第五十七話・信長の跡継ぎ
勘九郎の元服の後、父は勘九郎に尾張一国を任せ、曽我兄弟の仇討で名高い名刀『星切』など、数々の名物を譲り渡した。古渡は当然尾張であるので、直接の上役が勘九郎になるという事だ。更に、畿内平定のめどが立った時点で美濃一国の譲渡も約束した。官位も正五位下出羽介に叙せられることで、俺よりも官位を高くした。
同時に、茶筅と勘八も元服を執り行った。烏帽子親はそれぞれ権六殿と佐久間信盛殿、勘九郎の烏帽子親は父本人が務めた。上から順に当主・筆頭家老・次席家老が烏帽子親を務めた形だ。茶筅は北畠具豊、勘八は神戸信孝を名乗ることとなる。それぞれ呼び名は三介と三七郎になった。
「申し訳ございませぬ」
織田家の次代を担う者達三人が元服した目出度い儀式が終わり、父が俺を含めた元服済みの息子達を集めた身内の席の中、俺は開口一番、頭を下げ謝罪していた。
「林家の面目を潰し、織田家の敵と致したるは某の短気によるもの。この重勝、詫びようとも詫びきれませぬ」
「追放を決めたは俺よ。貴様に責任などない」
顔を上げると、眉を顰める父と、父の言葉に頷く弟達がいた。
「それも帯刀兄上は売られた喧嘩を買ったのみにござろう。武家の者が家臣から侮られ何もやり返さぬとあってはそれの方が問題にござる」
三七郎が言う。随分と背が伸びていた。伊勢に向かう際にも会えなかったので変化が大きい。美形揃いと言われる織田家であるが、市姉さんや犬姉さんら女子を除けば、最も容姿に優れているかもしれない。
「敵は多い方が、勝った時に奪える領地もでかい」
短絡的な事を言うのが三介。言葉だけ捉えれば相変わらずの馬鹿ぶりかと思ってしまいそうだが、明らかに俺を気遣ってくれているのが分かった。兄弟の中で、見た目が最も父に似ているのは三介だ。
三介は此度元服の儀においてもそわそわと落ち着きなく周囲を見回していた。だが、小便事件からの叱責が効いたのか、そわそわしつつも何とか行儀を守り烏帽子親の権六殿に恥をかかせずに済んだようだ。空気を読むという事を覚えたことが三介の成長であろうか。
礼儀作法という点ではギリギリの及第点を取る三介だが、逆に兄弟のうち誰よりも芸事に優れているのも三介である。能は既に当代で有数の腕前ではないのかと噂されるようになり、蹴鞠も上手いようだ。此度美濃へと戻ってきた際、父に会うよりも先に『母の墓参りをしたい』と言い、花を生け、舞を披露し、どうだ凄いだろうと胸を張って墓の掃除や水やりは忘れて帰って来たという話を聞いた時には笑った。本来主君である父に挨拶もせずに墓参りというのも余り宜しくはない。だが、家臣達は良きと悪しきがてんでんばらばらに混在している織田家次男坊について良きにつけ、悪しきにつけ、特別扱いしておくことに決めたようだ。『三介様のなさる事よ』と、言えば家臣達はしょうがあるまいと言いながら後始末に奔走する。家臣達から侮られていることは致命的と言えば致命的。だが、それでいて家臣から好かれていることが、救いと言えば救いだ。
見せてもらった舞は確かに見事であったし、茶の湯の手前も洗練されていた。父は息子から茶の湯を飲ませて貰い嬉しそうにしていた。俺も蹴鞠で勝負してみたのだが全く敵わず、三介は月歩を走りながら行っていた。大層気味が悪かった。凄い。
「茶筅丸の言う通りよ。伊勢の者どもは釣り針に食いついた。茶筅丸と勘八がいないことが好機と見たのであろう。すぐに長島を囲み、そのまま北伊勢四十八家を潰す。北畠具教の動きも既に掴めておる。もういい加減に伊勢掌握にばかり手間取ってもいられぬ。近江に兵を置く必要がなくなった今こそが好機」
父の言葉に全員が頷く。浅井家との和が成り、琵琶湖東西の岸に兵を張り付けておく必要が無くなった浅井家は素早く兵を引き上げ、現在湖北から更に北、若狭への侵攻を開始した。大将は生存が確認された浅井長政殿。相変わらず反織田家の動きを見せる久政であり、親織田家である長政殿との暗闘は続いているようだが、『浅井家を大きくするために最善の方策を支持する』という態度を取る家臣が多い家柄から、此度の出兵になったようだ。比較的長政殿寄りの家臣である磯野員昌殿や、旧斎藤家家臣の日根野弘就といった新参の家臣を先鋒にするようだ。言うまでもなく、若狭は実質的な朝倉属国であり、織田派と朝倉派の争いが絶えない国だ。ここを攻めるという事は朝倉との手切れを意味する。そして、仮にこの地を浅井家が切り取ることが出来れば、北近江に若狭一国と、浅井家は四十万石を超す領地を得ることとなる。加えて、石高という面では微々たる若狭であるが、琵琶湖北岸を抑える浅井家が彼の国を抑えたとあれば交易・外交上の利益は莫大なものとなるだろう。もし浅井家が若狭運営を軌道に乗せることが出来れば、最早朝倉家とも互角に近い。
長政殿はもうじき市姉さんが二人目の子を産むと文を寄越した。これが男子であれば前妻の子である輝政を廃し、市姉さんの子が浅井家を継ぐことになるかもしれない。二人の権力者の間を揺れ動きながら、それでも浅井家は確実に領地を大きくしている。不安定で、いつ爆発するか分からない成長であるが、ともあれ浅井家が直接戦闘に負けない以上この勢いは続くであろう。
「朝倉景恒が浅井に付いたのだ、若狭や小浜は義弟の手に落ちるであろう」
浅井家は六千の兵を率いて北上。これに対し朝倉勢は一万で迎え撃とうとしたが先の金ケ崎の戦いにおいて味方に見捨てられ『朝倉の恥晒し』との汚名を着せられた朝倉景恒が朝倉家を出奔。それも若狭武田家の当主武田元明を引き連れての出奔となり、戦う前から既に若狭と小浜の失陥は確実視されている。今注目されるのは美浜、そして敦賀を朝倉が守り抜けるか、或いは浅井が奪い取るかである。
「公方様は何と?」
「あれだけ幾度となく上洛命令を下したというのに結局誰も京都には上っておらぬ。今更朝倉を庇いはせぬ。それに公方にとっては畿内近隣の勢力は複数が拮抗している方が好都合だ。ここで浅井が勝てば織田・浅井・朝倉が並び立つこととなる。上機嫌であったな」
父が言う。父個人の心情としてはかなり複雑であろう。浅井家が名実ともに長政殿のものであるのなら手放しで喜べたはずだ。久政が完全に牛耳っているのならば潰せたはずだ。だが、天秤はまだどちらにも傾いていない。
「義弟が若狭を奪い、朝倉を潰す日を座して見ているわけにはいかぬ。三十郎は既に出陣している。伊勢の国人衆の中で味方をすると言った者らは早晩寝返りを打つ。俺は長島を囲む。帯刀。貴様は三郎五郎兄と共に伊勢を制圧しろ」
「承知致しました」
こうして、都合六万の大軍が長島を囲み、二万の兵が伊勢へと侵攻することとなる。三月の四日に伊勢長島が挙兵。翌日には三十郎信包叔父上が小木江城に入り、打って出て来た一向門徒を散々に撃ち破った。その翌日には俺も古渡城へと入城し、出立準備を整えていた古渡勢と共に出陣する。
「では、疋田殿お気をつけて」
俺の出陣と同じ日に、冬の間を古渡で過ごした客人である疋田景兼殿が再び旅路へと出ることになった。行く当てはあってないようなものであるらしいがひとまずは東国を目指すとのこと。
「お世話になり申した。又近くに寄ることがあれば、お会いさせて頂きとうございます」
「是非とも、母上も喜びます」
俺が言うと、母が頷き、腕に抱いていた坊丸を手渡した。
「いずれこの子も疋田様のように強くなれるように、抱いてあげて下さい」
疋田殿は少々困ったように笑い、しかし頷いて坊丸を抱き上げてくれた。余り泣かない坊丸は惚けたように疋田殿を見ている。
「では随風、御坊も死なぬように。御坊は向こう見ずである故」
ついでに古渡を出てゆく随風に言うと、随風は城主様ほどではございませぬと言い返してきた。
「随風様も、頭が良くなるように抱きしめて差し上げて」
「口が悪くなってしまいますぞ、母上」
母の言葉を聞き疋田殿が随風に坊丸を手渡す。高く掲げ、胸元に抱きしめて背をポンポンと叩く。そうしてから母に返した。
「澄んだ目をしておりますな」
「そうでしょう。この子が赤子の頃とそっくりです」
「時の流れとは残酷なものですな」
「おいそれはどういう意味だ」
無礼な物言いの随風に文句を言おうとした時、疋田殿がくつくつと笑った。それで何となく毒気を抜かれてしまう。
「疋田殿に渡した太刀は設えも良いものです。路銀に困ったら遠慮無く売って下さい」
疋田殿には大小一振りずつ太刀を渡してある。名人が扱ってくれれば古渡の太刀も価値を上げようというものだ。
「随風、お前にはこれを」
随風には、麻の袋に入れた永楽銭を手渡した。
「拙僧、借りた命を返しに来た身でございます故、その上施しまで頂くわけには」
「御坊に施しなどせぬ。一冬分の給金だ」
最早命無きもの、という覚悟を持ってやって来た随風はその覚悟通り、自分の思ったことをズケズケと俺に言って来た。いつ手打ちになろうとも構わないと思っていたのだろう。俺も何度となく随風を切り捨ててしまおうかと考えたが、それは出来なかった。先に口で勝ち、存分に言葉で打ち据えてからでなければ切り捨てることは出来ない。
「重ねての御厚恩、拙僧生涯忘れませぬ」
最後ばかりは殊勝な態度で、随風は古渡を去った。
「良かったのですか? そなたの相談役にしないで」
「あのような男が相談役にいたら息苦しくて死んでしまいます」
随風は、冬の間憑りつかれたように仕事をしながら、ずっと何かを考えていた。古渡には比叡山焼き討ち後の天台僧の噂や、石山本願寺、一向門徒の話も集まって来る。そのうちの多くは血生臭い話で、真面目な随風は教えと現実の間で悩んでいたのではないかと俺は思っている。俺に対してぶつけてきた言葉の数々は、自分に言い聞かせていたものなのかもしれない。
「あれでそなたに感じている恩は本物のようでしたから、仕えろと言えば頷いてくれたと思いますよ」
「元々、助けなくて誰も責めない女達を救わんとして負った借りです。何も恩に感じるようなことではありません」
そうですか、と言い、それでも母は少し残念そうだった。疋田殿ではなく、随風に対して母がここまで目をかける理由はよく分からない。只者ではないのは確かだろうか。
「何かやりたいことがあるようでしたからね。あれで良いのです。風のまにまに、あるがままに流れるべき男です」
それよりも、と、今度は俺が母に質問をした。
「随風に何やら頼みごとをしていたようですが、一体何をしていたのですか?」
「東国へ行くと言っておりましたので、少々お手紙など」
答えてくれないかもと思っていたが、意外にもあっさりと白状された。しかし、母に東国の知り合い?
「織田家中以外の知り合いなど居たのですか?」
「勿論おりますよ。女が家に多くいることは確かですが、旅をするものと話をする機会くらいはあります。その昔知り合った方々と今も文通などしております。勘九郎様とて婚約者としきりに文のやり取りなどしているではないですか」
母の言い分に、そうですねと頷いた。武田信玄の娘である松姫と婚約している勘九郎は一度も会うことなく既に五年近く経過している彼女と今も定期的に文のやり取りをしている。節句や何らかの記念の日には贈り物などもしているようで、会ったこともないのに随分とほれ込んでいるではないかと思ったものだ。単に勘九郎が善人であるだけかもしれないが。
「随風、風の随に。良き名です。天より高く、海より広く」
「又、よく分からない言葉ですが、詩文か何かですか?」
「まあ、そのようなものですよ。一月で救える家もあり、十六文が助ける英雄もあり、私は時代の中で、懸命に泳いでみせましょう」
「懸命にという程必死さは無いように思えますが」
俺が言うとホホホホと母が笑った。確かに必死ではありませぬ。楽しんでおります。だそうだ。そうでしょうね。
「まだ分かりませぬが、わらわはそのうちに東美濃へと向かうようになるやもしれませぬ」
「ほう」
理由を聞いた。美濃国岩村城城主、遠山景任殿の名前が返って来た。
「遠山景任様のお加減が悪く、長くもたないかもしれぬとの事です」
東美濃は父が美濃を征する以前から武田に斎藤に、そして織田にと幾つも主家を替えて生き延びて来た。上野や下野の国人領主達が上杉・北条・武田に挟まれながら生き残りをかけて主家を転々としてきたのと同じ構図だ。そうして美濃が織田の手に落ち、南信濃が武田領となった後に、遠山氏は織田・武田両属の家として両家の仲介役としての役割を担うようになった。当主景任殿は父の叔母を娶って縁戚関係を結ぶなど、家中での地位は決して低くない。だが、景任殿には男子がない。つまりこのままだと、景任殿亡き後の遠山家には織田の関係者がいないという事になる。
「景任様が体調を持ちなおされ、男子を得ることが叶えばそれでよし。もしそれが叶わぬという事であれば、坊丸を養子にという事でございます。そうなった際には、私もついて行きます」
「ついて行くのですか? 藤は?」
「置いてゆきますよ。ここの方が岩村城よりも余程安全ですからね」
「父はそのことにご了承されたのですか?」
「ご了承、というよりも提案をされたのが殿でした。お前を東美濃においておけば最早信玄坊主といえども恐るるに足りず。などと言うのですよ。酷いと思いませぬか?」
「酷いとは思いますが、妥当な評価であるとも思います」
正直に答えると、肩をペンと叩かれた。
「ともかく、今は伊勢を、そして長島を、更には伊賀、紀伊と攻めるのですよ。頑張って貰わなければ」
「母の見立てでは、勝てますか?」
「勝てますとも、問題は勝った後です。伊賀にせよ紀伊にせよ、戦地は森と山になります。鉄砲が扱いづらい場所も多いのです。そなたが率いる真っすぐな刀を携えた兵が活躍できるかどうかが重要ですよ」
「美濃はどうです? 武田は?」
「一か八かの攻勢に出て来る武田であるのならば勝てましょう。けれど東海の戦の後武田は守勢に回りました。そうなると寧ろ手強いですよ。信玄公の目が黒いうちに手出しが出来るとは思わぬ方が吉かと思います」
成程。概ね納得出来る。母上にしては、突拍子もない事を言ってはいないようにも思える。
「殿、兵の準備、万端整いました」
その時、景連がやってきて俺に伝えた。俺は頷き、そして馬に跨る。
「行って参ります」
第二次長島攻め。そして、伊勢を完全に掌握するための戦いが始まった。




