第五十一話・第一次長島攻め
「四万の軍勢で、その三倍の人間が籠る城を包囲するとは前代未聞ですな」
「左様ですな。志摩守殿」
九鬼嘉隆殿の言葉にそう言って返すと嘉隆殿が少々面映ゆそうに笑った。
「まだ正式に叙任したわけではござらぬ。少々気が早い呼び名に御座る」
「殿が貴殿をそう御認めになられたのです。織田家において九鬼家は志摩一国の主に御座る。未だ安定を見ぬ伊勢を南北より、そして陸路海路より封じ込める為、いささかも礼を失してはならぬと、某主君よりきつく言い渡されておりまする」
九鬼家の、というより九鬼嘉隆という人物の生き様は正に戦国の世を絵に書いたようなものである。志摩の国人衆の一員として身を起こし、周囲の領主を攻め志摩一国で最大の勢力となり、同じく戦にて勢力を伸ばした織田家に近づき、そして畿内を征さんとする織田信長から家臣として認められ、未だ公式ではないものの志摩一国の領有と、戦後従五位下の任官をも約束されている。
「まだ長島は寸土として我らの物とはなっており申さぬ。文章博士様、我ら織田水軍に一向門徒討伐の下知を賜りたい」
不機嫌そうに俺に声をかけて来たのは織田家が誇るもう一つの水軍棟梁佐治信方だ。お犬姉さんの夫でもあり、俺とも旧知であるこの男はこれまで水軍が必要な戦であれば自分以外に適任はいないと自認していた。だが、ここに強力な競争相手が現れたことで露骨に対抗意識を燃やしている。俺の傍から離れないこともそうであるし、自らを織田姓で呼ぶことで、自分は準一門であるのだと主張していることもそうだ。
「そう急がれますな佐治殿、命令違反による武功は武功として認められませぬ。雌雄を決する日も、そう遠くはございますまい」
俺と同世代である信方に対し、九鬼嘉隆殿は干支で一廻り程年上である。だが、だからと言って小僧が噛みついて来る、可愛いものだ。などという相手の仕方はしない。佐治殿と一貫して呼んでいるし、睨まれた時には相手が目を逸らすまで必ず睨み返す。今言った雌雄を決すという言葉も、一向宗と、というよりは『九鬼と佐治、どちらの方が優れた水軍衆であるのか』の雌雄について言っているように聞こえた。
「何度か申し上げたことにござるが、九鬼殿は従五位下志摩守。貴殿も犬姫様を妻とする織田家一門衆にござる。某が軽々に下知を下してよい相手ではござらぬ、同格と思って頂きたい」
あえて、信方を織田や佐治と呼ぶことは避け、貴殿と呼んだ。長島はかつて七島とも呼ばれていた川の中州にある多くの孤島を持つ地域の事だ。この島々を織田軍は陸路より二ヶ所、そして海岸線より一カ所、都合三カ所で囲む。俺達は海岸を受け持つ部隊の指揮官という事だ。
「何を仰せか、文章博士様の官職は正式な物、位階においても既に従五位下を得たではありませぬか」
「左様、戦後に約されているとはいえ、某の従五位下も、志摩守も今もって未定にござる。文章博士様の下知に我らは従いますぞ」
言われて苦笑した。文章博士とは官職の一つ。神亀五年(西暦七百二十八年)の格において設置された歴史ある官職だ。位階というものは単純に偉さとでも言うべきもので正一位が頂点に来る。俺は五位に従う者のうちの下である。と表現すればよいだろうか。官職は偉さを示すものではなく職務内容を示すものである。
官位相当という言葉がある。この官職の者であればこの位階であるのが相当であるというものだ。先程の正一位であればこれはもう太政大臣以外にはない。二位であれば左大臣・右大臣・内大臣。従五位下であれば侍従や少輔が有名な所である。俺もその辺りに任じられるのかと思っていたが父が突然『小賢しい貴様には丁度良かろうが』と言い、俺を文章博士に推挙し、認めさせた。文章博士とは大学寮紀伝道の教官であり、文章生に対して漢文学及び中国正史などの歴史学を教授するという職務を行う役職である。当然であり言うまでもないことだが俺にそんな能力はない。代々世襲している貴族家も恐らくあるだろうに。
今の世において官職など持っていても名ばかりで、実務を行っていない殿上人などいくらでもいる。貧乏貴族など、官位を得ることが唯一の趣味であるのにそれを奪って良いものかと寧ろ心配になったのだが、父は金と物とで黙らせたらしい。刃を首に当てて黙らせたわけでない分優しいと言えなくもないが、いずれにせよ今後俺は身に余る官職でもって呼ばれることになる。
「お二人のお気持ちは理解致しましたが、公家の方々にも憚られますのでせめて唐名の翰林学士と呼んで頂けますれば幸いと」
何が違うのかと問われれば何も違わないのだが、博士よりはまだ学士の方が多少は偉ぶった風ではない。
「畏まりました翰林学士様」
「翰林学士様、下知を」
二人が揃って俺に頭を下げる。正式な任官を受けていないとはいえ、それでも同格であるはずの九鬼嘉隆殿や、旧知である信方までもがへりくだって来る理由は勿論ある。此度の戦い、総大将が信広義父上であるのだ。何故そうなったのかについては多少の説明を要する。
石山本願寺・比叡山延暦寺・熊野三山・根来衆・雑賀衆。彼ら宗教勢力に手を焼いた父と公方様は、まず一向宗を禁令とすることでその影響力を少しでも弱めようとした。更に、父と公方様は近頃日ノ本で勢力を伸ばしつつある基督教の布教を正式に認めた。兼ねてより仏教は基督教の事を邪教だと罵って憚らず、一貫して布教を禁じるように求めて来たが、時の征夷大将軍とその最大の庇護者が揃って布教を認めたことは畿内に大きな影響を与えた。
この動きに対し、仏教徒達も黙っていた訳ではない。反キリシタンの急先鋒にして論客でもある日蓮宗の僧・朝山日乗が公方様と父、二人の御前にて基督教との論戦を行い、いかに基督教が邪教であるのかを解き明かしたいと頼んだのだ。フランシスコ・ザビエル。コスメ・デ・トーレス。ガスパル・ヴィレラら、名だたる宣教師達が勢力を伸ばしつつも仏教を越えられなかった理由の一つに論戦の弱さがある。基督教宣教師の頭が悪いという訳ではない。論戦を日ノ本の言葉で行うのであるから、そもそも宣教師達にとって不利な戦いであったのだ。だが公方様も父もこれを認め、御前にて公開討論が行われた。そして、周囲の予想を覆し朝山日乗は論戦に敗北した。殊勲の大勝利を挙げた人物は、ロレンソ了斎なる盲目の琵琶法師であった。
振り返れば、京都地区の基督教布教責任者であるルイス・フロイスが論戦にあっさりと同意したこと、父が御前にての論戦に公方様まで巻き込んだことは勝算あってのことだったのだろう。先立つこと半月、父は二時間にも及ぶルイス・フロイスとの謁見を行っている。この際通訳として同伴していたのが誰あろうロレンソ了斎だ。論戦に勝つことで日蓮宗のみならず仏教の権威を貶めよと父が指示を出していたとしても俺は驚かない。
結果として、朝山日乗は論破されたばかりか逆上して刀を抜き、父の家臣に抑えつけられるという醜態を演じた。この話を織田家臣や幕臣は大いに喧伝し、仏教家の知性も理性もこの程度だと言って回っている。日蓮宗以外の宗派は皆揃って、日蓮宗が敗北しただけで我々は無関係であると言い張っているが、関係があろうがなかろうが、天下万民がどう見たかが重要である。現状、基督教に仏教が負けたという既成事実のみが広がっている。
仏教界を貶めることには成功した父だが、これにより本願寺は再び織田家打倒に動き出す。三好三人衆と河内北半国守護三好義継殿を和睦させ、河内南半国守護畠山昭高を攻めさせた。阿波三好もこれに同調し、三好一族の動きに松永久秀殿も引きずられる形で参戦。大和河内二国は混乱をきたした。石山本願寺は直接的な戦闘こそ行っていないが、勅命講和は僅かに三月で破綻し、織田対本願寺の争いは再開という事になった。
この事態に父は出陣を余儀なくされた。北、浅井朝倉への備え、更に顕如から再三再四の出馬要請を受けている毛利一門を牽制するため、暫くの間は京都方面から動くことは出来ない。そして、織田家の膝元である尾張・伊勢国境の長島攻めの大将には、名代として庶兄信広が据えられた。柴田勝家・佐久間信盛といった譜代衆を中心とした尾張勢、西美濃三人衆や不破光治を中心とした美濃勢がそれぞれ攻め口の一つとなっている。残る一隊が水軍衆だ。
俺が信広義父上の娘婿であることは公的にも間違いのない事実であるので、現在この軍中において俺の立場が高まっていることもまた事実である。それがつまり、二人が俺を上に置き、歓心を得ようとする理由である。
「されば、お二人には某の献策をお聞き頂きたい」
出しゃばって二人にあれこれ指示を出すつもりはなかったが、折角得られた好機であるのならば使おうと口を開く。二人とも声を揃えて何なりとと言って来た。
「この戦にて、長島一向宗を降すことは叶わぬと、某は見ております」
しかし、次の俺の言葉を聞いて二人ともが眉を顰める。それはそうだろう。仮にも一軍を率いる大将の言葉ではない。
「理由は幾つかありますが、最大の理由としては、この囲みでは敵を長島に押し込めることが出来ておりませぬ。敵方には日夜補給の物資が運び込まれ、十年囲んだところで降伏させることは不可能」
十万を超す長島一向宗だが、その大半は女子供老人だ。実際の戦闘を行える者は攻め方の織田軍とほぼ同じ程度だと読んでいる。野戦であれば一蹴することも出来よう。だが、籠城戦の場合、単なる荷運びや怪我の治療、道具の整備に炊き出しと、戦闘で役に立たない者達でも出来る仕事が多くある。食料もあり、石山本願寺も健在である今、城方の者らは手に手を取って励まし合いながら最後まで籠城し続けることを誓っている筈だ。
「無理攻めをしようにも、指揮官には下間一族が入っており申す。これまでのただただ数に任せて押し出すのみの一向宗と同じと思えば手痛い被害を受けましょう」
ならば黙って指を銜えて見ていろと言うのか。二人の表情がそんな風に言っていた。この二人は、馬は合わないかもしれないが性格は似ている。常に乾坤一擲である船上の戦では、自然このような性格のものが大将となるのだろうか。
「故に此度は敵の士気を挫く戦いをし、次節到来の布石を打ちたいと思ってござる」
「士気を挫く?」
「次節到来の布石?」
頷く。そうして俺は伊勢長島の地図を広げ物資の搬入口と思える場所に石を置いた。
「今伊勢長島に荷を運んでいる門徒は漁民であり船の扱いには長けておりますが武士ではありませぬ。立て籠る敵を攻撃するのではなく、この物資を奪い、籠城する者らを飢えさせます」
「常套手段ですな。敵の士気は大いに落ちましょう」
「ですが、布石とはいかなる意味にございますか?」
暴れられる場所を見つけた信方が嬉しそうに呟き、もう少し思慮が深い九鬼嘉隆殿が首を傾げた。
「相手は漁民故、船上での戦いで敗れることは無いでしょう。ですが全滅させることもまた出来ないでしょう。志摩守殿には襲った船を鹵獲し、或いは敵船の後をつけどこから船が出ているのかを探って頂きたいのです」
伊勢志摩の漁民が大半だとは思うが尾張三河の可能性もある。或いは紀伊から来ている者もあり得る。
「もし織田家中の者や伊勢の国人衆に長島への援助を行う者があると分かれば一つずつこれらを潰してゆきます。それが出来ずとも、敵が誰だか分かるだけで打てる手も増えようというもの」
「成程、次回以降の戦いで優位に立つ為の布石、という訳ですな。畏まりました。この九鬼嘉隆、見事布石の役目をはたして御覧に入れる」
こうして、第一次長島攻めが始まり、予想通り織田軍は長島を落とす糸口を掴めないままひと月を過ごすことになる。
「戦果をあげているではないか」
「拙者ではなく、織田水軍衆がですがね」
「お前の指示だろう?」
「最初だけは指示を出しましたが、今は全て信方と志摩守殿の下知ですよ」
ひと月の対陣の後、義父上に呼び出された俺は今後の戦いについて聞かれた。
「ひと月、信方と志摩守殿が働いてくれたお陰で軍費はさほどかかっていない筈です。退去することを条件に講和か、それが出来なければ付け城を築いて撤退が良いのではないでしょうか?」
「殿は目に見える戦果を欲しておるのだ」
義父上の言葉に首を傾げ考える。このひと月の間、せっせと敵の補給路を攻撃してくれた佐治水軍と九鬼水軍のお陰で出費は当初の予定と比べて半分になっている。何しろ得られた敵の食料を味方の糧食として扱っているのだから。坂本・宇佐山の戦いで多くの兵を死なせた俺などは、陸戦が無いと分かって即座に兵を解散させ、今は直属兵二百しか率いていない。故に食事は全て一向宗からご馳走して貰っている状態だ。
「志摩守殿が長島に助力している者達の尻尾を掴みました。それと、不確定ですが近いうちに長島の上層部にある者が何人か死にます。それをもって戦果とすることは出来ませぬか?」
「どういうことだ?」
「本願寺から金が出ていることは当然の事と予想していましたが、それ以外に伊勢や桑名の会合衆が密かに食料を運び込んでおります。一旦兵を引き上げ、彼らを処断しましょう。商人達なら取り潰すことも出来ます」
九鬼嘉隆殿が拿捕した船から発見された書簡を取り出す。見覚えのある名が幾つも乗っている。志摩守殿の手柄ですという言葉と共に義父上に渡しておけばやがてその手柄は父も知るところとなる。
「成程……これについては分かった。だが俺がどういうことか聞いたのは上層部にある者が死ぬというところだ」
「奪った物資に毒を混ぜ、それを改めて運び込ませるという事をしております。十万の人間を殺すような毒はありませぬが、多少の効果は表れている頃でしょう」
夏の盛りを籠城で過ごし、城内では少しずつ不満が溜まっている筈だ。老人や子供が衰弱死するようになれば士気も下がる。毒により、その死者の数を少しでも多くすることが出来れば相手も和睦に動くはずだ。
「毒の入ったものなど、上層部の者は食わぬであろう。毒見役もおる筈だ」
「蜂蜜であれば如何でしょうか?」
運び込まれる物資の大半は米や麦、弓矢や鉄砲といった生きる為に、戦闘の為に必要な物であったが時折こういった贅沢品も運び込まれていた。
「蜂蜜に毒を混ぜたというのか?」
「いえ、毒蜂蜜を作ったという事です」
元はといえば蜂が毒のある花から蜜を吸うことが無いよう注意していたことから思いついたものである。逆に毒の花からのみ蜜を吸わせたらどうなるかを試してみた。今のところ、最も毒性が強いものであっても食べてすぐに死ぬという事にはならないが、大の男が体調を崩す程度の毒性は持たすことに成功した。十万以上も人がいれば衛生状態も悪かろう。体力が落ちた時に、健康体の者でも数日寝込む毒を食らえば、一人二人位は死に至ってもおかしくはないのではあるまいか。
「長島に籠る者らの指導者層が、貴重な甘味を下々の者と分け合う気持ちの持ち主であれば失敗に終わりましょう。ですが、独り占めせんとするような者であれば、やがて仏罰が下りまする」
ニヤリと笑いながら言うと、義父上が表情を引き攣らせた。
「悪辣とお思いですか?」
「……いや、上策だ。それくらいでなければならぬ」
よくやってくれた。と言われ、俺は頭を下げた。これより半月後、織田家は長島の囲いを解き、撤退する。その際にはまだ俺達は知らない事であったが、本願寺より派遣された坊官の下間頼成、斎藤竜興の家臣長井道利が相次いで城中で死亡したという話を後に聞くこととなる。




