍びと言うと、彦右衛門殿がいる。それにあやかって、五右衛門、うん、悪くない。


 「石川五右衛門。今日からそう名乗れ、強そうで良かろう」

 「石川、五右衛門ですか? 拙者が?」

 「そうだ、不満か?」


 聞くと、慌てたように首を横に振られた。不満ではないらしい。


 「ではこれからも頼むぞ五右衛門。伊賀村井家の諜報は偏にお主にかかっている。情報戦を征すること叶わねば戦に勝利することもまた叶わぬ。ゆけ」


 言うと、五右衛門はいつも通り音もなく消えた。しかし、そこには今渡したばかりの金が残っていた。


 「おい、お前は銭が要らんのか。ならば今後は葉っぱで支払うことになるぞ」

 言うと、どこからともなく現れた五右衛門が、失礼いたしましたと言って銭を懐に入れ、再び消えた。


 俺の伊賀攻略が一つの契機になったのかどうかまでは分からないが、この年元亀四年の末から元亀五年の初めは織田家にとって朗報が続く。まず、元亀四年十一月の末に彦右衛門殿が熊野三山の一つ、熊野速玉宮を攻め落とす。これにより紀伊の東側にある北牟婁郡と南牟婁郡は完全に織田家の手に落ちた。明けて元亀五年の一月には三好康長が降伏し、三好家の勢力が本州から姿を消した。三好康長は天下人三好長慶の叔父であり、これまで阿波三好家を支える重鎮であり続けてきた。しかし、三好長治が重臣篠原長房を謀殺し、畿内の争い悉く織田家優勢となった状況において最早抗しがたしと、剃髪し名を咲岩(しょうがん)と改めた上で降伏した。


 名将の投降に父は喜び、これまでの敵対を罪に問わず、五百貫の隠居料を与えた上で中国・四国方面の外交担当として起用する。

 

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