第五十五話次節への布石
「非情に、なり切れませんでした」
父の京都における御座所の一つ、本能寺にて俺はため息交じりに呟いた。
「問答無用、と言葉を発している時点で既に問答せんという気持ちがありました。殺さずに済む理由を、どこかで探していたのです」
父が俺に愚痴や何かしら我儘を言うことは多いがこうして俺が弱音を吐くのは珍しい。父はニヤニヤと顔に笑みを張り付けながら茶を啜っている。
「それで、随風なる僧を逃がしたというか」
「軍令違反は承知の上です」
頭を下げた。比叡山焼き討ちは予定通りに終わった。全て焼き払うという予定であったのでそれ以上には成り得ず、そしてそれ以下にはしなかった。死者は恐らく四千人程。焼け焦げた堂宇の跡からはおびただしい僧の死体が見つかった。
今上天皇の弟君、覚恕法親王は焼き討ちの際に京都におり難を逃れた。俺はそれを知り、天皇の弟を殺したという汚名からは逃れられたと安心していた。だが父は俺が思っていた以上に苛烈だった。
父が最初にしたことは比叡山焼き討ちの言い訳ではなく、覚恕法親王殿下に対しての詰問であった。延暦寺の罪を数々あげつらい、なぜこのようなことになるまで対応をしなかったのか。天台座主としてどう責任を取るのか。武力を背景に恫喝し、あくまで自分達は正しく、相手が謝罪をすべきという立場を取り続けた。既に死に体の延暦寺に反論する力なく、同時に延暦寺の罪として挙げられている幾つもの出来事が事実であると世間が知っていることもあり、覚恕法親王殿下は何ら反撃することも出来ず、京都を逃げ出した。天皇の弟を追い出すという行為は、織田家と公家衆の関係をも動かす一つの契機となった。
「食え」
頭を下げ、処分を待っていると、大型のどんぶりを出された。そこには入っているのは麦飯。そして、別の皿には鶏卵が五つ六つ。
「卵かけご飯ですか?」
「気味が悪いものを食いよると、最初は忌避しておったが存外美味くてな。食当たりの心配がない鶏卵が採れたら食うようにしておる」
一部では奇食なる者とすら言われている母、その母が広めてる食い物の一つだ。俺は気味が悪いと思うよりも先に食うようになっていたから変とは思わないが、これを食っていると大概気持ち悪がられる。母は『黄身は良い物を使っているから気味が悪くなどない。食えない連中こそいい気味だ』と、何だかよく分からない事を言っていた。
「頂きます」
最近では塩や味噌でなく、醤油を使って食べられるようになった卵かけご飯は、少しずつその愛好家を増やしている。ただ、母は本当に清潔な場所で育てた鶏の卵でなければ危ない。子供には食べさせないように。という注意を忘れない。その割に俺は子供の頃から食べていた気がするが。
「食いながら聞け。此度の軍令違反についてだ」
卵を三つ落とし、醤油さしの醤油をどんぶりに二回し、そうして一口めを口に入れたのと同時に父が言った。食いながら聞け、ということは俺の話を聞いていろ。という事であろうから、小さく頷き、卵かけご飯を咀嚼し続けた。こんな時に何だが、とても旨い。
「此度のお前への処分はない。別に貴様が俺の息子であるから処分を軽くした。という訳では……なくはないが、聞け。貴様がそういう特別扱いを嫌う性根であることは分かる。だが、親の欲目を抜きにしてもお前は使える。武働き一辺倒の家臣共の中で、吉兵衛と貴様は貴重な文官でもある」
吉兵衛とは村井の親父殿の事である。親父殿も近く官位を貰う予定であり、京を抑えている限り文官の長老格である父と村井家の将来は明るい。
「非情になれなかったと貴様は言ったが、誰であっても非情になり切ることなど容易いことではない。俺にしてもそうだ。此度、俺にも甘さは出た。比叡山を焼き討ちにした者が何を言うのかと余人は言おうがな」
水分量の多い麦飯が口の中でもちゃもちゃと音を立てている。卵の味も濃い。良い卵だ。
「俺の甘さは西に伏兵を置かなかったことだ。誠に一網打尽にするつもりであったならば高野川河岸に兵を配備しておくべきであった」
高野川は比叡山を西に突っ切るとぶつかる川だ。そこを下ってゆけばやがて京都へ着く。
「貴様が救った連中が本当に逃げ延びられたかどうかは知らぬ。だが、大将である俺とて甘さがあったのだ。貴様に甘さがあったからと言ってどうして罰することが出来ようか」
言い終えた父は、その話を聞いて惚けている俺を見て、食え。と言った。その言い方が何だか面白くて、俺は口に含んでいた飯粒を飛ばしてしまった。
「何をしているのだ」
「も、申し訳ありませぬ、くくく、ですが、くははは」
口に物が入ったまま笑ったものだから気管に飯粒が入ってしまい激しくむせた。父が白湯を持ってこさせ、湯飲みを手渡してくれた。グッと飲み干し、ようやく落ち着く。
「ご無礼を致しました。しかし、父上にも甘さがあったとは、露とも思わず」
「俺とて人の子だぞ、甘さも出る」
「しかし、某のように、敵が可哀想だとは思わないでしょう?」
「思うに決まっておろうが。貧しい家に生まれ、食う物もなく仕方なく兵となり、そして俺に殺される名もなき農家の子をみて哀れと思わぬ者など人に非ずよ」
先程は笑っていたが今度は驚いて固まってしまった。それは極々真っ当な、誰しもが思う当たり前の同情心だ。畿内を征し、日ノ本に、ひいては海の外の国々にも己の旗を立てようとしている人間が持つ気持ちとしては酷く似つかわしくない。
「それでも戦いを止められぬ理由があり、野心がある故戦っておる。これからも歩みを止めるつもりはない」
驚いている俺に対して続けた一言はしかし成程戦国の雄らしいものであった。当たり前の感情を、当たり前ではない覇気で圧倒し、そうして織田信長という人物が出来上がっている。
「坂本に十兵衛を入れる」
「十兵衛殿ですか」
唐突に話を変える。父の得意技だ。
「畿内が落ち着いた。四国や紀伊を攻めるのには時がかかろう。焦眉の急は大和・河内・南近江の安定と、長島の攻略。延暦寺の寺領は当然全て没収する。再興も許さぬ。堅田門徒にも厳しく対する。だが、厳しいだけで統治は出来ぬ」
「十兵衛殿は誰にでも優しいですからね」
「若い頃に苦労をし過ぎたのであろうな。あれほど民に甘くては大将にはなれまいが、あれも先に言った武一辺倒ではない稀有な将よ。多少の事には目こぼしをしてやる故、坂本周辺を安定させ、北近江を伺える体制を作れと伝えた」
頷く。こっそりやるのなら墓を建てて良いとか、自分に予め伝えるのなら信仰の為の会を開いても良いとか、適度な息抜きをさせるのは確かに上手そうだ。
「西は固めた、琵琶湖東岸からも北上する」
「佐和山、そして横山ですな」
何れも、琵琶湖東岸の重要拠点だ。佐和山城には磯野員昌殿が入り寡兵ながら果敢に戦っている。さしもの羽柴殿も攻めあぐねている。だが、此度の一戦で大局はこちらに傾いた。
「長光寺には三左を入れる。もし佐和山城を落とせば五郎左を、横山城を落とせば猿を入れる。権六達は暫く石山本願寺や三好と睨み合いだ。三郎五郎兄にも苦労をかける」
長光寺とは観音寺城の支城の一つで、立地条件から六角氏との戦いでは重要な拠点として使われている。五郎左とは即ち丹羽長秀殿、権六達、の達に入れられているのは佐久間殿や平手殿らだろう。
「敵は一つ一つ潰してゆくしかないのでしょうね」
「そうだ。比叡山が無い今、久政めは近江の西側にも兵を配備する必要が出て来た。朝倉が若狭と加賀に手間取っているうちに浅井を屈服させる」
「滅ぼすとは仰せにならないのですね」
あえて嫌な言い方をした。相変わらず卵かけご飯を食べながらだが、そういう肩ひじ張らない会話がしたいのだろう。
「義弟が生きていると分かった。市もだ」
「おお」
吉報なり。今の織田・浅井の関係悪化は浅井久政が当主長政殿より政権を奪取したことに起因する。これでもし長政殿と市姉さんが揃って首を切られなどしていたら最早両家は不倶戴天であるが、生きているのであれば再び友好的な同盟を結ぶことが出来る。
「西近江を奪い、伊勢を安定させた上で久政を人質に、とでも言えば、織田派の勢力が息を吹き返すであろう」
頷いた。元々小谷を中心とした今浜周辺を領有する勢力であったのだ、琵琶湖西岸を奪われたとして、そこまでの抵抗はないだろう。
「となると、やはり長島を潰したいですな」
「そうだ。尾張・美濃・伊勢・志摩の力を糾合し討滅する。動員兵力は六万」
「六万」
前回の倍だ。父が次の戦にかける気持ちの程が如実に表れている」
「大将は、父上が?」
「無論だ。三郎五郎兄には京にあって京周辺の動向を見ていて貰わねばならぬ」
「某は」
「貴様も出陣だ。前回は佐治水軍と九鬼水軍を競わせて随分と功を立てたようではないか。此度も期待している」
畏まりましたと頷き、残っていた飯をかきこむ。空になった茶碗に、父がドボドボと湯を流し込んだ。それも飲み干す。胃の腑がじんわりと温かくなった。
「されば某も父上と共に美濃へ」
「いや待て、貴様には一つ任せたい仕事がある」
「仕事?」
「こちらの足元を見る爺が一人おってな」
そう言って俺が翌日向かわされたのは、京都下京にある真新しい屋敷だった。
「おや、腑抜けになった爺に、若き俊英が何の用ですかな?」
見覚えのある老人が、俺を見て微笑んだ。何を仰せになられます、と言って近づくと笑顔のまま続けた。
「予想するに、往時の見る影もなくなった老いぼれに追い打ちをかけに来られましたか。感心しませんぞ」
「弾正少弼殿……」
そこには、柿の木からよく熟れた柿を丁寧にもぎ、布で拭いて籠に入れる松永久秀殿の姿があった。
「主も無くし、寄って立つ領地も失った儂は名も捨て申した。今は道意を名乗っており申す」
先だっての戦いで、松永久秀もとい、道意殿が守らんとした三好家は滅んだ。三好の名を掲げる者らは三人衆や阿波三好など数多いが、道意殿にとっては偉大なる三好長慶の名を騙る盗人だ。
「三好家、最後の御当主は見事な武者ぶりにて、天下にその面目を施しました」
「貴殿にそう言って頂けるのは光栄至極、三好宗家は全てを失ったと思っており申したが、左京大夫様が名を残して下された」
言ってから、天を仰ぎ手を合わせる道意殿。恐らく最初の天下人に対して頭を下げているのだろう。出家し、綺麗に剃り上げたその頭を。
今、父と公方様は微妙な緊張関係にある。勿論敵対はしておらずお互いがお互いにとって必要な相手であることは間違いない。だが、畿内においての優位を得たことで、その後の事を考えるようになったのだ。比叡山焼き討ちに公方様が来たこともそうであるし、今俺がここにいる理由もそうだ。端的に言って、織田家はこの海千山千の古強者に幕府勢力との橋渡しをして貰いたいと思っている。十兵衛殿は坂本に、親父殿は京都の政務で忙しく、俺では余りに経験が足りない。必要な物全てを持っているのがこの男だ。
「以前、六十年余も戦って高々大和一国に過ぎぬ、という話をしましたかな」
是非織田家に御尽力を、と頼む為口を開こうとした丁度その時、道意殿から質問された。
「概ね、そのような話をしたと記憶しておりまする」
道意殿は一つ一つを丁寧に見比べ、本当に熟したものだけをもいでゆく。
「振り返るに、あの時の儂は強欲にございました。今は全てを失い、しかし公方様と弾正忠様に頂いたこの屋敷一つがあれば良し。短い余生を、精々楽しませて頂きます」
完全に、俺がどうしてここに来たのかを分かっている口ぶりであった。そんな自分だから、ちょっとやそっとでは動かないぞという先手だ。
暫く、俺は道意殿の話を聞きながら柿の実取りを手伝った。途中、家の者が一枚の紙を持って走り寄り、それを見せた。道意殿はそれをたっぷり四半時も見て、それから『これへ』と一言。紙に一筆丸を描き家の者を走らせた。
「失礼致した。この道意、文章博士様がこちらに来られた理由をまだしかと尋ねており申さぬ」
柿の実をもいだのち、庭の掃き掃除を始めた道意殿はおもむろに俺に対して口を開いた。丸い頭をペタペタと撫で、若輩の俺に恐縮したかのように腰を低くする。
勿論、道意殿は枯れてなどおらず、老いさらばえてもいない。織田家の現状を全て理解した上で、自分の価値を釣り上げようとしているのだ。全てを失い、引退し、のんびりと余生を過ごしている。そんな自分を召し出すのでしたら、それなりの物を頂けなければ、と、言外に主張している。
「ああいや、大した用などはございませぬ、ただふらりと立ち寄ってみただけ」
そんな道意殿の流れるような誘導に乗るのは得策ではないと俺は一旦話を流す。道意殿が土を壺に入れ、中を見ている。それは何でしょうか、と尋ねてみた。
「慰みに飼っている松虫にござる。このような虫でも、大切に扱えば長生きするものですなあ、もう三年目になり申す」
「そうですか、先程の紙は何か?」
「手紙で囲碁を打っておりまする。相手は公家衆であったり『幕臣』の方であったり、様々です」
海千山千過ぎるなと、俺は溜息を吐きたくなった。話を変えたはずなのに、二つの話の一つは自分は長生きするぞという主張で、もう一つは自分の伝手はまだまだ生きているぞという主張だ。どう足掻いても、安値で自分を売る気はないらしい。
「…………道意殿」
仕方がない。今回俺が父に言われてきたのは弾正少弼を頷かせろ、だ。それが多少の高値になったとしても父は怒るまい。呼びかけて、振り返った道意殿の目の前で、袂に手を入れた。
「何ですかな? これより養生の為灸をこの禿げ頭の頭頂に据えるところなのですが、文章はかっ……!!」
「全てを失い、欲を無くした方なれば不要の物と存ずる」
取り出したるは、此度古渡の陶工達による窯入れ・窯出しにおいて最高傑作と言われた肩衝茶入。茶道に造詣の深い、という言葉では表せぬくらいの達人である道意殿ならば一目でその良し悪しが分かろうというものだ。
「二つに、一つです。我が領地で焼かれたもののうち、一期につき一つ、最高傑作を毎回お譲りする。或いはいらぬ」
無論、前者は織田家に仕えろという事であり後者はここで無欲な老人を続けていろという事である。
ギラリと目を輝かせた日ノ本の老黄忠は、フラフラと何かに操られるようにして近づいてきて、そして俺の手に遮られた。
「そこまでです」
「なぜ!? 手に取ってみねば物の良し悪しなど分かろうはずも」
「無いのならそれはそれでよし。当家はこの肩衝茶入を質に、別の者に声かけいたしまする」
「せめてひと触り!」
「くどうござる」
老師のブラとか贈るぞこの妖怪じじい。
その後、多少のいざこざがあったことは否めないが、概ねこのような経緯でもって、織田家は戦国という時代における最高力量の外交官を得た。体感としてであるが、元亀元年の戦いにおいて道意殿は、二歩退きつつも三歩進み、結果として一歩前進したのではないかとすら思う。




