第五十四話・天下の証
東よりの風が、西に向かって吹く夜だった。
元亀元年十月十一日、織田軍は近江坂本、そして堅田へと進軍し、各所を放火した。目立った抵抗はなく、織田軍の被害はほぼなし、未だ和議や降伏を許されると考えていた比叡山の者達は家族を連れて逃げるか、あるいは家族を連れて比叡山へと登った。
翌、十月十二日、織田軍は比叡山東麓を囲み焼き討ちに準備を固めた。最後に出した使者が伝えた内容は『焼かれたくない書物や物品があるのなら受け取る』であった。降伏や和平については既に語る意味もなしと父は考えているのだ。
「公方様、御着陣にございます」
そうして間もなく焼き討ちという頃になって、織田軍中に予想もしていなかった援軍が現れた。軍中において父が上座を譲る唯一の人、十四代足利将軍、足利義昭公。
「構わぬ、皆そのままで」
三淵藤英殿や細川藤孝殿を伴って現れた公方様は、皆を床几に座らせると大義、と将を労い、この戦に自分の兵も参加させて欲しいと伝えた。
「比叡山を焼く者は初めてではないとはいえ、御父にのみ、悪名を負わせては申し訳がないからのう。街道沿いに三淵・細川の兵を配する故、よしなに」
「お気遣い、かたじけのうございまする」
父は頭を下げ、織田軍・幕府軍は連合して比叡山を攻めることとなった。
「十兵衛も、活躍著しく何より」
「畏れ多いことにございまする。全ては公方様や弾正忠様のお引き立てによるもの」
そう言って、ゆったりとした口調で声をかけてゆく公方様は、成程確かに貴人であった。話をしていると包み込まれるような気持ちになる。父が『頼もしい人』であるのならば公方様は『安心感のある人』といったところだ。
「村井、今は文章博士か、従五位下叙任、誠目出度いことよの」
何人かに声をかけた後、俺にもそう声がかけられた。
「御父に此度産まれた子らは、貴殿と同腹の弟妹とか、織田家は益々安泰、よきかなよきかな」
優し気で、慈しむような口調。父も俺も笑顔で礼を言った。言いながら、どこか似ていると思った。父にではない、十兵衛殿にだ。
十兵衛殿は以前、先代義輝公からも目をかけられたと言っていた。今も、公方義昭様からの覚えは目出度い。兄弟に揃って頼られているという事だ。実の兄であるというのなら恐らく義昭公と義輝公は似ていたのであろう。そして、義昭公と十兵衛殿が似ているという事は、義輝公と十兵衛殿も似ていたのかもしれない。
「皆の戦働きに期待しておる」
俺が益体もないことを考えている間に諸将への声かけを終えた公方様は、最後にそう言って軍議を後にした。本陣の父の横に陣を構え、そこで叡山焼き討ちを御高覧なさるとのことだ。
「帯刀」
軍議の後、父からそっと声をかけられた。分かっているな? という表情で肩を叩かれる。言われるまでもなく、という表情でしっかりと頷いた。
「先陣には貴様と勝三郎、そして八郎右衛門を送る。公方の兵に後れを取るな」
勝三郎とは池田恒興殿、八郎右衛門とは中川重政殿の事だ。
「叡山焼き討ちは織田の手によるもの」
言うと、父が強く頷いた。分かっている。既に兵は動き出した。
戦功を立てる自信はある。俺は直接の火付けには参加しない。大軍でもって攻め登り、火矢や松明で一斉に火を点け、そして山を下る。山道は全て塞ぎ、現れた者は誰であろうと切り捨てる。これだけの事だ。先程公方様が着陣した為、目立つ街道は幕臣が固めることになった。俺達は本来人が通れることの無いけもの道、道なき道に散開しながら獲物がやって来るのを待つ。
「村井様、ここでは手柄の立てようがありませぬ。公方様の軍を追い抜き、前に出た方が良いのでは?」
俺達は比叡山東の裾野の、北寄りに陣を敷いた。堂宇から遠く、道もない。確かにここでは手柄の立てようもないと思うだろう。だが俺は首を横に振った。
「こここそ手柄の立て場所にござる。山を焼いた後、織田軍は道という道を全て塞ぎ申す。なれば、何とか逃げ延びんとする者らは人気無き場所を通ろうとする筈。南の京都は織田家が牛耳っておりまする。ならば逃げるべきは北の浅井領。なりふり構わず逃げ来る坊主達を、我らは待ち伏せし、討ち果たすのでござる」
説明をすると、中川殿だけでなく池田殿もなるほどと頷いた。父から、俺の指示を仰げと言われているらしく、布陣すべき地を幾つか示すとすぐに言った通りにしてくれた。
「此度は殿と公方様、どちらが天下人に近いかを示す争いにござる。一人でも多く、織田が手柄首を上げまする」
「織田と、足利の争いにござるか?」
池田殿がその無骨な顔で思案する。小柄でみっちりと筋肉が詰まった池田恒興殿。分厚い一重の瞼の奥で、ギラギラと功名心が輝いているのがよくわかった。
「左様、これまで延暦寺を焼いたとされる人物は二人。即ち足利義教公、そして管領細川政元様」
六代将軍足利義教公は正確に言えば直接比叡山を焼き討ちにしたわけではない。和議が成立した後、招いた延暦寺の山門使節を捕らえて殺し、それに激怒した僧が堂宇一つと共に抗議の焼身自殺をしたのだ。だが、義教公はその苛烈な御気性から『悪御所』と呼んで恐れられ、それが結果としてあたかも御本人が全山焼き討ちしたような話として広がった。
今一人の下手人、管領細川政元様は明応の政変の際に将軍を挿げ替え、管領として幕政を牛耳り『半将軍』と呼ばれた人物だ。細川京兆家の全盛期を築き日ノ本で並ぶもののない権勢を誇った。
「古より日ノ本の貴人が尊ぶ先例主義と照らし合わせれば、延暦寺を焼き討ちした者とは即ち天下人に最も近き者、天下人と、延暦寺は並び立たぬものと言い換えてもようござる。即ち、此度の焼き討ちにて一体『誰が』延暦寺を焼き打ったのかが肝要。天下万民が殿と公方様、何れが天下に最も近き者であると認識しておるのかが分かり申す。我らはこれを是が非でも『織田弾正忠による』比叡山焼き討ちとせねばなりませぬ」
その為には一つでも多くの首が必要だ。火を点けるのは織田の兵。最も人通りが多い街道には幕臣が配置された。五分と五分であるのなら、俺達の手柄で主導権を引き込むことも可能なはずだ。
「そのこと、殿は」
「勿論ご存じでござる」
「公方様は?」
「ご存知であるから来られたのでありましょう」
中川殿と池田殿に連続して質問をされ、答えた。そう、公方様は分かっている。そして今自分が父の後ろに立つことは良くないという事も理解しやってきた。ということは、既に公方様は本心において父を、織田家を完全に信頼している訳ではないという事だ。そうして、悪名を被らんとしている織田の諸将に対して寛容な態度を見せつけた。もしかすると、あの言葉によって織田家ではなく幕府に忠節を尽くさんと考える武将も現れるかもしれない。矢張り、公方義昭は侮りがたしという事だ。
「足場が悪く、視界も悪い山道において飛び道具は同士討ちを誘発しかねませぬ。又、槍や太刀など、長い得物は木々に邪魔され取り回しが困難にござる。故に、脇差などの短い武器を使うが宜しいかと」
俺は今回、訓練を積んだ精兵を四百連れ、それぞれに太刀よりも短く脇差よりは長い直刀を三振りずつ持たせた。後は不意を突く際の槍が一本ずつ。刀の切れ味など人を二人三人斬れば地に落ちる。五人斬れば棒と変わらない。使えなくなったら遠慮せず捨て置き、次の得物を取って戦えと言ってある。
「少しでも暗闇に慣れておくべきと思います故、焼き討ちが始まったら炎はなるべく見ず視線は伏せておくべきかと」
遠くで叫び声が聞こえる。恐らくもう焼き討ちは始まっただろう。
「同士討ちを避ける為我らは符丁を用意してござる。貴殿らも、何か簡単なものを用意しておかれては如何か」
一通り言うべき事を言い終えると、池田殿が符丁は何であるのかと聞いてきた。隣に布陣するのだから、統一しておいたほうが良かろうとの事だ。
「されば、片方が『焼く』と言わばもう片方が『討つ』と答え申す」
符丁を教えると、二人が黙った。焼き討ち。これから俺達がすることだ。符丁にまでこの言葉を使う俺を恐ろしく感じただろうか。
「お嫌であれば、我らの後方に布陣して頂いて構いませぬ。手柄は三者で分け合い。殿に余計なことを報告するつもりはござらぬ」
気遣い、というよりは気遣いに見せかけた挑発をしてみると、二人とも唇を引き結び、その儀に及ばずと返してきた。そうだろうとも、まだ小身のこの二人、前線に抜擢したのは父に忠実であるからだ。手柄を立てさせ、領地を治めさせ忠実な手駒を増やす。第二第三の伯父上を求めているという事だ。
御武運を、と伝えると、二人が頷き、そして去って行った。山が静かになり、暗くなったと思えたのは僅かな時間で、すぐに山が煌々と輝き悲鳴と怒号が木霊するようになった。
「現れる人間、味方の兵以外悉く敵である」
何度となく伝えて来た確認をすると、景連と古左が頷いた。
遠くにあった悲鳴が近づいて来るのに時間はかからなかった。最初に現れたのは若い僧。これといった財物を持っている訳ではなく、それでいて体力はある。着の身着のまま、ともかく北へ逃げれば何とかなると走り、そして待ち伏せしていた俺達に殺された。
それは戦ではなく一方的な狩りであったが、以前より俺が創意工夫してきた戦法は見事効果を表した。味方には被害らしい被害もなく、獲物を見つけては近づき、取り囲み、殺す。それを繰り返すこと一刻余り。
「三十人程の一団が近づいて参ります」
景連がそう報告してきたのを聞いて、俺は十人程を連れ一団の進行方向を塞ぎにかかった。先回りし、近づいてくる様子を見ると、成程確かに三十人はいる集団だ。身なりの良い肥えた僧がおり、それを囲む者らが箱を背負っている。明らかに高価な物が詰まっていると言わんばかりだ。女の姿もある。僧兵らしい、薙刀を持った者は全体の半分余り。
「どうなさいます?」
「どうもせぬ。これまで通り全員斬る。何を言われても問答無用だ」
周囲も既に味方が取り囲んでいる。先頭には景連が出た。俺は前に出ないようにと言われる。突破されないよう、精々後ろでよく見ておくことにしよう。
戦いは景連の一撃から始まった。先頭を進んでいた僧兵に対し、下から切り上げる景連の一撃。斬られた男は糸が切れたようにそのままバッタリと倒れ、それに続き古渡兵が正面左右から切りかかる。すぐに敵味方入り乱れる乱戦となった。相手にもそこそこの人数がいるので、一方的な狩りとはならないようだ。
「おのれ織田の賊ばらが! 御仏を畏れぬ所業必ずや仏罰が下るぞ!」
どこかで聞いた覚えのある罵倒をする男。恐らくあの首は手柄になるだろう。奴を切れと指示を出す。敵味方の間をスルスルと潜り抜け、肉薄する。
「八百年の歴史を持つ叡山を、僅か一日にして焼き払おうというのか、貴様らの罪……!!」
古左がすれ違いざまに刀を男の腹に刺した。体の奥に置いて来た。とでも言うのが正しい表現に思える、流れるような動きであった。
「八百年の歴史にケチをつけたことはござらぬ。貴殿が産まれてよりしてきた数十年の行いが腐っていたという事。一晩で焼かれるのがお嫌であるのなら一週間かけてゆっくり蒸し焼きにでもして進ぜよう」
斬られ、地面に倒れ伏しながら言葉にならない叫びを繰り返す男に、別の刀を抜き構えた古左が言う。こんな時でもどこか人を笑わせんとしているその言葉に思わず頬を歪ませてしまった。
その男の死をきっかけに、それまで多少は戦いの様相を呈していた場の均衡が崩れた。荷物を置いて逃げ出す者、むしろ荷物を抱えて逃げ出す者。追えと下知するとすぐに複数の男達がその背を追いかけた。
「待たれよ! 女子は関係ない筈!」
殆どの者が逃げ、そして逃げられる程の足を持っていない女達が残された。その女達を守るように一人の僧が立ち塞がる。目元だけを見せ、表情は分からないがその声は俺に向けられている。
「女などここにはおらぬ。やれ!」
「何を仰せか!? この者らが何に見えております!?」
既に女達とその僧は取り囲まれており、ただ一人の僧がそれを守らんと身を挺している。
「鎮護国家の大道場たる比叡山延暦寺に女子などおらぬ! おるとすれば女子の姿に化け、我らの目を欺こうとする僧である!」
「この者らは違いまする!」
「証明する暇とてなし! その者らが誠に女子であったとして、女子の身でありながら山へ入った罪は拭えぬ! いずれにせよ切って捨てる!」
「では罪ある者はこの者らを山へ連れて上がった拙僧にございます! ここにおる女子達は己の情欲を満たそうと欲した拙僧から攫われた者らにございます! 拙僧のみを切り捨て、罪なき彼女らは御救い願いたい!」
「己のみが大罪人と申すか」
舌打ちをした。問答無用で切り捨てるつもりが、いつの間にか対話している。馬鹿者か俺は。俺が話をしている以上周囲の者らも勝手に切りかかるわけにもいかないだろう。
「武器を捨てよ。物もだ」
取り囲むのに最低限の人数以外は包囲を解かせつつ、僧に命じた。僧は手にしていた薙刀を捨て、その場に座る。
「お主の言葉が本当であれば、この女子達は確かに被害者であり罪はない。だがその分お主は四つ裂き、八つ裂きにしても余りある」
「仰せ御尤も、拙僧の命のみでご納得頂きたく」
舌打ちが漏れた。誰が、攫って来た女達を守って命を張るというのか。他の坊主共は逃げ出した。今頃後ろから刺殺されているだろうが、この男だけが逃げ出さず、己の命を捨てて女達を救わんとしている。こんな時になって、手遅れになって、真に尊敬に足る僧を見つけてしまったことは、寧ろ悪運である。
「御坊、貴殿の名は?」
質問していた。質問せざるを得なかった。
「随風と申す」
「随風殿、貴殿命は惜しゅうないのか?」
「惜しゅうござる。然れども、命よりも守らねばならぬものこれ有」
「それが見も知らぬ女共であってもか?」
「我らが堕落により巻き込まれ命を奪われんとする者らを、見捨てて拾った命が一体何の価値を持ちましょうや?」
もう一度舌打ちをした。参った。命を惜しいと思いつつ、それでも守るべきものの為に惜しまぬことの出来る男。俺が尊敬する男だ。この男は。
「匹夫の勇であるな」
だからこそ、俺は吐き捨てるように言った。
「今貴殿が死んで、残された女達が己の足で逃げ切れると思うてか? 捕まって殺されるか、良くて慰み者よ。今その命を賭けることに些かの価値もない」
随風が、下唇を噛み睨み付けて来た。俺は運んでこられた荷物を一つ二つ見比べ、漆の塗られた箱を開けた。思った通り、銭が入っている。紐を通された一貫文。ズシリと重い。だが、大の男が身体に巻き付ければ決して運べぬ重さではない。
「随風殿、貴殿の価値無き命を一つ貸しにしておこう。今我らは東より比叡山を囲んでおる。西に進め。女子の足であっても、二日あれば京へ出られよう。人は二日食わぬくらいでは死なぬ。京に付いたらこの金を使い、その女子達の生活の面倒を見よ。全員の暮らしが安定を見たならばその時死ぬがよい」
一貫文を、随風に投げ渡した。ついでに薙刀と、腰に帯びていた直刀も一本投げる。
「拙僧を助けると申すか?」
「たわけ、貴様に攫われた女子を殺すに忍びないと言うておるのだ」
これ以上話をしていると今後の焼き討ちすらも出来なくなってしまいそうだ。とっとと話を打ち切り、その場を去ることにした。
「行くぞ」
金目のものは全て運び出し、後に父に渡すという命令になっている。荷物を運び、今も戦っている仲間を援護するため、配置に戻る。
「待たれよ! お名前をお聞かせ願いたい!」
随風が聞いてきた。惚けている間に消えてしまいたかったのに。
振り返る。適当に嘘を吐こうかとも思ったが、振り返った先の随風は平伏していた。暫く逡巡してから、結局嘘を吐けず本当の名を言ってしまう。
「村井、重勝と申す」
この日、比叡山の悉くが灰燼に帰した。




